あらゆるものには二極あるという、

積極消極の法則についてまとめてご紹介しています。

 

(四)積極消極の法則

積極・消極(プラスマイナス)の二極がないと
何物も存在することは出来ない。

あらゆるものに二極があることが創造構成の基本法則である。

 

「秘教真義」(M・ドーリル博士著) より

 
 

積極消極の法則について1

積極消極の法則について2

積極消極の法則について3

という記事の続きです。

 

 

思い込みや固定観念を手放して、

両極を捉える為には、内観する習慣を付けます。

この内観というのは、goo辞書では、

下記の様に説明されています。

 
内観: 自分の意識やその状態をみずから観察すること。内省。自己観察。
 
内省は” 自分の考えや行動などを深くかえりみること。反省。 "
とあります。
 
内観というのも、
肉体の状態を観察するということを表現するのに、
使う人がいたり、
宗教的な意味で使う人がいたりする様ですが、
私の場合は、上記の自分を観察するという意味で、
利用しています。
 
どんな風に感じているのかな、
何を考えていたのかな、
どうしてそう思ったのかな、
といったことを、
自分と向き合いながら観察します。
その他の言葉として、下記も以前調べました。
 
観察: 物事の状態や変化を客観的に注意深く見ること。
 
客観: 当事者ではなく、第三者の立場から観察し、考えること。また、その考え。

 

主観: その人ひとりのものの見方。

 

 

何度も使っている内観という言葉ですが、

内観ということ自体がよく分からない人、

全然出来ない人がいる様子で、

私的には、その様な人に向けては発信していないので、

読むのはやめて欲しいなと思っています。

何故かと言うと、発信内容が全てひっくり返っていくので、

その状態でネタを拾われると、

結果的に悪用されることになるからです。

 

私が発信している内容(ツイッターの時も含めて)、

読み始めたのがつい最近だというのなら、

内観というのが分からない、出来ないというのも、

仕方ないのかもしれません。

流石に1年以上経過しているのに、

未だに初心者ぶって、やりたくないと言うのなら、

ここを読むのはやめて下さい。

自分は初心者だと思い込んでいても、
全く知らない人とは違ってきますので、
知らない振りをするのは、罪になります。
 
 
 

下記は、「秘教真義」(M・ドーリル博士著) の、

「陰と陽の極」という箇所の続きです。

 

いかにして人体が極性化されたかを
よりよく学ぶために、
どうして人体が造られるかを
調べてみよう。

人体に摂取された化学元素は
ある方法で極性化され、
その元素を集合させて
あらゆる種類の細胞を形成するのである。

同様にして細胞はあるグループに集合し、
各種の器官を形成するのである。

これらの器官もまた
極性化状となって互いに結合し合い、
それが全部集って機能する
一つの大きな磁性体が
人体と呼ばれるのである。

有機体をもつ生物は、
すべての創造物の中でも
最も驚異すべきものである。

その独立有機体の各原子・各細胞・
各器官が完全に統制されて、
完全な独立体として
他の独立体とともに働ける様に
磁化されるのである。

人体はその頭部が正の極で
足が負の極の磁気棒とも
考えることが出来る。

棒磁石が磁場を作っている様に
人体の両極も磁場を作っているから、
人体に生命活力が流れるのである。

人体の両極に流れる生命活力の質と量とは、
この両極の極性化と磁化の強度と性質とによって、
決定されるのである。

人体の健康と活力(バイタリティー)は
生命活力に依存しているものだから、
健康を保つためには、
人体の両極を完全に磁化しておかなければ
ならないのである。

我々の肉体の磁気生命力は、
最も強い磁気極よりは
強くないのである。

肉体の弱い磁極は
全有機体のバランスを失わすのである。

肉体の磁気両極の不均衡状態が永く続くと、
細胞や器官の極性が不完全となり、
不健康から病気へと進行するのである。

もし棒磁石のある数の分子が
充分に磁化されず、
磁石の主軸方向に整然と整列していないと、
その磁石の磁力の流れは弱められ減少する。

異端的で磁化しなかったこの分子群は、
磁石全体の中で
その一部分を磁化しない部分として
残ったのみでなく、
それらが放射している反磁力が
磁石全体のバランスを
不調和なものとしているのである。

