あらゆるものには二極あるという、

積極消極の法則についてまとめてご紹介してきました。

 

(四)積極消極の法則

積極・消極(プラスマイナス)の二極がないと
何物も存在することは出来ない。

あらゆるものに二極があることが創造構成の基本法則である。

 

「秘教真義」(M・ドーリル博士著) より

 

積極消極の法則について1

積極消極の法則について2

積極消極の法則について3

積極消極の法則について4

積極消極の法則について5

積極消極の法則について6

積極消極の法則について7

積極消極の法則について8

積極消極の法則について9

積極消極の法則について10

積極消極の法則について11

積極消極の法則について12

という記事の続きです。

 

 

「秘教真義」(M・ドーリル博士著) の、

「陰と陽の極」という箇所をご紹介しました。

 

 

両極あるのを同時に捉える様になると、

バランスの取れた状態になってきます。

普段から、何かを考えた時に、

ひっくり返してみるようにします。

何かをポジティブに捉えた時には、

ネガティブな捉え方もあるのだから、

それはどんな考えだろうと探してみる、

私の立ち位置からの考えはこうだけど、

別の人からだとどうだろうかと、想像してみる。

 

勿論、他の人の考えは、

実際には正確に理解することは出来ません。

 

例えば、自分の好きな花を、

誰かが嫌いだとして、

その理由を聞くとします。

派手だから嫌いだとしても、

その派手というのがどういうものなのか、

どの程度を派手というのか、

自分の分かる範囲で想像するだけで、

相手の伝えている派手が、

詳細に理解出来ることはありません。

感じ方は人それぞれ違いますよね。

今まで培ってきたものの上に出来上がっていくものだから、

全く同じ人生を歩んでいる人は、

一人もいないから、

違うのは当たり前です。

そもそも理解する必要などないですよね。

 

相手は花が嫌いなのだと受け止めて、

理由を話すなら聞けばいいし、

話さない時も、

そうなのねと尊重すればいいだけですよね。

 

もし、どんなにその花が素晴らしいかを説明して、

相手にその花の善さを知ってもらおうとか、

好きになってもらおうと思うとしたら、

それは傲慢であって、押し付けです。

 

あなたは嫌いなのね、

私は好きです、

こんな理由で好きですというのなら、

相手が聞いてくれる場合は、

話せばいいと思います。

 

でも伝えることによって、

相手の考えを変えようとするなら、

それは両極を捉えた状態とは言えません。

自分の好きが絶対的に善いのだという、

固定観念に囚われています。

 

この時、自分の固定観念に気付くきっかけが、

自分の好きな花の善さを知ってもらいたい、

好きになってもらいたい、

どうして嫌いなんだろう、

信じられない、

あの花の善さが分からないなんて、

可哀想だといった様な、

様々な感情です。

 

自分に湧き上った感情を観察すると、

拘りが見えてきます。

相手の嫌いを許せない自分。

何故、許せないのか。

 

ここでまたひっくり返してみて、

自分が嫌いなものを、

誰かに延々とどんなに素晴らしいかと、

説明されて、

あなたと対話してお互いの理解を深めたい、

と言いながら、

こちらの嫌いについては全く理解をされず、

好きこそ正義という様に、

好きになることを勧められたとしたら、

どう感じるか。

自分ならどうするか。

と想像してみます。

 

もし不快な気分になったり、

絶対に好きにはならないと思うなら、

それはそっくりそのまま、

相手の気持ちかもしれない。

 

今まで生きて来た中で、

しつこくしつこく食い下がれば、

相手の人もそうだねと、

受け入れてくれたこともあったでしょう。

その度に、自分は正しいという確信を、

積み重ねてきたかもしれません。

でも、全ての人がそうかと言えば、

苦言を呈してきたり、

離れていったり、

喧嘩になった人もいたでしょう。

もし、その人たちは間違っているのだ、

全くこちらのことを理解していないと思うなら、

両極は捉えていません。

相手の方も、同じ様に考えて、

理解を得ることは出来なかったわ、

せっかく忠告したのに全く聞く耳を持たないわと、
呆れていたかもしれません。
 
自分に迎合してくれる人だけを集めて、
反対する人には、
考えを改めて欲しくて、
執拗に絡んだとしたら、
偏った考えの人しか周囲にいないことになります。
裸の王様を作り上げるのは、
裸の王様自身だけではなくて、
周囲の人達との共同作業ですよね。
 

