あらゆるものには二極あるという、
積極消極の法則についてまとめてご紹介しています。
(四)積極消極の法則
積極・消極(プラスマイナス)の二極がないと
何物も存在することは出来ない。
あらゆるものに二極があることが創造構成の基本法則である。
「秘教真義」(M・ドーリル博士著) より
何かや誰かを嫌だと思った時に、
それをいいと思っている人もいることを、
受け入れることが出来るのか?
例えば、戦争をしているとして、
敵に対して憎しみや怒りが湧きます。
でも、その敵側の人も、
自分の国には、家族や恋人がいて、
その人のことをいい人だと思っていて、
愛している人がいます。
自分にとっては敵で許せない人でも、
大事にしている人もいるのです。
一方的にあいつは敵だと憎み怒るだけではなくて、
別の見方があるのだと、視野を拡げることで、
今までとは違う捉え方になっていきます。
偏りがなくなってきて、バランスが取れて来るのです。
でも、自分の中に拘りがあると、
絶対的な善や悪に縛られてしまいます。
こういう固定観念が投影になります。
この投影を明らかにする為に、
一つ一つ内観をする必要があるのです。
下記は、「秘教真義」(M・ドーリル博士著) の、
「陰と陽の極」という箇所の続きです。
陰(ネガテブ)と陽(ポジテブ)の両極の勉強は、
我々の心的探求に広大な分野を開いてくれる。
この二極性の問題を、
人生の充分に理解していないことについて
あてはめてみて
これらの二極性について熟考すべきである。
この様にしてはじめて、
自然に関する多くの大真理が
我々に明かされるのである。
人間的なことだろうと
非人間的なことだろうと、
それらに関する多くの解答が
与えられるのである。
そして表面的には神秘と見える多くの問題が
はっきりとしてき、
理解出来る様になるのである。
我々が何かのことを計画して
そのものの究極のところまで研究を重ね、
その一つの極を理解すると、
もう一方の極についても研究すべきである。
人生における多くの最上のものは、
それを一方の極の遠い所にのみ
もっていきすぎるから
駄目になるのである。
我々は心を訓練してすべての疑問の両面を
見る様にすべきである。
我々は思考の各段階の結果を
注意深く判ずべきである。
一ポンドが良いなら一トンは尚よかろうと
単純に考えてはいけない。
自己の判断を偽りの分析や早計な結論によって
形成してはいけない。
自分自身の棚卸表みたいなものによって、
自分の成し、言い、考えたことの全部についてバランス(平衡)を調べてみよう。
真の繁栄と幸福は、
ただただ心的平静の状にあることによってのみ
得られるからである。
我々は形而上学徒として、
人生の研究においては、
形而上学の意味する様な方法で
あたらなければならない。
形而上学というものは、
すべての存在、存在するあらゆるものを
研究する科学である。
形而上学をマスターした者は
すべての自然、全物質、すべての心的なもの、
すべての霊的なものを理解し、
宇宙のあらゆるものと、
自己自身のすべての極のバランスを得るのである。
「秘教真義」(M・ドーリル博士著) より
ここを読みに来ている人は、
本を自分から選んで読むことはなくても、
私がご紹介している箇所は読んでいる様な状態ですよね。
スピ系の良質だと感じた教えも沢山ご紹介しています。
それなのに、ここを読んでいることを隠して、
ネタをちょいちょい拾って、
「全然本とか読まないんだけど~」
「全然スピ系の情報とか知らないんだけど~」
「何故か分かっちゃうんだよね」
とやりたがります。
本当に、本を読まない、スピ系の情報を漁らない人は、
わざわざ読まないんだ、漁らないんだとは言わないんですよ。
普段から意識もしないから、
本が存在しているのは知っていたとしても、
その人の生活に関係してくることはないから、
思い出しもしない、考えもしない。
スピ系の情報をもし読んだとしても、
意味が全く理解出来ないから、
読んでいないのと変わらない状態、
それがスピ系だということすら認識出来ない、
といった感じですよね。
何でわざわざ、読んでない知らないアピールをするのか?
伝えたいのは、
全然知らないのに、
学んでいる訳ではないのに、
自然に分かっちゃったのよ!
