三年前の話について語ろうと思う。僕が18歳の頃の話だ。
それは、僕の人生で一番自由で、そして一番不自由な時間だった。
僕は2011年3月、大学受験に失敗した。

高校三年生の頃の僕。初めての大学受験だ。今までの模試を受けた感覚も悪くない。第一志望の大学はわからないけれど、それより一つレベルを落としたところなら確実に受かるだろう。
そんなことを思いながら僕は2011年2月に東京にやってきた。たくさんの参考書を持って。僕は池袋駅にも行ったし、高田馬場駅にも行った。
全敗だった。

僕は北海道に戻った。志願していた大学に全て落ちた。想像していたことが現実になった。SNSでは皆の合格発表が目についた。僕はまるでどうすればいいかわからなかった。
すると、自宅に一通の封筒が届いていた。道内の国公立大学の合格通知であった。僕はセンター試験だけで受験できる方法でその大学に出願していたのだ。地元の国公立大学だ。北海道大学ほど有名ではないけれど、就職ではとても実績のあるすばらしい大学だ。僕はその大学の合格通知を手にした。
だけど僕はそこを蹴った。

僕は浪人することを選択したのだ。
今ではなぜそんなに浪人したかったのか覚えていない。ただ、当時の僕は自分の志望していた大学に落ちたという現実を受け止められなかったのかもしれない。志望している気持ちだけは誰よりも強い自信があった。当時の僕の目の前には、浪人すること そして 進学すること の二つの選択肢があった。進学すれば、実家通いになって、学費も安く、親にかける迷惑をなるだけ減らすことができる。
だけど僕は浪人することを選択したのだ。合格した大学を蹴ってまで。
「一年だけチャンスをくれ。一年頑張って、また落ちてしまったら。僕はどんな大学でも胸を張って進学する」
そう言って僕は母に誓った。

反対意見もあった。
「どうして進学しないのか?」「浪人に失敗して、今年受かった大学より下の大学になってしまったらどうする?」「浪人したからといって成績が上がるわけじゃない」「本当に一年間まじめに勉強できるのか」「もし全落ちしたらどうするんだ?」

それでも僕は首を振った。
僕は別に、受かった地元の大学に対して決してマイナスな印象は当時も無かった。当時の僕にとってもあの大学はすばらしい大学だったし、実際にあの大学を目指して受験勉強をしている人がたくさんいることも知っていた。でも当時の僕にとって問題はそういうものではなかった。
「もしあのとき浪人していたら___」
僕がそのまま受かった大学に進学したら、四年間ずっとこの思いが頭をよぎり続ける、そう思ったのだ。いや、四年間だけではない。死ぬ瞬間にそのことを後悔するかもしれない。
「もう一年間あれば、あの大学に行けたかもしれない」
ぼくは浪人しなければ、絶対に後悔すると思った。もし浪人に失敗しても、後悔して進学するよりよっぽどマシだ、とそう本気で考えていた。それが、高等教育を終えたばかりの18歳である。

僕は自分のお金で予備校に通った。幸い、現役時代に受けた模試の影響でいろいろ割引を受けて20万円くらいで通えるようになった。僕が母から受け取るお金は昼食代の500円のみとなった。
ずいぶんと苦学生みたいな書き方をしているが、僕はいまでもこれが正しいと思う。自分のことを自慢するわけではないけれど、予備校代は自分のお金で払うべきである。もちろん僕は今の大学の学費は親に全額払ってもらっている。絶賛スネかじりまくりだ。だけれど、大学の学費と、予備校代の学費ははっきり言って、まったく別物である。予備校に通うことになった原因は、人それぞれあろうが、99パーセント、自身の努力不足だからである。完全に自分のせいで、一年足踏みする。そんなふざけた学費は自分で払わなければいけないと思う。現実的に払うのが困難な場合でも、この事実を受け止める必要があると思う。それぐらい浪人するという行為は、生半可な気持ちでやってしまってはいけないものなのだ。この四月、浪人生は自分のことを徹底的に省みなくてはならない。なぜ、自分は浪人したのか。 自分を突き詰めなくてはならない。親に甘えてぬるぬるとした気持ちで浪人すると絶対に成功しない。

当時の僕も含めて、たいていの浪人生はこの時期、気持ちだけは相当に立派だ。自分は確実に一年後第一志望の大学に受かると信じて疑わない。だけれど、少なくとも、自分は負けたのだ、という事実をしっかりと受け止めなくてはならない。

