武将の墓 | 豊臣秀頼と淀殿自刃の地の慰霊碑 - 秀頼親子、山里曲輪にて自刃!| 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るるん♪ 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、豊臣秀頼と淀殿自刃の地の慰霊碑の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
豊臣秀頼と淀殿 大阪城山里丸 大阪府大阪市中央区大阪城

 

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豊臣秀頼と淀殿自刃の地の碑は大阪城山里丸にあります。
発見難易度★★☆☆☆

くるまr大阪城周辺に有料駐車場があります。


太閤豊臣秀吉の跡取り・豊臣秀頼
豊臣秀頼は天下人・豊臣秀吉の子です。
文禄2年(1593年)生れ。
子宝に恵まれなかった秀吉が57歳の時に授かった第二子で、先に兄は早世しているため、幼くして豊臣家の跡取りとされました。
しかし秀頼の成長を待たずに文禄5年(1596年)秀吉は死去。
秀頼は前田利家加藤清正ら秀吉恩顧の大名に見守られながら大阪城にて成長していくかに思えましたが、慶長4年(1599年)には豊臣政権一の実力者・前田利家が亡くなってしまい、以降、徳川家康は増長し、次第に家康との間で軋轢が生れていきます。

慶長19年(1614年)、大阪の陣が勃発。
徳川と豊臣との決戦が大阪城にて繰り広げられますが、その頃には豊臣恩顧の大名も少なくなり、戦いは徳川方が優勢に進めます。
一時講和が結ばれるものの、翌年に再び大阪にて勃発。
秀頼は母・淀殿と共に大阪城山里丸にて自害して果てました。

※この際に豊臣秀頼は自刃せず鹿児島に落ち延びたという伝説があります。
鹿児島にある豊臣秀頼の墓-1はこちら。
鹿児島にある豊臣秀頼の墓-2はこちら

 

豊臣秀吉の側室で秀頼の母・淀殿
淀は君は豊臣秀吉の側室で秀頼の母です。
永禄12年(1569年)生れか?
母は織田信長の妹・お市。父は浅井長政です。
近江の小谷城で生まれ育ちますが、父・浅井長政は織田信長に反旗を翻し、天正元年(1573年)に攻め込まれて自刃。
母・お市と共に城を落ち、信長のもとへと戻ります。
天正10年(1582年)、本能寺の変後に母・お市は信長の重臣・柴田勝家と再婚。
しかしその翌年、柴田勝家は羽柴秀吉に攻められ、お市と共に自刃して果てます。
その際、淀は二人の妹を連れ、城を落ち延びました。

年頃になった淀は秀吉に見初められ、天正17年(1589年)、鶴松を産みました。
しかし、その2年後に鶴松は死去。
文禄2年(1593年)に第二子・拾(秀頼)を産みました。

 

 

案内板。

 

 

自刃の地にある慰霊碑。

 

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