あらゆるものには二極あるという、

積極消極の法則についてまとめてご紹介しています。

 

(四)積極消極の法則

積極・消極(プラスマイナス)の二極がないと
何物も存在することは出来ない。

あらゆるものに二極があることが創造構成の基本法則である。

 

「秘教真義」(M・ドーリル博士著) より

 
しっかり理解することで、
自分の捉え方や考え方の偏りを直して、
思考や感情、意識をコントロール出来る様になります。
 
いつも内観しながら生活する、
常に自分を観察する視点を持つというのが、
目指すところなのですが、
ここまで書いても全く理解出来ない人も居る様です。
 
わざわざ読みに来て下さってありがとうございます。
 
でも、理解出来ないものを読むよりも、
もっと自分に合った情報を探すことをオススメします。
 
例えば、自分は両極捉えていると思っていても、
実際は、自分を持ち上げてくれる人以外の、
誰かの意見や考えがいつも気に入らなくて、
単に反発したくなるだけで、
それを反対側も見えている、
両極捉えていると勘違いしている場合もあります。
へそ曲がりというか、
斜に構えていて、いちいち揚げ足を取りたくなる、
みたいなタイプです。
校則とかルールとか、わざと破りたい、
言いなりになるのが嫌だとか、
みんなと同じというのが嫌だとか…みたいな感じ。
そういう自己主張の仕方をする人も居ますよね?
永遠に反抗期が続いている様な人。
 
自分がどんな気持ちになったか?
感情の方向を見ます。
 
反抗期タイプの人は、
「宇宙の羅針盤・上」(辻麻里子著)では、
ひっくり返っている子として登場します。
……ねえ、あそこに、
女子をいじめている男子がいるでしょ?
あの子は、ひっくり返っている子。
好きな女子をいじめたり、
きれいなものを見ると破壊したり、
反対のことをしたくなるの。
 
「宇宙の羅針盤・上」(辻麻里子著)より
 
とあります。
悪質なパクリは赤ペンしますという記事でもご紹介しましたが、
こちらはあるスピ系教祖様を例にしていましたが、
自分の考えや気持ちがどうかということよりも、
とにかく反発したい!反抗したい!ということが、
前面に出てしまう人がいるのです。
 

ひっくり返っている子は、
まわりをみんな
負のスパイラルに巻き込んでゆく。

大切な人を苦しめてしまう。

きっと、これから先もずっとそう。

だって反対まわりなんだから。

きれいなもの、
大好きなものを壊してしまうでしょ。

でも、壊されても壊されても、
またつくればいいの。
ただ、それだけのことよ。

だって、ひっくり返っていることに、
本人が気づくしか方法はないの。

だれも真実を
教えてあげることはできないのよ。

ねえ、大人になるって、
ひっくり返っていることに
気づくことでしょ?」

「宇宙の羅針盤・上」(辻麻里子著)より

 

大声で反抗しながら、
周囲の人達を煽動して、
負のスパイラルに巻き込んでいきます。
 
「……ねえ、お姉ちゃん、
よく覚えておいて。
ひっくり返っている子は、
こっちから誘っても無駄なのよ」

少女はどこか大人びた表情をする。

「それじゃあ、マヤちゃんは、
誘われるのを待っているの?」

「ううん、ぜんぜん違う。
ひっくり返っている子の仕組みはこう。
たとえば、
自分がやりたいと思っていることを、
だれかから誘われたら、絶対に断るの。
それは100パーセントの確率なのよ。
もし、ひっくり返っている子が、
だれかに誘われて、なにかしてたら、
それは、本当はやりたくないことなの」

「随分めんどくさい子ね。
最短距離を進めないじゃない?」

「それだけじゃないわ。
ひっくり返っている子は、
だれかがいいものをつくれば、
破壊しようとするのよ。
だけど、本当にやりたいことを、
自分からはやりたいとは絶対に言わない。
だからね、ひっくり返っている子が、
本当に粘土をやりたいとしたら、
誘っても無駄だし、
向こうから誘ってくることも
絶対にないの。
以上。
これが仕組みよ」

「マヤちゃん、すごい分析力だね。
それなら永遠に
あの子と一緒に粘土できないじゃない」

とても幼稚園児の発言とは思えない
人間分析だった。

少女は黙々と粘土をやりながら、
人間の動きを
観察し続けていたのだろう。

「そうかもね。
ひっくり返っている子は、
わたしより先に
粘土をはじめるしか
方法はないかもね。
だから、なんでも一番にやりたがるのよ。
でもね、これは粘土だけの問題じゃない。
お姉ちゃん、いいこと教えてあげる。
ひっくり返っている子は、
大切な人を苦しめてしまう
という本当の意味はね……
一番好きな子とは遊べなくても、
好きでもなんでもない子から誘われると
平気で遊ぶの。
それが人類愛だと思っているみたい。
だって、自分が一番苦しんでいるんだから。
そんなことをしていても、
心が満たされることは
永遠にないでしょうね。
早く目を醒まして、
ひっくり返っていることに、
自分で気づくしか方法はないのよ」