誰かの真似じゃないのよ!
オリジナルなのよ!
ということでしょうか?
自分にとって都合の悪いこと、
隠したい事、
人には知られたくない事ってありますよね?
悪い事の様に感じるけれども、
実際は、自分にとって何かしらのメリットがあるのです。
上記の様に嘘を吐くことは、
私からすると、悪い事をしている様に見えますが、
本人にとっては、そうせざるを得ない様な、
とても重要な譲れない行為なのです。
嘘を吐くということが、その人にとっては、
メリットがあるということは、
誰かの目を意識しながら、
”自己の判断を偽りの分析や早計な結論によって
形成してはいけない。
自分自身の棚卸表みたいなものによって、
自分の成し、言い、考えたことの全部について
バランス(平衡)を調べてみよう。”
という箇所があります。怒り(!)はどうしましょう?
表現しますか?
通りに走り出て、人々を突き飛ばし、
怒り狂って、罵りますか?
もちろん、あなたはそんなことはしません。
では、怒りをどうしますか?
感じますか?
この部屋にいるすべての人が、
時に怒りを持ちます。
それを表現しますか?
批判して押しやりますか?
「怒りなど感じるべきではない。
怒りを感じるのは、
コントロールからはずれることだから」と。
あなたが、怒りをコントロールしようとしたとき、
その後何が起こるでしょう?
あなたは火山になります。
何日も何か月も何年間も怒りを抑圧しつづけると、
ある日突然、爆発します。
感情としてそのままの形で、
吹き出るかもしれません。
顔にニキビとなって吹き出るかもしれません。
あるいは、肺や肝臓に問題が起きたり、
自動車事故に遭うかもしれません。
怒りは爆薬。
いつか爆発します。
もちろん、怒りを変えることはできます。
しかし、批判することによってではなく、
「そう、私は怒りを感じる、
感じる必要がある。
でも、怒りが
他のエネルギーに変化するのを望む」
という態度によってなのです。
もし怒りを批判すれば、
怒りは、あなたの王に、帝王になります。
では、怒りはどのように表現しましょう?第一に、
怒りと友達になることができることを
認識してください。
喜びのほうが怒りよりもいい
ということではなかったでしょう?
ほんの少し違うだけです。
時にはベッドの上で枕に顔をぶつけて
怒りを表現することもできます。
時には、夜遅く散歩に出掛け、
声をあげて息巻くことが必要かもしれません。
でも、それを批判したり拒絶すれば、
それがあなたの人生を支配するようになります。地球の上で、何人の人々が怒りを抑圧したまま
生きていると思いますか?
数えられない人数です。
何世紀も何世紀も何千年も抑圧された怒りが
集合的に蓄積され続けた場合、
爆発的に表現されます、
中近東で起きているように。
ECTON─エクトンが描く意識の地図
(リチャード・ラビン著)より
●事故
・肉体的なレベル
事故は予測できませんので、私たちは、
事故を偶然の産物と見なします。
しかし、<偶然>というものはない、
という見方が
このところ広がってきています。
私は、<偶然>というのは、
神が私たちに語りかけるために使う
一つの手段に
他ならないと考えています。
ですから、
からだのどの部分にけがをしたのか、
またけがの重大さは
どれくらいなのか、
ということに
注目する必要があるでしょう。
事故によって骨折した場合は
「骨折」の項目を
参照してください。・感情的なレベル
事故が起こったということは、
その人が罪悪感を感じている
ということです。
あるいは、
自分の何かを責めている
ということです。
たとえば、
母親が家事をしている時、
子どもが他の部屋から
彼女を呼んだとしましょう。
母親は、聞こえないふりをして、
家事を続けます。
ところが、しばらくすると、
彼女は転んで脚をけがするのです。
「私は何を考えていたのだろう?」
と自問してみれば、
ただちに、自分を
悪い母親だと考えていたことが分かります。
したがって、
悪い母親にふさわしいように、
体の一部を傷つけたのです。
事故にあうのは、私たちが、
自分の罪悪感を中和するためです。
事故にあうことによって、
自分の罪悪感に対する
支払いを行なうのです。
しかも、
それは無意識の内になされます。・精神的なレベル
罪悪感に対する
あなたの考え方を
見直す必要があるでしょう。
私たちの法律体系においては、
ある人が意図的に
悪を行なったと立証された時に、
初めてその人は有罪であるとされます。
ですから、今後、
あなたが罪悪感を感じた場合、
あなたは本当に
悪をなそうと意図していたのか、
ということを
自問していただきたいのです。
もしそうでないのならば、
あなたは自分を責めることを
やめなければなりません。
あなたは自分を
罰する必要などないのです。
本項の、感情的なレベルのところで
あげた例について
考えてみましょう。
この母親は、
自分の子どもに悪をなそうと
思っていたのでしょうか?
