武将の墓 | 朝倉義景の墓-1 - 一乗谷城!栄華を極めた居城に眠る! | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るるん♪ 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、朝倉義景の墓その1の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
朝倉義景 一乗谷城居館跡 福井県福井市城戸ノ内町

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朝倉義景の墓は一乗谷城居館跡にあります。
発見難易度★☆☆☆☆
唐門を入って右手にあります。

くるまr駐車場があります。


最後の朝倉家当主

朝倉義景(あさくらよしかげ)は越前・朝倉家11代当主です。
天文2年(1533年)、朝倉孝景の嫡男として生まれました。
天文17年(1548年)、父・孝景の逝去により家督を継ぎます。
室町第13代・足利輝より偏諱を 賜り景と名乗りました。

足利義輝が殺害されると、義輝の弟・覚慶(義昭)を一乗谷に迎えます。
これにより次期将軍を擁しての上洛作戦も実行できましたが、不思議なことに義景にはそんな野望はなかったようです。
義昭は遂には義景を見限り、織田信長を頼ることとなります。

永禄11年(1568年)、信長は足利義昭を擁して上洛。
義昭を第15代室町将軍に就任させることに成功します。
信長は足利義昭の命として義景に上洛を求めますが、義景はそれを拒否。 遂に織田との争いへと発展します。
元亀元年(1570年)両者は姉川で激突。
織田・徳川対朝倉・浅井といった大規模な合戦になりましたが、義景は合戦には参加しておらず、そのせいもあって朝倉・浅井連合軍は敗れてしまいます。

その3年後の天正元年(1573年)、信長は義景の居城・一乗谷に攻め込み、一乗谷は炎上。
義景は 家臣に裏切られ自刃して果てました。
 

 

朝倉義景の墓。

 

 

別角度から。

 

 

正面には朝倉家の家紋が。

 

 

扉には桐の門が。

 

 

義景公園の朝倉義景の墓はこちら。

 

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