また、この列外にある分子群は
近辺の分子群の働きに反作用して
中和しているのである。

棒磁石に関する事実はまた、
我々の肉体器官に関する事実である。

各細胞は真の磁石となるべきであって、
全身の全器官の機能と
完全に調和しているべきである。

だから我々の肉体の各器官の部分部分が
完全な調和と極性とを保って、
はじめて病気不健康から解脱できるのである。

我々の肉体の一器官一細胞が
極性を失ない磁性を失なうと、
その生命活力が減退して
自己の完全な機能を果すことができなくなる。

「秘教真義」(M・ドーリル博士著) より
 
 
ドーリル先生の「療法の真義」という著書には、
磁気療法について詳しく説明されています。
私自身も、まだまだ勉強中という感じで、
マスターしていませんが、
興味のある人は入手して読んで欲しなと思います。
 
ここを読みに来ている人の中には、
ヒーリングやカウンセリングなどの、
商売をしている人もいます。
そういった人に悪用されたくないので、
具体的な手法については、
書き写さない様にしています。
 
自分自身に行う方法は、
どこかでご紹介しますね。
 
勉強になった情報も、
全てをネット上で公開してシェアしようとは、
考えていません。
すごくいいことが書いてあるから、
多くの人に伝えたい!という気持ちは、
ありますけれども、
私と同じ様に、自分の為に勉強する人だけではなくて、
ネットなので、商売に利用して、
楽して得しようと考えている人もいます。
私はスピ系の動画は嫌いなので観ませんから、
(マインドコントロール掛けるのが多いです)
動画などに利用されたらチェックしないですしね。
ちなみに、勉強するなら本がいいです。
ネットの情報も印刷して、紙で読んで下さい。
動画はオススメしません。
誘導されますよね?
よく注意して下さい。
 
また、スピ系ヒーラーやカウンセラーだけではなくて、
ライター業を行なっている人も、
ネタを拾いに来ますよね?
 
伝えることと、伝えないことを、
分けて発信しています。
 

 

内観が出来ない人は、ひっくり返っているのですが、

そのひっくり返り具合を、

いちいち取り上げると、結構大変なことになります。

あれもこれもひっくり返っていく…という様な状態だからです。

 

 

内観する時には、
”人目を気にしない様にする必要があるので、
いちいち公開する、発信するのをやめましょう。”
と書きました。
人に言わない伝えないことは、
不正直であるということではないです。
嘘を吐く、人を騙すということでもないです。
人に話す事、ネットで公開することと、
しないことを分けるということです。
シェアした方が、他の人達にも有益なら、
伝えればいいし、
自分自身の内面については、
何でも曝け出す必要などないし、
誰かに知ってもらう必要もないのです。

といったことを書きました。

 

これがひっくり返るという場合、

伝えることと伝えないことを分けるというのが、

嘘を吐いている訳ではないというのなら、

発信内容を読んだ誰かが、

勘違いをしたり、

鵜呑みにして疑いもしなかったりして、

結果的に騙された状態になったのなら、

騙された人が悪いというのか?

と怒るといったことがあります。

 

まず善悪で振り分けている訳ではないです。

騙す人と騙された人どっちが悪いのか?

という形で判断する場合、

私からはどっちも悪いという見方も出来るし、

解釈によってはそれで善いという見方も出来ます。

 

ここではネット上での話をしていますので、

実際に会って、直接的にコミュニケーションを取るのと、

一方的な確認のしようもない情報から、

コミュニケーションを取るのと、

同じではないですよね。

 

ネット上の情報発信者は、

人に知られてもいいと感じるものを、

自分で選んで発信していると思いますし、

それを信じるのか信じないのかは、

情報を受け取った人それぞれが決めることです。

 

結果的に騙された人がいたとしたら、

もしそれが犯罪行為に当たるのなら、
相応の対処をすればよいし、
そうでないのなら、信じることを決めたのは、
騙された人だと思うので、
本当に信じるに値する人だったのか、
不確かな情報を何でも鵜呑みにしていなかったか、
よく知りもしない人に、
個人的な情報を伝えるのに何故警戒しなかったのか、
自分自身とよく向き合った方が良いでしょう。
 

ただ、私が伝えたい内容というのは、

内面のことです。

自分が何を思ったのか、

何故そう考えたのかといった、

人には知られたくない様な本当の気持ちを、

自分自身が把握する為には、

ネット上で読んでいる誰かの目を気にしては、

取り繕ってしまいますよね。

人目を気にせず、自分と向き合いましょう、

といった意味で書いています。

 