選択を強いられるとき、人間はその思いが強ければ強いほど、その選択なんて関係ない。どちらを選んでも成功すると思う。だけれど、思いが曖昧なら、結局共倒れである。
浪人するには覚悟がいる、というのは本当で、その覚悟とは「自分は受験に一度負けた人間なのだ。これから一年間余分に親に迷惑をかけるのだ。だけど、私は、それでも、だとしても、どうしても行きたい大学があるのだ

そんな強い覚悟。それが浪人生にこの時期求められるものなのだ。

またいつか自身の経験に絡めて浪人生活について書きたいと思います。
時期がくれば……。
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はっきりいって、ほとんどわからなかった。

こんなに内容がわかっていないのに、はたして記事なんてものを書いていいのだろうか、とも思ったが、いやいや、決してこの記事は作品の解釈をのっける意図で書いていたわけではないし、あくまで感想を書いているのだから、じゃあ正直に「わからなかった」ということについて書こうじゃないかと思った。


村上春樹氏の解説によると、この作品はもともと『グレート・ギャツビー』のプロローグとして書かれたものらしい。となると、この作品に登場する、ルドルフ・ミラーは、ジェイ・ギャツビーの原型と考えていいかもしれない、ということだ。


『罪の赦し』(Absolution)は、まあずいぶんとほかの作品と比べて色が違う。油絵で描かれた絵画のような、そのくらいしっかりとしたものだ。カポーティの作品の色に似ている感じも受けた。もちろん、ほかの作者の色に似ている、なんてことを言うのはばかげたことだというのはわかっているけれど。


五章構成になっていて、一時間程度で読める短編となっている。

とりわけ、四章までは比較的面白い。読者に先を読ませる力がとても強く、またそのシリアスな感じが作品全体を覆っていて、結構読む側としても、まじめに読んでしまう。

しかし、最終章の五章に至っては、さっぱりである。神父が何を言ってるのかまったくわからない。第一章の冒頭を踏まえると、神父がなかなか病んでる男だというのは伝わる。だけれど、あまりに彼の発言が抽象的すぎて、結局のところ、本当に何を言ってるのかわからないまま作品が終わってしまった。


この話はかなりキリスト教の背景知識が必要とされる作品である。もちろん僕もまったくわからなかったので、ちょくちょくウィキペディアにお世話になった。漠然と言ってしまえば、「告解」と「聖体拝領」という二点について知っておくといいかもしれない。「告解」は、神父さんに自分が犯した罪について告白すること。キリスト色が強い映画で見たことがある。最近では『悪の法則』であった。「聖体拝領」とは、最後の晩餐にて、キリストが、パンとワインを手に持って「これが、俺の肉体。そしてこれが俺の血」といったことから、ミサにて教徒にパンとワインを食わせよう、みたいなそんな儀式のことだ。


ルドルフは幼い少年である。罪悪感を非常に強く感じる子どもである。自分が告解にて、嘘をついてしまった、という罪悪感から、聖体拝領でパンを食べさせられるとき「舌の上にべっとりとしたワックスのような聖餅の味を感じた」と、こう表現する。そして、罪を犯したまま聖体拝領を受けたことにより、「自分は悪魔に近づいている」そんな感覚を彼は感じ始めるのだった。強烈な罪悪感を彼は身の内に秘めるのだ。


要はこれが、冒頭でルドルフが神父に明かす自身の本当の告解である。

そうして神父は、神父としての務めを果たすべく彼に説教をするのだが、、、やはり彼の発言がぶっとんでいてわからない。これが僕が言ったところの最終章の部分なのだが。結局彼はわけのわからないことを言って、苦しんで床に倒れこんでしまう。やはり何かの病気だったのだろう。もしかしたら精神的なものかもしれない。毎日のように、他人の罪の告白話を受けているのだから。


それでも、なんとか読み解こうと思った。彼の発言の真意を。

まったくもって説明はできないが、それでもなんとなく、なんとなくであるがわかるような気がしないでもなかった。それは水で極端に薄めて描いた水彩画のように僕の頭の中で広がっていることだからだ。


「ブラッチフォード・サーミネントン」、そして神父から受けた説教によるルドルフの気づき。これがカギであると思う。わかったら追記したい。少なくとも授業前までには。


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優れた作家には2パターンあるといわれている。
自分の空想力、想像力で物語を構成していくタイプと、自身の経験をもとにしたいわゆる私小説的な物語をつくるタイプの二つである。でははたしてフィッツジェラルドはどちらかといえば、後者の、自身の経験をもとに小説を書くタイプの作家である。これはもちろん僕だけの意見ではなく、どの翻訳家の解説なり、批評家の意見なりにでもちょくちょく書かれていることである。また、カポーティや、ヘミングウェイなども同様の作家で、彼らの作品には彼らの人生そのものが伺える。特にヘミングウェイの『日はまた昇る』では、名前と主要登場人物の数が一人多いことをのぞけば、ほぼ実話といっていいほどである。もちろんフィッツジェラルドに関しても、多くは自身とその妻ゼルダが投影された主人公が、彼の紡ぎだす美しく華麗な物語を生きるのだ。