このブログ記事が

スピリチュアルをテーマにしたものではなく、

料理をテーマにしたものだとすると、

私は料理研究家とかではなくて、
料理研究家が考案したレシピを、
ネットや本から選んで料理し、

美味しかったものを紹介している一般人の様なものですと、

以前書きました。

レシピを考案した人と、

料理名、材料、手順や、感想や注意点などを、

紹介しているのと同じです。

 
同じ様なことをする人の、
参考になればいいなと思っているのだけれども、

レシピを見ながら料理を作ることはない、

レシピなんて必要ないわ!という人には、

伝えているつもりはないのよね。

 

だって、ここを読んでも試すことはない訳ですよね?

何で、必要ないものをわざわざ読みにくるの?

と思います。

でも、作らないにも関わらず、

読んでいるから、つい話題に出しちゃう。
よく知らんけど、あの料理のレシピが―、
上っ面だけ、つい乗っかってしまう。
浅いですよね。
せめて作ってから言って欲しいなと思います。
 

例えば、ブログも読まないし

スピ系の情報もよく知らないと言う人が、
ここを読んでいるんだろうなという反応を見せた時、
私は嘘を吐いたんだなと思います。
証拠はないけれども、
そうやって都合の悪いことは隠して、
印象を操作したり、誘導したり、
装ったりする。
 
デマやフェイクを厳しく追及するのに、
自分の嘘やいい加減さには甘い。
 
他人には徹底的に反論するのに、
自分を振り返ってみて、
同じことを人に言われたら、
聞く耳を持たない。
だったら他の人も同じ様に、
あなたが何を伝えたって、
聞く耳を持たないかもしれないですよね。
 
 
何度もご紹介していますが、
下記の「許容し可能にする」という説明があります。
 
わたしたちが何よりもあなたがたに
思い出させてあげたいと思うのは、
この「許容し可能にする術」における
あなたがたの役割だ。

この「法則」を十分に理解して実際に適用すれば、
すべてが思いどおりになる。

言い換えれば、「引き寄せの法則」は
あなたがたが理解しようとしまいと存在する。

常にあなたがたに作用し、
あなたがたが考えることに
いつも正確に対応した結果をもたらす。

だが「許容し可能にする術」を
意図的に適用するには、
自分がどう感じているかを常に意識し、
思考の方向を選ばなくてはならない。

この「法則」を理解できるかどうかで、
「意図的に」創造するか、
「惰性で」創造するかが決まる。

「許容し可能にする術」を「引き寄せの法則」
「意図的な創造の方法論」の次にもってきたのは、
前の二つの法則を理解できなければ
「許容し可能にする術」は始められないからだ。

「許容し可能にする術」とわたしたちが言うのは、
次のようなことである。

わたしはわたしであり、
わたしはありのままの自分に喜びを感じて、
楽しんでいる。

あなたはあなたであり、
たぶんわたしと違うだろうが、
それもそれでよろしい。

なぜなら、
わたしたちの間に劇的な相違があっても、
わたしは自分が欲することに焦点を定めることができるし、
自分に不快感をもたらすことに
焦点を定めるほど愚かではないから、
ネガティブな暗い感情に苦しめられることはない。

わたしは「許容し可能にする術」を
現実に適用する者として
この物質世界にやってきたのは、
自分が思う「真実」に
全員を従わさせるためではないことを
理解している。

また画一性や同一性を促進するために
やってきたものでもない。

同一性、画一性には、
創造性を刺激する多様性がないことが
理解できないほど愚かではないからだ。

画一性の実現に焦点を定めれば、
わたしは創造の継続ではなく
終焉に向かうことになるだろう。

だから「許容し可能にする術」は、
この地球と地球上の種
さらには
この宇宙自体の存続あるいは生存に
どうしても欠かせないし、
その存続はすべての「源(ソース)」の幅広い視点から
力強く認められている。