例えば、自分の肩書や性別、年齢などについて、

人に正直に言わない、伝えないでいて、

でも仄めかすことで、ある特定の印象を持たせて、

結果的に、嘘を直接的に吐いた訳ではなくても、

騙される人が出てしまった、

といった話をしている訳ではないですよね。

こういったことを不正直ではないですとも、
書いてないですよね。
 
内面の話が外側の話になり、
善悪二元論で裁かれ、
ネット上の話が現実的なコミュニケーションの話になり、
という感じで、

情報を受け取る人の中には、

ことごとくひっくり返ってしまう場合があります。

 

こういう流れを見ると、

如何に、その人自身が内観をしたくないのかが分かります。

内観することを避けています。

だから揚げ足取りの様に、

どうでもいいことに、いちいち突っかかるのです。

 

元々の話というのは、

自分自身について正直であることであって、

他人が正直かどうか、

正直でない人に騙された人がいたら、

正直でない人には罪がないのか、

みたいな話はしてないんですよね。

 

自分自身についてという話が、

他人の話としてひっくり返ってしまう。

 

例えば、誰かに「あなたはとても正直ですよね」

と言われたから、

私は正直なんだと思うとします。

 

この場合、正直だと伝えた人にとっての、

正直さが、

私という鏡を通して、その人に見せた、

その人自身の正直さを、

私に投影しているということなのです。

 

本当に私自身が正直なのかどうかは、

その人の言葉だけで判断は出来ません。

 

自分自身のことは、

自分がよく分かっているもので、

他人が決めることではないです。

正直に生きているのか、

そうでないのかは、

自分がよく分かっているはずです。

 

私の何らかの行動が、

正直だと感じた人にとって、

その人自身の気持ちを確認するきっかけに、

なっただけなのです。

 

嘘を吐かずに正直に自分の気持ちと向き合う、

という場合に、

誰かから「あなたは嘘を吐かない正直な人だ」

と言われたから、自分は大丈夫なのだと、

安心するとしたら、それはどうしてでしょうか?

 

嘘を吐いているのか吐いていないのか、

正直なのか正直でないのかということを、

本当に、自分以外の誰か他の人が、

分かるのでしょうか?

 

この部分でもひっくり返りがありますよね。

自分で自分のことを観察出来ずに、

他人が自分を観察した結果が、

本当の自分のことだと受け入れている。

 

でも、現実的に起きていることは、

まず自分の内面にあることから、

始まっています。

 

つまり、自分にとって何かしらの必要があったから、

「あなたは嘘を吐かない正直な人だ」

と言う人を、引き寄せたのであって、

自作自演ですよね。

 

「あなたは嘘を吐かない正直な人だ」

と言われたから、やっぱり自分は、

噓吐きではないし、正直なんだと、

誰かに証明したくなるのはどうしてでしょうか?

 

もし、鏡や投影ということが分かっているのなら、

「あなたは嘘を吐かない正直な人だ」

と言った人が、私に投影しているのだなと、
それは私自身の様であって、
その人自身を見ているのだなと分かってくると思います。
 
こういう場合、面白いのが、
自分が褒められた時には、
鏡や投影ということを受け入れることが出来ないけれども、
悪口を言われた時には、
案外すんなり、「鏡だよ!それはあなたのことだよね!」と、
自分のことではないと、受け入れることが出来るのです。
善悪判断があるんだよね。
 
もしこれが悪口だったとしても、
私はそういう人なんだと受け入れているでしょうか?
そんな風に勝手に決めつけないで!と怒るのではないですか?
でも、褒められた時には、その通りなのよ!
本当の私を分ってくれて嬉しいわ!と受け入れますよね!

 

両極を見るという時、

褒められたとして、うんそうだと受け入れるのなら、

貶されたとしても、受け入れられるのか?と、

自問自答してみて下さい。

偏りが見えるのではないでしょうか?

 

褒められても、貶されても、

あなたにはそう見えるのね?

ということであって、

そう言った人自身の内面を、

こちらに投影している、

鏡にしてその人自身を見ている、

ということが分かるでしょうか?

