武将の墓 | 別所長治の墓(首塚) - 雲龍寺!城兵の飢え、極限に達す!三木の干殺し | 地図付 | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、別所長治の墓(首塚)の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
別所長治 雲龍寺 兵庫県三木市上の丸町9−4

 

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別所長治の墓(首塚)は雲龍寺にあります。
発見難易度★☆☆☆☆

くるまr駐車場があります。


凄惨を極めた「三木の干殺し」

別所長治は播磨の守護・赤松氏の一族で、別所安治の子です。
父の代より織田信長の傘下に入っています。
天正5年(1577年)、羽柴秀吉が大将となり播磨攻めを行います。
長治は当初は従っていたものの、天正6年(1578年)に離反。
毛利と手を結び、三木城に籠りました。
敵は、織田信長の嫡男・信忠が加勢に加わりましたが、長治に次いで荒木村重が離反し、戦況は長治に有利に。
それにより毛利方は新たに摂津経由で兵糧援助を行うことが出来ました。

籠城戦は膠着状態が続きますが、その間に秀吉は支城の攻略をして補給路を断ち、三木城は完全に孤立していきます。
俗にいう「三木の干殺し」によって城では餓死者が続出し、城兵は草木や虫など食べられるものは何でも食べたといいます。
その惨状に長治は遂に観念し、 城兵の命と引き換えに自刃して果てました。
三木城の籠城戦は実に 1年10ヶ月にも及びました。

城後に再建された雲龍寺と別所長治の首塚

寺は三木合戦で消失し、 三木城の開城後に再建されました。
「三木の干殺し」によって城兵は藁をも食べたという言い伝えから、毎年命日の1月17日には藁に見立てたうどんを食べて当時を偲ぶ会が催されているそうです。
別所長治夫妻の首は、安土で織田信長に首実検された後、住職が貰い受け、埋葬されました。

 

雲龍寺。

 

 

本堂。

 

 

別所長治夫妻の墓(首塚)。現在はこの墓前に覆堂みたいなものが建っているようです。

 

同市にある別所長治の霊廟はこちら。

 

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