物質世界の視点に立っているあなたがたは、
自分自身の成長、拡大を認めないかもしれないが、
そのときには自分が腐りかけているような
嫌な気分になるだろう。

そして他人の成長、拡大を認めないときにも、
自分が腐りかけているような嫌な気分になるはずだ。

気がかりな状況を見て、
しかしそれを止めたり変えたりするために
努力するのではなく、
放っておこうと思うとき、
あなたはその状況を「我慢」している。

これは「許容し可能にする」こととはまったく違う。

「許容し可能にする」とは、
自分と「内なる存在」とのつながりを
維持し続けられる物事の見方を探す術だ。

それはこの時空という現実の世界にちりばめられた
データのなかを選択的に移動しながら、
心地よい物事に焦点を定めることで実現できる。

つまり「感情というナビゲーションシステム」を活用して、
思考が向く方向を決定するということだ。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より
 
両極を同時に捉えることが出来る様になると、
私はこう考えるけれども、
対極にある様な別の考えをする人もいるだろうなと、
何かを考える傍から、
反対の可能性も想像出来るようになるのです。
でも、自分はこちらを採用する。
他の人は違うかもしれない。
それはそれでいい。
両極あるのだから、当然のことだ、
と受け入れられるようになります。
 
 
現実的な生活に対して、
SNSなどのインターネット上のサービスは、
虚構とも言えると思います。
 

娘の同級生で不登校気味なんだけど、

SNSの投稿は活発という子が何人かいます。
自分が歌ったり踊ったりする動画や、
ライブ配信を、
みんなが授業を受けている時に投稿していて、
それをクラスの子たちでよく見るそうです。
 
中学生の時は、ライブ配信を聞いて欲しいと、
友達に頼まれたと言ったことがあって、
娘と話し合ったことがあります。
 
SNSは手軽に承認欲求を満たしてくれるから、
大人でも依存してしまう人が多いですよね。
 
もしネットがなければ、
承認欲求を満たす為に、
勉強を頑張ったり、運動を頑張ったり、
部活を頑張ったりしますよね。
娘は高校生になってお洒落に気合を入れていて、
毎日、明日はどんな髪型にしようかなと練習したり、
メイクの研究をするとか、
脚痩せの運動をするとかやっています。
友達に褒められると嬉しいみたいだし、
承認欲求も満たされている様です。
そういう努力や工夫をしなくても、
割と簡単に得られてしまうのが、
SNSかなと思います。
逆に悪意を受けることもありますが…。
 
子どもの未熟な精神には、
刺激が強すぎると感じるので、
私が許可した範囲内で、時間を決めて聞く事、
一緒にやろうと誘われても、
不特定多数の人には公開せずに、
自分と友達二人だけで話す事、
といった約束をしました。
ライブ配信をしている友達の親は、
それを知っているのか、

隠れてやっているのかは分からないのだけど、

その子は、
沢山の人に好意的に評価してもらったり、
自分のことをあれこれ話したりするのが、
楽しい様子でした。
 
でも、現実的には、
不登校気味で、よく泣いていたり、
具合が悪くなって帰ってしまったりで、
とても不安定なんだよね。
友達関係もトラブルが多くて、
娘も何度か巻き込まれたのだけど、
虚言が多いっていうのかな、
大きいことを言ったり、
仲良しの友達の関係を壊す様な、
嘘を双方に吹き込んだり、
という感じで、
あちこちでバレて仲違いしている子が多いそう。
 
学校が辛いからSNSに逃げ込んじゃうのか、
元々現実の自分と理想の自分とのギャップがあって、
SNSで演じる自分の方が心地よいのか。
私が親ならもっと注意して見てあげて、
出来るだけSNSに依存しない様に、
現実的な対処が出来る様、
学校で抱えている問題を解決する方向に、
先生に相談などして動くなと思うのだけど。
学校の様子を知らないのか、放置しているのか。
学校を休んだことは、親も知っているだろうけど、
ライブ配信には熱中している娘を喜んでいるのか。
周囲からは腫れ物の様に扱われているのだけど、
そのままにしていいのかな?と思っていました。
何が地雷か分からないから、遠巻きに見ている感じなのね。
娘が、同じ高校に進学した友達に聞いたら、
やっぱり高校でも不登校気味らしいとのこと。

 

学校に通うべき!と思っている訳ではなくて、

根本的に悩みとか苦しみを抱えているのではないかな?
と感じています。
SNSをやっても解消できるものじゃないでしょう。
現実的に親や学校の先生など、
身近で状況がある程度把握出来る大人が、
介入した方がよいのではと思うのね。