少女は聖母のような微笑を浮かべ、
一人の少年のことを見ている。

たしかに、
ひっくり返っている子のまわりには、
不自然なくらい女の子が
たくさん群がっていた。

だれにでも優しい
という仮面の下には、
傷つきやすく繊細な心があり、
一番好きな子とは遊べない哀しみが
見え隠れしているようだった。

「宇宙の羅針盤・上」(辻麻里子著)より
 
どうせここを読んでも、
自分が最初にやり始めた訳ではないから、
後に続くのはくやしくて許せなくて
反発したくなる訳ですから、
わざわざ読みに来るのは、
やめたらどうかな?とお伝えしています。
善意でお伝えしているんですよ。
ご紹介しているのは、宇宙法則ですから、
宇宙法則に反発しようとすると、
カルマを積むことになります。
 
 

下記は、「秘教真義」(M・ドーリル博士著) の、

「陰と陽の極」という箇所の続きです。

 

高い率の振動と
低い率の振動とは
相反する極性と考えられる。

振動という広域の中に
低振動率と高振動率とがあることが分る。

微粒子は、その運動の高周波数の故に、
低周波数の粗大物の内部に
各郡の活動に大きな障害も与えずに貫通したり
自由に動き回ったり出来るのである。

これと同様な方法で、
振動の主極性に
大世界と小世界とが存在する。

これらは程度と大きさの極性である。

人間がいろんな世界を
それぞれ正当に観察することが
困難であることは不思議ではない。

人間はそれらを測る物差しを
もっていなければならないのである。

同様にして愛と憎しみの陰陽の両極、
調和と混乱の両極、
引力と斥力の両極も考え得る。

この様な一般の人々に
興味のあることについて
取りあげてみたい。

今までは物の物質的概念のなかに
極性について述べてきたが、
非物質的な性質についてもまた、
霊的極性が存在するのである。

すべての形而上学徒にとっては、
非物質的なものこそ
あらゆる物質的なものの根源であり、
また、すべての物質は
いつかはその根源に帰するものであることは
自明のことである。

宇宙に活動しているあらゆるものは、
霊的世界か物的世界かの
いずれかに存在しているのである。

「秘教真義」(M・ドーリル博士著) より

 
単に反発しているだけだと、
自分が正しい、相手は間違いだと言いたくなったり、
とことん相手を貶めたくなったり(下に見ている)、
否定的な感情になります。
 
違う意見なだけだと分かっている場合は、
あなたはそう考えるのね、
私はこう考えるわと、
別の捉え方をしているんだねといった形で、
相手を尊重しています。
 
自分がどう感じているかは、
自分が一番よく分かっていますよね。
 
未開食人種族の説明をご紹介しましたが、
 

善と悪との二極性や
創造的なものと破壊的なものとの
二極性は、
単に基本的な総称的な対立概念として
よく用いられる。

しかし我々は、一人の人に対する善は
他の人に対する悪かも知れないことを
考えなければならない。

何かのものが
善か悪かのいずれの特性をもっているかを
決定するには、
まず、問題となっているものについての
全展望からの見方をしなければならない。

「秘教真義」(M・ドーリル博士著) より

 
反発するだけの人は、
自分の立場だけで物事を考えてしまいます。
でも、反対側の相手の立場に自分が立った時には、
今の考えは正しいとは言えなくなりますよね。

善悪が逆転してしまう、ということで、

善の立場からは悪が発生して、
悪の立場からは善が発生するもので、
二極あります。
その善という見方の中にも相反する二極があり、
悪という見方の中にも相反する二極があるよね、
ということです。
 

しかし、我々の道徳観念からすれば、
この種族のやっていることは
全く罪悪そのものなのである。

未開種族の人々が
神聖なことと考えていることが、
文化的文明種族の目から見れば
悪魔のしわざとみなされることも
あるのである。

「秘教真義」(M・ドーリル博士著) より

 
とありましたが、
未開種族の人にとって神聖で善いものが、
文化的文明種族の人からは 全く罪悪そのものであって、
文化的文明種族の人にとって善いもの、
例えば、食人しない!という当たり前の事が、
未開種族の人にとっては悪いもの(神になれない)、
といった真逆の解釈になる、
ということまで想像力を拡げられるのか?
もし拡げられるとしたら、
一方的に善悪で判断することは出来ないと、
分かってくると思います。
どちらかが善いとか優れていると決めることは、
出来ないけれども、私はこちらを選ぶ、
という形で自分の意見になるのです。
 