そもそも、ある人が、
実際に悪いことをした場合、
《原因と結果の法則》が働いて、
その人を罰します。というのも、すべては、
私たちの意図に応じて、
ブーメランのように
必ず私たちのところに
返ってくるからです。
ですから、
知恵と責任感のある人というのは、
自分が実際に罪を犯したときに、
自分の罪を認め、
相手に謝り、
いずれその報いが
自分にやってくることを
受け入れる人のことです。
そういう人は、
そういう報いを、
静かに受け入れ、
心を乱すことがないでしょう。
つまり、自分の罪に
意識的であることができるのです。
すべてが
神の正義に基づいて起こること、
すべてが
神聖な秩序の内にあることを
知っているわけです。もし、あなたが、
休息の時間を作るために、
無意識の内に
事故を起こしたのだとすれば、
あなたはそんなふうに
自分に痛みを与えなくても、
休みの時間を
取ることはできたのだ、
ということを
理解する必要があります。
自分の要求に応えるためには、
もっと簡単な方法もある、
ということを
知らなければなりません。
もし、事故が重大なものであって、
骨折のような
ひどい痛みをともなう結果を
引き起こしたとすれば、
それは、あなたが、
他の人に対して攻撃的な思いを持っていた、
ということを示しています。
そして、その思いは
必ずしもあなたによって
意識化されていたとは限りません。
そうした
攻撃的な思いを持っていることを、
あなたは自分に対して
許せないのです。
そして、その攻撃的な思いが、
自分自身に向けられたわけです。
ですから、そんな場合には、
あなたは、その人に対する思いを
上手に表現し、
自分自身を解放しなければなりません。
その際に、
そういう思いを持った自分を
許すことが非常に大切です。
「自分を愛して!」(リズ・ブルボー著)より
といったことが度々あったのです。
体の一部を傷つけたのです。”
こんな風に罪悪感を感じる度に、
病気になったり、事故に遭ったりしたら、
命がいくつあっても足りないのでは?と思ってしまいます。
私の場合では、
足を怪我したり、傷めたりする時には、
「前に進みたくない」と考えていて、
足が動かない、動かすのが辛い状態になる事で、
「前に進まなくて済む」というメリットを、
感じていました。
どんなメリットがあるのか?と考えると、
そういった時には、ずっと先の将来に対して、
不安を感じていて、
足がすくむ様な気持ちになります。
その感情を長く味わっていると、
やがて足のトラブルに発展するのです。
逆に言えば、足のトラブルのお陰で、
不安を感じていることをしなくて済む様にしている、
とも言えます。
何かしらのトラブルにしても、
ネガティブなものごと、感情にしても、
それが起こることが、自分にとっては、
善い事だったのです。
認めたくないけれども、それを引き起こした原因が、
自分にあるのです。
これは善い事、これは悪い事、
といった形で、振り分けてしまい、
両極を捉えることが出来なければ、
自分に起きたことに対しての、
原因に迫ることが出来ません。
とことん内観をすること、
その時には、人目を気にしない様にする必要があるので、
いちいち公開する、発信するのをやめましょう。
自分なりに解決して、現実的なものごとにも変化が起きて、
客観的に眺められる様になってから、
他の人達に伝えても遅くはないのです。
まずは、自分というものをよく知る為には、
外側と内側の境界線をしっかり引きましょう。
誰かが代わりに内観してくれる訳ではないのです。