ツイッターで見かけたある方は、
子どもたちが個人的な相談をしてきた時には、
見ず知らずの私にではなく、
身近な信頼できる大人、
親や先生に相談しなさいと、
突き放すそうですが、
良心的で理想的な対応だと感じます。
冷たいと怒る人もいるのでしょうけど、
張り切って相談に乗るような、
自己顕示欲の強い、
思い込みの激しい、
無責任な大人と関わるより、
より現実的で最善な選択を、
子どもたちには取って欲しいですよね。
 
娘の高校の同級生でも、
SNSの投稿は盛んだけど、
学校を休みがちな子がいて、
ちょっと話を聞いていると異様だと感じます。

 

地雷系を目指したいとのことで、

メンヘラっぽい言動をするのだけど、

それを知っているのは、

直接話して聞いたのではなくて、
SNSで発信しているからで、
クラスのほとんどの子たちが見ているそう。

クラスでは、浮いている感じなんだけど、

いじめとか仲間外れにしたいのではなくて、
本人がそうしたいらしい。
SNSでぼっち発言をしていたから、
クラスの女子が心配して積極的に声を掛けて、
仲良くしようとしたんだけど、
SNSではそれを隠してぼっちなの~とやるのだと。
だから、距離を置くしかないみたいね。
遅刻や欠席が多くて、

教室の中で誰とも話さずにぼんやりしている。

でも、SNSではおしゃべり。
よく質問箱を置いていて、
今までの彼氏の数とか、好きなこととかを、
発信しているので、
クラスのみんなは、その子の事(SNS上の設定)を、
詳しく知っているのだけど、
現実的に話して知っている訳ではなくて、
実際の本人の印象とSNSの印象は結構違う…みたいなね、

誰とも喋らないのに、皆がSNSをチェックしていて、

その子の事に詳しいとか怖くないですか?

今日も学校を休んで、とあるテーマパークに行っているって、
投稿で知って、
でも誰も直接教えてもらった子はいない…とか。
 
娘の担任の先生が凄くいい先生で、
小中学生の3人の子どもがいるお父さんなので、
生徒たちにとっても父親の様な態度で接してくれて、
気軽に色々相談できるそう。
娘も先日、放課後に先生に時間を作ってもらって、
相談してきたと言っていて、
先生の方で対応できることと、
本人に頑張って欲しいことを話したそう。
今日は具体的に対応してくれたと喜んでいたし、
相談してからまめに声を掛けてくれて、
様子を見てくれているのも分かって、
安心してお任せしています。
だから、もし悩みがあるなら、
先生に相談しても良さそうだし、
学校全体が和気藹々とした雰囲気があって、
それぞれマイペースというか、
高校生になるとそれなりに大人になるから、
それぞれ個性として見る様になって、
いじめみたいな暗い感じはないと思うのよね。

わりと誰とでも仲良く出来そうだから、

本当にクラスが居心地が悪いということがあるなら、
相談して改善できるだろうけど。
本人が喜んでぼっちになって、

みんなに馴染めないちょっとメンヘラな私を、

演じてしまっている状態。

SNSに依存し過ぎているというか、

現実と虚構が曖昧になっているというか。

 

こういう子を見ていても、
もうちょっと一番身近な親が、
気に掛けてあげればいいのになと思います。
 
親の中には自分自身がSNSに依存してしまって、
子どもの投稿を後押ししたり、
喜んでいるケースもあるしね。
 
気晴らしとか情報収集とか、
遊び感覚ならいいんだけれども、
自分の中心になって、
現実的な生活と、
虚構であるネットに発信している生活が、
ひっくり返ってしまっている人もいますよね。
 
例えば娘の場合は、
自分が許可した人たちだけに公開していて、
友達と出掛けた様子とか、
気に入ったものの画像とか動画を、
投稿して、それについて仲良しの子達と、
日常の延長で会話をしています。
進学で別々の学校になって、
頻繁に会えない友達とも、
近況を知らせ合える様な感じで、
便利だよねと思うのね。
現実的な生活の中に、組み込まれている、
道具として利用しているだけで、
SNSが自分の中心になっている訳ではない。
現実的な生活が楽しいと言っているしね。
多少、SNSでは自分が見せたい部分を選んだり、
取り繕ったりはするだろうけれども、
SNS用のキャラクターを作り上げる程ではないのよ。
 
