武将の墓 | 浅井長政の墓 - 徳勝寺!信長と同盟を結ぶも裏切り、戦場の露と消ゆ! | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、浅井長政の墓の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
浅井長政 徳勝寺 滋賀県長浜市平方町872

 

誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(_ _ )m
スマホで地図が表示されない場合、一度前の記事に戻ってもらい再度次の記事を読み込みすると表示されるようです。

浅井長政の墓は徳勝寺にあります。
発見難易度★★☆☆☆
長浜城の近くです。

くるまr駐車場があります。


信長との同盟者からの裏切り、滅亡へ

浅井長政は天文14年(1545年)、久政の嫡男として生まれました。
永禄10年(1567年)、織田信長の妹・お市と浅井長政は婚姻を結び、織田と同盟関係を築きます。
しかしその3年後の永禄13年(1570年)、信長の朝倉義景攻撃に際し、長政は突如反旗を翻し、織田軍の背後から襲い掛かりました。
信長は辛くも逃げきりますが、体勢を立て直すとすぐに反撃を開始。
2か月後、織田・徳川対浅井・朝倉の大規模な合戦が繰り広げられ、浅井・朝倉軍は敗北します(姉川の戦い)。

天正元年(1573年)、信長は3万の軍を率い、浅井領へと攻め込みます。
朝倉義景は援軍に駆け付ける動きを見せますが、逆に信長に自領へと攻め込まれ壊滅していしまいます。
朝倉を滅ぼした織田軍はその勢いのまま浅井領へと攻め込み、長政と父・久政は自刃して果て、浅井家は滅亡しました。
 

 

本堂。

 

 

浅井三代の墓。左から長政、亮政、久政。

 

 

浅井長政の墓。

 


武将の墓めぐり TOPページへ戻る
日本全国の武将の墓を紹介しています。

 

アメブロ以外の方のご意見・ご質問等はこちらまで。
※返信までに時間を要する場合、お答えできかねる場合もございます。ご了承ください。

ライン宣伝07ラインスタンプ作りました。
喜怒哀楽を兜の前立てで表現した可愛い「武将の日々と日常なサムライスタンプ」
かわいい「たぬきサムライのスタンプ」などなど。
気に入ったら使ってくださいね。よろしくお願いします。
スタンプはこちらから。

ブログランキングへ参加中です。ご協力お願いしますm(_ _ )m
パクリはやめましょう!
このブログの記事や画像の無断使用、転載は絶対やめてくださいね。
ご使用等に関してはこちらまでお願いします。

この記事作るのにいろんな史料を調べたり、現地に行って写真撮ったり、時間・お金がたくさんかかってます!
ズルしちゃだめですよ。

© 2010-2023 siro-sengoku-bushou.