だとすれば、この『リッツくらい大きなダイアモンド』(The Diamond As Big As The Ritz)は、いささか挑戦的である。というのは、これは完全にフィクションであるからだ。

南部生まれのジョンが主人公である。この物語でも、南部と北部の違いについて多少触れられる。この物語は、ジョンが進学のために北部の学校に向かうところから始まる。ただ、彼が入学するその学校は金持ちばかりが集まる学校だった。ジョンはそこで、おとなしい少年パーシーに出会う。そしてパーシーは夏休みに自分の家に来ないか?とジョンを誘う。ところが、パーシー家はとんでもない金持ちだったのだ。なぜならば、彼の家が建っている山、まるまる全体がリッツカールトンホテルくらい大きなダイアモンドの原石でできていたからだ。そしてジョンはその場所で恐ろしい事実を知り始める。

まず、自分の家の山全体が、ダイアモンドの原石だって設定がぶっ飛んでいる。でも、いいのだ。これはフィクション、いや、ファンタジーなのだから。この設定で結構面白かったところは、このダイアモンドの存在をひた隠しにしなくてはいけない、ということだ。それは周りの人にも、まして、政府にバレたら大変なことになる。なぜか? このダイアモンドの総量は、いま現在流通しているダイアモンドの合計とほぼ同量だというのだ。ではもし、このダイアモンドの山の存在がバレたらどうなるだろう? まず、お金の価値が崩壊する。そして、果たしてこんな量のダイアモンドを手にして人々はどうするのだろうか? 政府にバレたら、専有化されてしまうかもしれない。 まさに、パーシー家は世界一の資産家であるのと同様に、文無しでもあったのだ。

だから、彼らはこのダイアモンドを守るためにあらゆる手をつくす。このダイアモンドの噂を聞きつけてやってきたものは容赦なく地下牢に監禁する。上空を飛行機が通るものならば、撃墜する。何人ものパイロットが命を落としたであろうか。

このあたりはさしずめ現代における国家権力に対する風刺にも受け取れる。国家権力は裏で何やっているのかわかったものじゃない。FBIとか本当にまっとうな組織なのだろうか。犯罪組織と紙一重の団体のような気がする。僕たち庶民はしょせん政府が管理しているカゴの中の生き物にすぎないのだ。外の世界で何が起きているのか、なぜスキャンダルを犯したアイドルは知らぬ間に引退しているのか、といったことは一切知らされないのだ。ディズニーランドの地下にはキャスト専用の巨大なショッピングモールがあるというのは本当だろうか。というより、あのネズミの中に人が潜んでいる、という噂を耳にしたのだが、勇気のある人物、真実のほどを僕に教えてくれ。

たとえば、ダイアモンドを目当てに忍び込んでとらえられた人物の中にイタリア人がいた。彼は、家主の娘さんにイタリア語を教えさせてくれ、といって家庭教師として地下牢から出る。しかし、やがて彼は隙をみて脱走する。当然ながら彼は追われるのだが、そこで家主から恐ろしい一言が。「うちの代理人のもとに、人相書きに合致する男を殺害したという報告が十四件入っている。おおかたは懸賞金欲しさにでっち上げられたものだろう」とひょうひょうと言ってのけるのだ。いやいやいや、少なくとも十三人は罪なき人々ではないか。ただ顔がイタリア系だったというだけで。とにかくダイアモンドの秘密を守るには手段を辞さない。その意志の強さたる部分がもっともあらわれるセリフのように思う。

それにしても「お金」というものに価値観を捕らわれた人物ばかりが出てくる作品である。ここでひとつ想像をしてみてほしい。僕たちがもし、生まれきっての大金持ちだったなら。毎日豪華な料理を食べられて、大きな広い部屋でぐっすり寝られる。しかし、それらは僕たちにとってごく当たり前の日常である。そこで僕たちはある村を訪れる。その村に住む彼らは決して裕福とはいえない。それでも毎日三食食べることができ、友達と、空気の抜けたボールでサッカーを楽しむ。狭い部屋だが、家族全員で肩を並べて眠る。僕たちと彼らはいったいどちらが幸せなのだろう。はたしてお金持ちの僕たちだと言い切れるだろうか?断言できるだろうか?たしかに僕たちの毎日に不自由はない。それでも彼らより幸せだと胸を張って言えるだろうか。だとすれば、お金ってなんなのだろうか。お金に一番の価値を置くのは、もしかすると間違っているのかもしれない。フィッツジェラルドはおそらく、この作品を通して、そんなテーゼを掲げたのかもしれない。

