あらゆるものには二極あるという、

積極消極の法則についてまとめてご紹介しています。

 

(四)積極消極の法則

積極・消極(プラスマイナス)の二極がないと
何物も存在することは出来ない。

あらゆるものに二極があることが創造構成の基本法則である。

 

「秘教真義」(M・ドーリル博士著) より

 

積極消極の法則について1

積極消極の法則について2

という記事の続きです。

 

積極消極の法則について2

という記事で、内観する時には、
”人目を気にしない様にする必要があるので、

いちいち公開する、発信するのをやめましょう。”

と書きました。

 

人に言わない伝えないことは、

不正直であるということではないです。

嘘を吐く、人を騙すということでもないです。

人に話す事、ネットで公開することと、

しないことを分けるということです。

 

シェアした方が、他の人達にも有益なら、

伝えればいいし、

自分自身の内面については、

何でも曝け出す必要などないし、

誰かに知ってもらう必要もないのです。

 

もし、何でも自分のありのままを、

人に伝えなくてはいけないと思い込んでいるとしたら、

それはどうしてでしょうか?

逆に、誰かの様々な全てを、

いつも知っておきたい、覗いていたいと、

思っていませんか?

 

沈黙についてという記事を書きましたが、

誰かに何かを自慢したい、話したいという気持ちを、

コントロール出来るのか?

重要な秘密を守ることが出来るのか?といったことも、

段階を進むごとに、スピリチュアルテストとして出されます。

何を伝えるのか、何を黙っているのか、

選択をする必要が出てきます。

 

 

下記は、「秘教真義」(M・ドーリル博士著) の、

「陰と陽の極」という箇所の続きです。

 
霊的真理のある種の学徒は、
自己の研究の中に物質界のことを
含める必要はないと考えている。

これは大きな誤解で、
この宇宙においては
物質的な分野も
重要な分野であるから
おろそかには出来ない。

我々が宇宙の全分野について
知らずして、
どうして宇宙についてのすべてを
知ったと言えようか。

我々が神を知るためには、
創造者と創造物の両方について
知らねばならないのである。

あらゆる物体は一種の磁石で、
両極性をもっているのである。

あらゆる有機物、無機物はともに
その自然的特性として
磁力を出しているのである。

りんごの一部分を切り取って
その荷電率を調べてみると、
検流針はその果皮と果心とに
電極の正負を示すのである。

ある一流大学の実験では
人体磁極の効力は
成長増大しつつあるイースト菌を殺し、
人体から八インチ(二〇センチ)以内にいる
繁殖しつつある細菌に
影響を与えていることを発見している。