 

自分の考えや感じ方と、

誰かの考えや感じ方は別々のもので、

誰かが自分に対しての印象を、

伝えてきたとしても、それはその人自身のもので、

自分のものとして受け入れる必要はないのです。

 

goo辞書では投影について、
”考え方や行動に心の内面が表現されること。
自分の性質を他人の性質にしてしまうこと。投射。→同一視
とあります。
 
また同一視については、
”区別のある自分と他人を混同すること。
自分の好ましくない感情や性質を
他人の性質にしてしまう投射(投影)と、
他人の望ましい特徴や事柄を
自分のものと思い込む投入とがある。”

とあります。

 

何度か下記の箇所をご紹介していますが、

 

「許容し可能にする術」とわたしたちが言うのは、
次のようなことである。

わたしはわたしであり、
わたしはありのままの自分に喜びを感じて、
楽しんでいる。

あなたはあなたであり、
たぶんわたしと違うだろうが、
それもそれでよろしい。

なぜなら、
わたしたちの間に劇的な相違があっても、
わたしは自分が欲することに焦点を定めることができるし、
自分に不快感をもたらすことに
焦点を定めるほど愚かではないから、
ネガティブな暗い感情に苦しめられることはない。

わたしは「許容し可能にする術」を
現実に適用する者として
この物質世界にやってきたのは、
自分が思う「真実」に
全員を従わさせるためではないことを
理解している。

また画一性や同一性を促進するために
やってきたものでもない。

同一性、画一性には、
創造性を刺激する多様性がないことが
理解できないほど愚かではないからだ。

画一性の実現に焦点を定めれば、
わたしは創造の継続ではなく
終焉に向かうことになるだろう。

だから「許容し可能にする術」は、
この地球と地球上の種
さらには
この宇宙自体の存続あるいは生存に
どうしても欠かせないし、
その存続はすべての「源(ソース)」の幅広い視点から
力強く認められている。

物質世界の視点に立っているあなたがたは、
自分自身の成長、拡大を認めないかもしれないが、
そのときには自分が腐りかけているような
嫌な気分になるだろう。

そして他人の成長、拡大を認めないときにも、
自分が腐りかけているような嫌な気分になるはずだ。

気がかりな状況を見て、
しかしそれを止めたり変えたりするために
努力するのではなく、
放っておこうと思うとき、
あなたはその状況を「我慢」している。

これは「許容し可能にする」こととはまったく違う。

「許容し可能にする」とは、
自分と「内なる存在」とのつながりを
維持し続けられる物事の見方を探す術だ。

それはこの時空という現実の世界にちりばめられた
データのなかを選択的に移動しながら、
心地よい物事に焦点を定めることで実現できる。

つまり「感情というナビゲーションシステム」を活用して、
思考が向く方向を決定するということだ。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より
 

”わたしはわたしであり、
わたしはありのままの自分に喜びを感じて、
楽しんでいる。
あなたはあなたであり、
たぶんわたしと違うだろうが、
それもそれでよろしい。”

という箇所は、

自分と他者の境界線を引くということです。

誰かが自分に対してどんな印象を持ったとしても、

それはそれでいいのだと許すことが出来るのか。

 

もし出来ないとしたら、

自分自身が誰かのことを、

こういう人だとか、これはダメなことだ、

といった風に決めつけて許せないでいるのです。

 

もし、嘘を吐く人が許せないと思うなら、

何故そうなのか?と自問自答します。

 

自分は正直にオープンに生きているのに!

と思ったとしても、

自分が善いと思う生き方を、

他者に強要したくなるのは何故なのか。

本当に善いと思っているのだろうか。

 

嘘を吐かれるのが嫌だ、

騙されたくないと思うなら、

それはどうしてなのか。

 

いつでも自分は正しい情報を取得出来て、

間違ったことはしないので、

もしそれが嘘だとしたら、

自分が間違ったことを認めなくてはいけないから、

そうしたくない為に、

絶対に嘘を吐く人は許さないと思っていないか。

何故、自分は間違いたくないのか。

間違う事がない程、人より優れているとは、
思っていないのか?
 
心のどこかで、騙される人を、
馬鹿にする気持ちはないか。
 
自分に嘘を吐かないということについて、
どうしても、
自分はどうなのか?といった形で、
内観することが出来ずに、
他の誰かが自分に対して、
嘘を吐かない人だと言ったから、
私は正直なのだと思い込んだり、
嘘を吐いて人を騙す人に、
怒りを感じたり、
外側へ外側へ思考が向いてしまうとしたら、
それはどうしてなのでしょうか?
 
何を避けようとして、
外側へ目を向けているのでしょうか?
隠しているのは何ですか?