織田信長の命日・本能寺の変(旧暦6月2日)が来ちゃいましたね。
しばらくの間、連載中の、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」 はお休みにして織田信長追悼特集「戦乱の旅-本能寺の変~織田信長の首の行方は?」 を連載します。
炎とともに消えた織田信長の遺骸
1582年6月2日、織田信長は明智光秀の謀反に合い、炎に包まれた本能寺とともに果てました。
信長の遺骸は本能寺とともに灰燼に帰し、光秀は焼け跡から必死になって信長の遺骸を探しますが、発見する事はできませんでした。
遺骸が見つからなかった事は光秀にとって大誤算で、信長の行方が分からぬまま光秀に味方する諸将は少なく、結果、秀吉に敗北を喫してしまいます。
いったい信長の遺骸はどこに消えたのでしょう
数回にわたり、本能寺周辺の史跡や信長の墓などを紹介しながら信長の埋葬地に迫っていきます。
人物名 | 墓のある施設 | 住所 |
---|---|---|
織田信長、織田信忠 | 崇福寺 | 岐阜県岐阜市長良福光 |
もよりバス停・長良川国際会議場北口。
拝観料:大人200円。
発見難易度★☆☆☆☆
駐車場があります。
岐阜入城以来の織田家の菩提寺・崇福寺
崇福寺(そうふくじ)は信長が岐阜に入って以来の織田家の菩提寺です。
本堂には信長の書状や愛用の櫓時計、清洲城の鯱など、信長ゆかりの品々が展示されています。
また、本堂の天井には「血天井」があります。
関ヶ原の戦いの際に信長の孫・秀信が守る岐阜城で戦死した兵士達の血痕が残る床板を供養のために天井に使用してあり、今でも鎧の跡がくっきり残っています。
境内には稲葉一鉄寄進の梵鐘もあります。
拝観料は200円です。
左が信忠で「大雲院殿三品羽林高岩大禅定門」、
右が信長で「総見院殿贈一品大相圀泰岩大居士」と刻まれています。
高さは139cm、幅39cm、厚さ30cmだそうです。
信長の首の埋葬伝説が残る崇福寺
信長の側室お鍋の方は、本能寺の変の四日後に崇福寺に位牌を安置するよう手紙を送っています。
その際に遺品も送られてきたようで、寺では遺品を埋葬して位牌を安置し信長親子を弔いました。
つまり崇福寺はどこよりも早く信長親子が弔われた寺なんですね。
墓には信長親子の遺品が埋葬されたそうですが、もう一つの言い伝えがあるんです。
それは、お鍋の方が密かに信長の首を持ち帰り、埋葬したという言い伝えです。
信長の首は灰燼と帰さず持ち去られたか
信長の首が埋葬されたと伝わる地は、その他、京都阿弥陀寺、静岡県西山本門寺にもあります。
…首を埋めたとされる地があるのはなぜでしょうか
信長の遺骸は本能寺とともに灰燼に帰したわけではなく、首だけが密かに持ち出されたのではないでしょうか
…次回は、それを裏付ける伝説が残る地、信長の首を洗ったと言われる信長の首洗い井 を紹介します。
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