磁力の力(流れ)は、
正負の両極がなければ
発見することが出来ないのである。

どんな物質体であろうと
それが実現できるのは、
正負両極が存在するからである。

原子内の電子は、
その陽である原子核に対して
陰の極をなすのである。

我々の太陽系においても
太陽は陽で惑星は陰である。

皆さんも
人体磁気やオーラ(後光)即ち
人体をとりまく
可視の磁気バイブレーションについて
知っているであろう。

人体の物質磁気は、
人体器官内の二つの磁気的極の間に流れる
生命力の流れによって作られた
磁場によっておこるのである。

ある人の肉体をとり囲んでいる
オーラーの色と、その性質は、
その人の健康性の可否と
心的霊的特性とを示している。

強壮で健康な肉体は
強く磁気化された両極を
もっているのである。

「秘教真義」(M・ドーリル博士著) より
 
 
下記を以前ご紹介しましたが、
 
求道にはげむ人々にとっての最良の利器は、
理性の力の発達である。

理性の発達がなければ、
我々が大師を発見しようと望むべくもない。

多くの宗教教師は、理性は信仰によって
克服されるべきであると主張するが、
それは、論理的に全く矛盾する。

人間が真実と虚偽とを見分けることの出来る
唯一の力が理性の働きなのである。

もし、我々がこの理性能力を除外すると、
我々は識別判断能力を失ない、
何を信ずべきかも決めることが出来ないのである。

我々の肉体の心は、
理性の優越性を欠くと感情的となり、
心が動揺ばかり続けていて、
物ごとの本質を明確に見ることが出来なくなる。

だから信仰信念だけでは
絶対に神を見出すことは出来ないのである。

我々の身近の自然現象を見ても、
そこには完全な調和と法則とが働いていることがわかる。

四季はその順序に従って変化する。

植物が芽ばえ、花開き、しぼみ、種子を地に落す。

こんどはその種子があくる年に新しい生命として
芽ばえるというわけである。

植物は向日性をもっていて、
いつも太陽光線を最大限に吸収する様になっている。

ちょっと気をつけてみると、至るところに
正確性と理性の力とが働いていることに気付くのである。

それなのに我々は、神は理性にもとずかず、
神の盲目の信で森羅万象を創造したのだと教えられている。

我々人間が自己の理性を使うまいとすれば、
それは自分自身を神から遠ざけ離すことになるのである。

我々が何ごとをなすにも、例えば田を耕し、
家を建てる様な場合を考えてみても、
こうすればこうなるという風に
理性を使ってやっているのである。

自己の理性能力によって、農夫は、いつ種をまき、
いつ取り入れをするかを知るのである。

この理性の力は、教育により、
経験・観察によって伸びるものであるにも拘らず、
我々が神を理解する場合には、
理性を使わず、目を閉じたまま、
盲人の様に道を歩くのである。
 
「秘教真義」(M・ドーリル博士著)より
 
”我々の身近の自然現象を見ても、
そこには完全な調和と法則とが働いていることがわかる。”
とある様に、
法則というのはどこにでも働いていて、
誰でも確認が出来るものです。

そういう規則性があるものを、
様々なところから見つけ出せるようになると、
今度はこれを利用すれば、
自分の経験をコントロール出来るのだな、
ということが分かってきます。
 
 
外側に意識を向けるだけではなくて、
それをひっくり返して、
自分に向けるようにします。
 

よく人とのコミュニケーションが大事だと言いますが、

それは自分のことを放っておいて、
自分と向き合うことはせずに、
他者との付き合いを大事にしましょう、
という意味ではないですよね。
 

例えば、薔薇の花を見て、

他の人達の感想を聞くとします。

色合いが美しいだとか、

咲き掛けの状態が美しいだとか、

花びらの形が好きだとか、

実は薔薇はあまり好きではないとか、

様々な感想があるでしょう。

聞けば聞く程、人それぞれの捉え方、

感じ方が見つかって、新鮮に感じるかもしれません。

その様な見方もあるのかと、

新しい視点を獲得出来るかもしれません。

 

でもそれは、どこまで行っても、

他人の真実であって、自分のことではないですよ。

もしかしたら、調子を合わせて、

美しいですねと言っているだけで、

中には、全く興味が持てないだとか、

見るのも苦痛なくらい嫌いという人も、

いるかもしれません。

いくら相手が言葉で説明したとしても、

それが本心かどうかは、本人にしか分からないことで、

私たちには確かめようがありません。

 


「ハトホルの書」
(トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著)には、

下記のような説明があります。

 

たとえば四人が集まり、
何かが起こったとすると、
その出来事に対して四つの感情体験が生じ、
それらはいずれも各自の認識において
正しいことになります。

一見客観的と見なされる一つの出来事について、
四つの認識結果が生まれるということです。

この点は
どうしても明確にしておきたいところです。

わたしたちは人生での出来事を
全部あなたがつくり出している
と言っているわけではありません。

なかにはそういうケースも存在しますが、
ここでわたしたちがお伝えしたいのは、
人生におけるさまざまな出来事の
中心となるような、すべての体験に対する
内的姿勢をつくり出しているのは
あなた自身であるということです。

あなたが自分の体験をどう認識するかは、
あなたの信念、意図、受けとめ方や感じ方、
あるいは密かな予定表や、
その出来事に対する
感覚・感情などにもとづいているのです。

 

いくら他人の言葉を聞いても、

自分の真実には辿りつけないのです。

他人の気持ちを丁寧に聞いてあげたとしても、

それを知らなくてはいけないのは、

その人自身であって、私たちではないのです。

 

知らなければいけないのは、

自分自身のことであって、

誰かのことはその人自身が、

自分と向き合って知って行けばよいのです。

それぞれが自分と向き合って、

自分自身の様々な側面を理解していくことによって、

他の人もそうであると、尊重出来るようになります。

 

薔薇の花を見て、美しいと感じる人もいれば、

そうでない人もいるでしょう。

それはそれでよく、

大事なのは自分がどう感じるかということです。

 

感覚はきわめて明瞭なバロメータとなり、
感情はとても明確なフィードバックとなります。

つまりあなたが本当は何を体験し、
その体験を自身に
どう伝えているのかについて
告げているのです。

あなたが素直さと受容の心で
自分の感覚を体験するなら、
より深い感覚が
あなたの内にさらなる気づきを
もたらすでしょう。

わかりやすく言えば、
あなたの内側を流れる感情や感覚の
エネルギーは
変容の炎のための燃料なのです。

「ハトホルの書」
(トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著)より

 

 

もし、誰かの本音を導き出してあげて、

聞いてあげるべきだ!と考えているとしたら、

それはどうしてでしょうか?

