織田信長の命日・本能寺の変(旧暦6月2日)が来ちゃいましたね。
しばらくの間、連載中の、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」 はお休みにして織田信長追悼特集「戦乱の旅-本能寺の変~織田信長の首の行方は?」 を連載します。
炎とともに消えた織田信長の遺骸
1582年6月2日、織田信長は明智光秀の謀反に合い、炎に包まれた本能寺とともに果てました。
信長の遺骸は本能寺とともに灰燼に帰し、光秀は焼け跡から必死になって信長の遺骸を探しますが、発見する事はできませんでした。
遺骸が見つからなかった事は光秀にとって大誤算で、信長の行方が分からぬまま光秀に味方する諸将は少なく、結果、秀吉に敗北を喫してしまいます。
いったい信長の遺骸はどこに消えたのでしょう
数回にわたり、本能寺周辺の史跡や信長の墓などを紹介しながら信長の埋葬地に迫っていきます。
関連する人物 | 訪れた施設 | 住所 |
---|---|---|
織田信長、清玉上人 | 織田信長の首洗い井(京都逓信病院内) | 京都府京都市中京区六角町109 |
特に案内等はありません。
※病院の敷地内にありますので、許可をとって下さいね。
駐車場は病院来院者専用です。
本能寺跡よりわずかな距離にある「信長の首洗い井」
本能寺の跡の碑よりわずか2~300m離れた逓信病院の中庭に「信長の首洗い井」はあります。
阿弥陀寺の住職・清玉上人が、信長の首を本能寺から持ち出し、池で洗い清めたと言われる場所ですが、今は水は枯れ、池を囲んでいたであろう石だけが残っています。
本能寺より持ち出された織田信長の遺骨
京都逓信病院のHPによりますと、織田信長の遺骨が持ち出された様子が「蓮臺山由緒略記(れんだいさんゆいしょりゃくき)」という書に記されているようです。
以下、「蓮臺山由緒略記」から要約。
阿弥陀寺の住職・清玉上人が、本能寺の変を聞き急ぎ駆け付けたものの、すでに御殿は焼け明智の軍勢が四方を取り囲んでいた。
清玉上人は裏道より辛うじて境内へと入るが信長はすでに自刃した後で、某侍が信長の遺言「光秀に遺骸を渡すべからず」を守り持ち出そうとするも敵中から抜け出す事叶わず、しかたなく傍らの竹林で遺骸を火葬をしていた。
清玉上人は某侍に、信長の火葬と供養もするので、あなたは敵と戦ってくださいと言い侍たちが戦っている間に火葬を終え、遺骨を法衣に包んで本能寺の僧に紛れて脱出。阿弥陀寺へ持ち帰った。
という事です。
「信長の首洗い井」がある意味
京都逓信病院のHPにも記されていましたが、遺骨(遺灰)にするには現在の火葬でさえ高温で長時間掛かります。
薪のみで明智の兵に見つからないような短時間で遺骨(遺灰)にするのは少し無理なような気がします。
火薬を使えば可能なのかもしれませんが、遺骸が吹き飛んじゃいそうですしね。
で、ここからは推測ですけど、
信長の遺骸を焼いたものの、灰にはならず、仕方なく首だけを持ち出したのではないでしょうか。
灰にはならなかったとしたら、明智の目を盗み身体すべてを持ちだすのは不可能でしょうしね。
この「信長の首洗い井」は、「蓮臺山由緒略記」とともに、信長の遺骸は消え去ったのではなく、明智に見つからずに首だけが持ち出されたという証拠となる割と重要な場所だと思います。
そういう意味ではあまり知られていないのは残念ですね。
織田信長の遺骸は焼失したのではなく、首だけ持ち出されたという話が出てきました。
では、信長の首はいったいどこへ
次回は清玉上人が住職を務める阿弥陀寺 を訪れます。
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