でも、本当の自分を出せるのは、
ネットの中だけとか、
信頼出来る人はネット上にしかいないとか、
バランスが悪いなと感じます。
ネット上ではやっぱり不特定多数の人の目を、
意識するのだから、
ありのままを曝け出していますとはいかないよね。
 

個人情報を自ら発信してしまうのは、

無防備ですよ、
現実的に駅前など人の多いところに、
自分の顔写真と住所や電話番号を書いた紙を、
貼って見せたりしないですよね。
といった形で、
現実と虚構の違いを考えることがありますよね。
ネットだからって何でもありではなくて、
現実と同じ様に注意深くしてねとか、
簡単によく知らない人を信用しないでねとか、
現実生活で言えない様な悪口とかを、
ネットで書き込んだりしない様にとか。
 
でも、ひっくり返った人というのは、
これもひっくり返ってしまいます。
 
現実的な人間関係よりも、
虚構のネット上の人間関係を重視する人も、
多くなっていますよね、
という話があるとしたら、
そうなのよ!
だからネット上の人間関係も、
現実の人間関係の様に、
しっかり向き合って対話していきたい!
みたいに変換されるのよね。
したきゃすればいいんだけど、
それは虚構であるネットの話だよね。
今目の前の、現実的な生活の、
人間関係を大事に、
疎かにしないようにしようねって話を、
意味を変えて受け取って、

捻じ曲げてしまう。

 

虚構だけど、現実的な生活と同じ様に、

相手を尊重して丁寧に接するとか、
踏み込み過ぎない様に境界線を引くとか、
言葉を選ぶとか、
そういうのは勿論、大事だけど、
話がすり替わっていく。
 
イソップ寓話に犬と肉というお話がありますよね。
橋を渡っている犬が、
川の水面に映った自分に対してワンと吠えたら、
咥えていたものを落としてしまった。
 
鏡に映った自分だと気付かずに、
いつまでもいつまでも、
吠え続けている人がいます。
いくら吠えても、映している姿は、
自分なので、変わることはないでしょう。
その仕組みに気付くと、
また現実も変わってきます。
 
今の自分を客観的に見て、
両極を捉えているのか、
捉えていないのなら、
その考えをひっくり返して、
対極の考えを探してみる。
繰り返すことで視野が拡がります。
 
これが統合意識を構築していくことで、

銀河ネットワークさんの過去の記事では、

”統合領域の意識とは、三次元的に表現するのはとても難しいのですが、
要約すれば物事を複数領域の視点(意識・感情)を

同時に意識しながら物事を理解するということです。
(左右中心・陰陽統合など相反するエネルギーを

各々すべて同時に理解するということです。)”

という様な説明をされていました。

 
これは多次元的な意識領域の解釈でもあります。
 
和音の例えだと、
いくつかの異なる音を同時に鳴らしているとして、
その全ての音を全部把握出来ている状態です。
 
 
「エメラルドタブレット」
(アトランティス人トート著/M・ドーリル博士編)には
 
このタブレットに書かれている智恵は古代神秘の基本であり、
目が開き、心が開けた者が読めば、
その人の智恵を百倍にも増してくれるであろう。
 
と序言にあります。
また、
 
とにかく読みなさい。
信じようが信じまいが読みなさい。
さすればその文章の中の振動があなたの魂に感応をめざすことであろう
 
ともあります。
また、訳者(林鐵造先生)はしがきには
 
ドーリル師は本書を百遍読んで
その振動を受けよと言っておられる。

日本流に言えば
その行間を読めということであろう。
 
といった説明もあります。
 
ツイッターでいくら書いても、
理解出来ない!と逆切れする人がいるので、
ブログ記事にテーマ別に書くようにしたのですが、
その様な人が言うには、
初心者に優しくない、上から目線、
知ってて当然みたいな感じで突き放す、
ということです。
なんか、みんなが同じ様に、
足並みを揃えて、
同じ分量を理解出来るようにすべき!
という思い込みを押し付けるタイプの人も、
いるんですよね。
 