誰かが知ってあげるより、

本人が知っていればそれで済むことではないですか?

世界中のあらゆる人の本音を知る必要がありますか?

それはどこまで行っても他人のことです。

本当に知りたいのは他の誰かのことなのでしょうか?

教えて欲しい、知りたい、もっと深く掘り下げたい、

そう感じているのは、

自分以外の誰かのことなのですか?

 

 

「宇宙の羅針盤・上」(辻麻里子著)には、

下記の様な説明があります。

 

先ほどお話ししました
水耕栽培の比喩に関しては、
人間の魂の成長をもあらわしています。

宇宙図書館の情報を
正確にダウンロードにするためには、
現実の3次元世界をしっかりと生きることです。

しっかりと地に足をつけていなければ、
宇宙とつながることはできません。

足元がふらふらの状態で、
宇宙情報につながったとしても、
その情報は著しく精度が低く、
信憑性に欠けます。

なぜなら、足元がおぼつかない状態では、
現実からの逃避や依存を生みだし、
ゼロポイントにフォーカスすることは、
ほぼ不可能だからです。

地底に深く根を張っていない植物は
高く伸びあがることができないように、
宇宙を目指すには、
足元の地球と強くつながることです。

これが宇宙の原理原則です。

おわかりですね?

 

自分自身としっかり繋がって、

中心軸に留まった時に、

自分の内側から、他の領域にアクセスできます。

自分も宇宙の一部であって、

自分と他者も同じ全体を構成する一部なのだから、

まず自分自身と繋がっていれば、

他者とも繋がれる様になるのです。

 

 

「ECTON─エクトンが描く意識の地図」(リチャード・ラビン著)には、

下記のような説明があります。

 

何時であれ、他の人々と関わる時に、

自分と離れた「彼ら」という見え方がするときは、

自分の内側を探るチャンスです。

 

「彼ら」は自分のどの側面を反映しているのか、と。

 

誰かに腹が立ったり、誰かと問題を起こすとき、

私たちはよく「私だったらあんなことはしないのに」と言います。

 

でも、多くの場合、自分が同じようなことをする可能性があるか、

あるいは過去にそのようなことをして

それを認めたくない時に「あんなことはしない」と怒ります。

 

他者を知ろうとするのではなくて、

他者を通して感じたことから、

自分自身を見る様にします。

 

自分自身を自由に感じるためには、
他の人がその人自身のためにしている
あらゆる選択を許す必要があります。
これは、とても挑戦的です。
簡単にはいきません。

でも、人々の行動はすべて、
なんであれ、
その瞬間の彼らにとって適切なことなのです。

考えてみてください。
他の人の行動をあれこれ批判、判断したとき、
結局何が起こるでしょう?

自分の人生に、
批判したものと同じ行動、
状況を引き寄せます。
あなたが憎むことを反映してみせてくれる人を
自分に人生に引き寄せます。

「ECTON─エクトンが描く意識の地図」
(リチャード・ラビン著)より

 

あの人はどうしてあんなことをしたのだろう?とか、
どうしてそのようなことを言うのだろう?といった風に、
他者を分析することは沢山あると思います。
でもその分析結果というものも、
自分の中にあるもので、判断しているだけで、
自分自身の投影になります。
他者は自分を知る為の一つの手掛かりになるけれども、
本当の意味で、自分以外の誰かのことを、
理解することなど出来ないのです。
 
執拗に他の誰かと関わり合い、
話し合い、理解し合おうと拘る人がいます。
他者にしがみついて、
自分と向き合おうとしません。
それは結果的に、誰かの足を引っ張ることにもなりますし、
自分自身の成長にも繋がりません。
投影している、鏡であるということは、
どういう意味なのでしょうか?
人それぞれ感じ方が違うのは、
どうしてでしょうか?
自分とあの人が違うということを、
受け入れることは出来るのでしょうか?
そう考えた時に湧き上がる思いは何ですか?