織田信長の命日・本能寺の変(旧暦6月2日)がやってきちゃいましたね。
しばらくの間、連載中の、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」 はお休みにして織田信長追悼特集「戦乱の旅-本能寺の変~織田信長の首の行方は?」 を連載します。
炎とともに消えた織田信長の遺骸
1582年6月2日、織田信長は明智光秀の謀反に合い、炎に包まれた本能寺とともに果てました。
信長の遺骸は本能寺とともに灰燼に帰し、光秀は焼け跡から必死になって信長の遺骸を探しますが、発見する事はできませんでした。
遺骸が見つからなかった事は光秀にとって大誤算で、信長の行方が分からぬまま光秀に味方する諸将は少なく、結果、秀吉に敗北を喫してしまいます。
いったい信長の遺骸はどこに消えたのでしょう
数回にわたり、本能寺周辺の史跡や信長の墓などを紹介しながら信長の埋葬地に迫っていきます。
人物名 | 墓のある施設 | 住所 |
---|---|---|
織田信長 | 阿弥陀寺 | 京都府京都市上京区寺町今出川上ル鶴山町14 |
京阪電車「出町柳駅」、市営地下鉄烏丸線「今出川駅」から徒歩10分。
発見難易度★☆☆☆☆
6月2日のみ本堂拝観可。
駐車場があります。
本能寺から信長の首を持ち出した清玉上人
「蓮臺山由緒略記」によりますと、阿弥陀寺住職・清玉上人は本能寺から信長の首を持ち出し、池で洗い清めた後、自身の寺・阿弥陀寺に埋葬したといいます。
詳しくはこちら 。
秀吉、信長の大法要を阿弥陀寺に懇願
本能寺の変から一年後、羽柴秀吉は信長の大法要を阿弥陀寺に懇願しました。
しかし、清玉上人は織田家の実権を握るかのような行為には加担せず、結局は大徳寺にて法要 が執り行なわれる事となります。
秀吉がまず阿弥陀寺を選んだのは、なぜでしょう
信長の首が埋葬されたと知ったからではないでしょうか
秀吉によって移転させられた阿弥陀寺
京都は天正18年(1590)から秀吉によって都市改造が行われ、それに伴い、阿弥陀寺はかつての蓮台野から現在の場所に移転されてしまいました。
その際、寺の埋葬者の遺骨はひとまとめにされ、現在地にて供養されたといいます。
そのため、
今となっては信長の首埋葬伝説の真実を知るすべはありません。
信長の首は家臣たちの遺骸とともに、この地に移され眠っているのでしょうか
…それは、永遠の謎となってしまいました。
少なくとも現在の墓には信長の遺骸は埋葬されていませんでした…。
信長の首はどこへ
…次回は、首の埋葬伝説が残るもう一つの寺、西山本門寺 を訪ねます。
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