「武るるん♪ 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、横瀬景繁の墓の紹介です。
人物名 | 墓のある施設 | 住所 |
---|---|---|
横瀬景繁(国経) | 金龍寺 | 群馬県太田市金山町40−1 |
誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(_ _ )m
スマホで地図が表示されない場合、一度前の記事に戻ってもらい再度次の記事を読み込みすると表示されるようです。
横瀬景繁の墓は金龍寺にあります。
発見難易度★★☆☆☆
新田義貞の墓とともにあります。
新田義貞の墓は案内があるので分かるかと思います。
駐車場があります。
発見難易度★★☆☆☆
新田義貞の墓とともにあります。
新田義貞の墓は案内があるので分かるかと思います。
駐車場があります。
関東管領・上杉氏に付き従い転戦
横瀬景繁(よこせかげしげ。または国経)は横瀬成繁の子で、岩松昌純(いわまつまさずみ)の重臣です。
横瀬氏、岩松氏ともに、祖は新田義貞の三男・義宗で、足利氏の傍流に当たります。
父同様、主君・昌純を傀儡と化し、実権を握り続けました。
関東管領・上杉氏に付き従い転戦。
永正11年(1514年)には10代将軍・足利義稙(あしかがよしたね)にも謁見しています。
新田義貞の子孫によって建立された金龍寺
金龍寺は、応永5年(1398年)、岩松満純(新田義貞の三男・義宗の子)が建立しました。
応永24年(1417年)に横瀬貞氏(同じく新田義貞の三男・義宗の子)が新田義貞の遺骨を越前足羽より移し、廟所と定め、木像が安置されました。
その後、金山城主・横瀬氏(のち由良氏)一族の菩提寺となりますが、 天正18年(1590年)に由良氏は転封となり一時期廃寺となります。
その後、館林城主となった榊原康政によって寺は再興されました。
寺へ。
本堂。
色づくのがまだ早かったようです
新田義貞の墓へ。横瀬景繁の墓は新田義貞の墓とともにあります。
横瀬(由良)一族と新田義貞の墓 。
横瀬景繁の墓(中央)。
その他の墓。これも横瀬一族の墓でしょうか
武将の墓めぐり TOPページへ戻る
日本全国の武将の墓を紹介しています。
アメブロ以外の方のご意見・ご質問等はこちらまで。
※返信までに時間を要する場合、お答えできかねる場合もございます。ご了承ください。
youtubeはじめました。
甲冑を着て日本刀で食材をさばき食べます。
チャンネル登録よろしくお願いします。
ラインスタンプ作りました。
喜怒哀楽を兜の前立てで表現した可愛い「武将の日々と日常なサムライスタンプ」、
かわいい「たぬきサムライのスタンプ」などなど。
気に入ったら使ってくださいね。よろしくお願いします。
スタンプはこちらから。
ブログランキングへ参加中です。ご協力お願いしますm(_ _ )m
※返信までに時間を要する場合、お答えできかねる場合もございます。ご了承ください。
youtubeはじめました。
甲冑を着て日本刀で食材をさばき食べます。
チャンネル登録よろしくお願いします。
ラインスタンプ作りました。
喜怒哀楽を兜の前立てで表現した可愛い「武将の日々と日常なサムライスタンプ」、
かわいい「たぬきサムライのスタンプ」などなど。
気に入ったら使ってくださいね。よろしくお願いします。
スタンプはこちらから。
ブログランキングへ参加中です。ご協力お願いしますm(_ _ )m
パクリはやめましょう!
このブログの記事や画像の無断使用、転載は絶対やめてくださいね。
ご使用等に関してはこちらまでお願いします。
この記事作るのにいろんな史料を調べたり、現地に行って写真撮ったり、時間・お金がたくさんかかってます!
ズルしちゃだめですよ。
© 2010-2022 siro-sengoku-bushou.
このブログの記事や画像の無断使用、転載は絶対やめてくださいね。
ご使用等に関してはこちらまでお願いします。
この記事作るのにいろんな史料を調べたり、現地に行って写真撮ったり、時間・お金がたくさんかかってます!
ズルしちゃだめですよ。
© 2010-2022 siro-sengoku-bushou.