上記で、
 
わたしはわたしであり、
わたしはありのままの自分に喜びを感じて、
楽しんでいる。

あなたはあなたであり、
たぶんわたしと違うだろうが、
それもそれでよろしい。

なぜなら、
わたしたちの間に劇的な相違があっても、
わたしは自分が欲することに焦点を定めることができるし、
自分に不快感をもたらすことに
焦点を定めるほど愚かではないから、
ネガティブな暗い感情に苦しめられることはない。

わたしは「許容し可能にする術」を
現実に適用する者として
この物質世界にやってきたのは、
自分が思う「真実」に
全員を従わさせるためではないことを
理解している。

また画一性や同一性を促進するために
やってきたものでもない。

同一性、画一性には、
創造性を刺激する多様性がないことが
理解できないほど愚かではないからだ。

画一性の実現に焦点を定めれば、
わたしは創造の継続ではなく
終焉に向かうことになるだろう。

だから「許容し可能にする術」は、
この地球と地球上の種
さらには
この宇宙自体の存続あるいは生存に
どうしても欠かせないし、
その存続はすべての「源(ソース)」の幅広い視点から
力強く認められている。
 
「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より
 
という箇所をご紹介しています。
みんな同じ!を強要するのは、
”同一性、画一性”を強要することで、
”創造性を刺激する多様性がない”為に、
”創造の継続ではなく
終焉に向かうことになるだろう”ということです。
 
私が進みたい方向と比べると、
そういう人達というのは、
ひっくり返って見えるのです。
反対側の人達ですね。
でも、私と違うけれども、

それもそれでよろしいと思いますよ。
多様性には必要なことで、

それが創造に繋がるんですよ。

あなたの様な反対側の人を知ることで、

さらに私に気付きが訪れます。

 

銀河ネットワークささんの、東京という記事では、

”行間認識スキル”といった表現が出てきます。
 
高次領域を低次領域に情報を保存させる場合、
図形・数字・文字(比喩)等に周波数変換を行います。
これらの情報を受信・解析するには、
対象物の不可視的な本質情報を理解する
行間認識スキルが必要になります。
行間認識スキルは意識レベルに応じて異なります。
 
「22を超えてゆけ」(辻麻里子著)には、下記の様な説明があります。
 
……もし、あなたが本当にこの文字を読めないというのなら、
あなたは今、この紙に書かれた言葉を、
受け取る時期ではないのです。

ただそれだけのことですよ。

なぜなら、文字とは、おのおのの霊的レベルに応じて、
それぞれの感性によって読むものだからです。

宇宙言語とは表面をなでるだけではなく、
その裏に隠されている意味を堀りあてなければ理解できません。

一つの単語にも何層にも意味が連なっているのです。

あなたの言語に置き換えれば、
比喩的な表現・たとえ話、同音異義語・同じ音の違う意味の言葉にも
注意を払わなければいけないということです。
 
また、下記の様な説明もあります。
 
宇宙共通の光の言語を理解しない地球人類と
コンタクトをとる場合は、

幾何学模様、図形、数字、方程式
などを用いることが多いのだ。

光の言語や方程式の深淵に隠された意味を
理解できれば良いのだが、
それがダメな場合は比喩的な表現を用い、
それでも通じないならば、
比喩の比喩を使い、それでもダメなら比喩の比喩の比喩、
たとえ話の、たとえ話の、たとえ話を……。

最終的には本来の意味など原形をとどめていないことだろう。
 
私的には、理解しやすいように、
例えを用いるのですが、
例えを用いることで、
理解出来ないという人も居ます。
想像力が欠如しているのですが、
霊的なレベルによって、
読み取れるものと読み取れないものがあるのです。
 
”……もし、あなたが本当にこの文字を読めないというのなら、
あなたは今、この紙に書かれた言葉を、
受け取る時期ではないのです。
ただそれだけのことですよ。
なぜなら、文字とは、おのおのの霊的レベルに応じて、
それぞれの感性によって読むものだからです。”
ということね。
 
分からないから、分かる様に教えてくれ!
ということが、
どれほど傲慢なことなのか、
あなたには理解出来ないでしょう。
 
言い換えれば、
分かるように私の霊的なレベルを上げてくれ!
何の苦労もなく簡単に、他力本願で上げて欲しい!
ということになります。
 
出来ることと出来ないことがあります。
私の出来る範囲と、
あなたが自分で行なう範囲の、
境界線があります。
あなたの問題は自分で解決して下さい。