 
自分が好ましく感じていない人と、
何らかのトラブルが遭った例えを書きました。
 
好ましく感じてはいないのだけど、
お付き合いはあり、
相手のことを観察しているので、
性格をある程度把握しています。
自分の印象では、
情緒不安定だなと感じていました。

 

この情緒不安定だなと感じていたことを、
事実だと思い込んでしまう場合があります。
 

goo辞書では、

主観は”その人ひとりのものの見方。”

客観は”当事者ではなく、第三者の立場から観察し、
考えること。また、その考え。”
とあります。
 
また、事実は”実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。”
”哲学で、ある時、ある所に経験的所与として見いだされる存在または出来事。
論理的必然性をもたず、他のあり方にもなりうるものとして規定される。”
 
妄想は”根拠もなくあれこれと想像すること。また、その想像。”
”仏語。とらわれの心によって、
真実でないものを真実であると誤って考えること。
また、その誤った考え。妄念。邪念。”
” 根拠のないありえない内容であるにもかかわらず確信をもち、
事実や論理によって訂正することができない主観的な信念。
現実検討能力の障害による精神病の症状として生じるが、
気分障害や薬物中毒等でもみられる。
内容により誇大妄想・被害妄想などがある。”
とあります。

 

ニュースやネットの情報のデマやフェイクについては、

厳しく追及するのに、

自分自身の思い込みや偏見については放置している、

というのも、

バランスが取れていない状態で、

両極を捉えていないですよね。

外側の情報ばかりを追い求めて、

内側の情報は疎かにしていると言えるでしょう。

 

自分の考えに対して、
絶対的に正しいと思い込んでしまうのは、
どうしてなのか?
視野が狭いという場合もあるだろうし、
傲慢で他を見下しているような気持ちがある、
という場合もあるかもしれません。
 
例えば、誰かを情緒不安定な人だと思ったとして、
それは事実ではないですよね。
事実というのは、ツイッターのアカウントを持っている人とか、
相互にフォローし合っている人といった、
現実的に起こっている、行なっていることで、
自分も他の人も確認が出来ることです。
 
情緒不安定というのは、
いくら1年以上毎日観察した結果だとしても、
自分自身の主観であって、
そういう印象を持ったということでしかないですよね。
そういう印象を持ったこと自体は、
自由に好きにすればいいことなので、
それを善悪判断することではないし、
正しいとか間違いとかもないです。
でも、自分が観察し続けた結果、
情緒不安定な人だと分かったと信じているとしたら、
それは思い込みになります。
そして反対側も発生しますので、
自分が誰かをこういう人だと決め付ける様に、
自分も誰かにこういう人だと決め付けられることもある、
ということまで視野を拡げてみましょう。
 
自分も誰かのことを決め付けているのに、
誰かに決め付けられるのは許せない!
本当の私を知ってよ!と思うなら、
自分が決め付けた人も同じ様に感じているかもしれない、
ということまで視野を拡げてみましょう。
 
いつも両極発生しているということを、
本当に分かっているというのは、
単に多数派に反発し続ける、
決められたルールを破る、
ということではなくて、
自分と同じ様に他の人も様々な考えがあるだろうと、
想像力を拡げて行くことです。
 
その想像力を拡げる時も、
自分をベースにして、
相手の立場に自分が立ったとしたら、
と想像してみます。
相手の本当のところは分からないけれども、
私だったらこう感じるなと、
あくまでも想像の範囲で、似たような経験を思い出すのです。
あの人はこうに違いないというパターンの想像は、
やっぱり主観で決め付けになりますよね。
自分の感情に注目し続けてみると、
分かってくることがあります。
 
外側ばかりを見てしまう人というのは、
魂が抜けかかっていたり、
ずれている様な状態で、
中心軸に留まっていません。
軸が定まらずにフラフラしているのね。
自分に注目をするということを、
意識して生活してみる、
ずれる度に修正するというのを繰り返すと、
しっかり留まれる様になると思います。
 
他者の情緒不安定が見えるということは、
投影なので、
自分自身に同じ様なものがあるということでもあります。
相手の不安定に感じる部分に刺激を受けて、
自分も影響されて不安定になってしまうとか。
どうしてそう感じたのかな?と内観することで、
見えて来るものがあるし、
何故、そう感じる人が目の前に現れたのか?ということも、
分かるようになります。
その理解が宇宙法則の理解に繋がります。