キスミンがそうではない人物として描かれる。お金というものに対して非常にイノセントなものを持っている少女だ。エンディングからは、主人公のジョンがお金の価値観から抜け出したようには読み取れない。「どうしてダイヤを持ってこなかったのだ」そんな落胆がうかがえる。しかし、そんな彼をキスミンがいずれ救ってあげる―幸せはお金だけなの?-やがてジョンにも、そしてヘイディズにも彼女のような純真な価値観が広がってくれるのだろう。そんな想像をひきたてるラストになっている。
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かなり、“映画的”な作品である。
しかし、はたしてこれを映画化したところで、興行的に恵まれるかといわれればそうではないかもしれない。それには結末がいささか重いからである。訳者:村上春樹による解説からほぼ引用する形にはなるが、この『メイデー』(May Day)はもっとも初期に書かれた作品である。フィッツジェラルドは当時、多くの高級商業誌に短編を寄稿して、原稿料を得ていたのだが、この『メイデー』はそれらの雑誌の気風に合わなかった。それにはずいぶんとハードでリアリスティックな内容だったからだ。彼らは高額な原稿料を支払ったが、その代わりに常にハッピーエンドを求めてきたのだ。彼らが求めているのは傑作ではなく、軽く読み飛ばせる娯楽小説だったのである。彼が金のために、多くの駄作(といわれている)を書き飛ばしたことは有名であるが、それでもときとして作家としての本能が彼に芽生える。この作品がまさにそれで、こういう作品が求められていないとは知りながらも、彼は書かずにはいられなかったのだ。そこには「俺は軽いだけの作家じゃないんだ」という彼なりの強い自負がうかがえる。

とても面白い作品である。少なくともこのブログで紹介した二作品よりははるかに面白い。もちろんそれはあくまで個人的なレベルのものだけれど、それでも僕にとってこの作品は『グレート・ギャツビー』と方向は違えど、その矢印の大きさなるものは切迫するのではないかという印象を受けた。

軽々しく、短編と呼べる代物ではない。各章のエッセンスを少しでも引き伸ばしさえすれば、これは長編としてひとつの本で胸を張れる作品である。個人的には、短編集の中にまとめられてしまうにはいささか惜しい作品で、どうにか、いち『メイデー』として本屋に並んではくれまいか、とまで思うほどだ。主要キャラクターが比較的多いことからも、もう100ページ増えていたらいったいどのような『メイデー』が出来上がるのだろうかと想像が止まない。

さて、舞台設定はタイトルからもわかるとおり、1919年5月1日の「メイデー」である。もちろんそういった社会情勢に詳しくなくても楽しめる作品ではあったが、やはり背景知識はあったほうがいい、と思った。残念なことに僕にはそれがまったくなかったのだ。だから気休め程度のものではあるが、ウィキペディアでちょこまかと調べ、とりあえず、「メイデー」とは、社会主義と資本主義の対立が起きていて、「給料上げろ」的なノリの団体が街中を看板下げて闊歩するイベントなのではないかと思った。作品内では「赤軍」や「ボルシェヴィキ」などの固有名詞までが登場する。今でこそ、それらは歴史の教科書の最後から100ページくらいに登場する単語にはなったものの、『メイデー』が刊行された当時はまさに春真っ盛りの単語である。今でいえば、「何村河内」と「何かたさんの何ップ細胞」をネタにするようなものである。嘘である。

本当にぶっ飛んだあらすじを述べるとするならば、
大学時代が全盛期だったが、今は文無しの“ゴードン”が、金を無心しに旧友を訪れるも、さげすまれて辛い思いをする。元カノにも、今の現状にドン引かれて、悲しい思いをする。最終的に酔っぱらってる間にある女性と結婚しちゃって、酔いがさめてそれに気づいたときに、悲しくなって拳銃でこめかみずっどーん!!ってお話である。ぶっとんでいてごめんなさい。

三人称小説ではあるが、各章ごとに、語り手の重点の置き方が変わる。1,2章はゴードン。3章はローズとキイ。4章はイーディス。5章はピーター。6章は再びイーディス。7章はジュエル。8章はイーディス。9章はローズ。10章はピーターとディーン。最終章はゴードンで、この話の幕を下ろす。

群像劇といってしまっても差支えないのではないか。もちろん、最後に従うにつれ、それぞれの登場人物が微妙に絡みだす。その段階的な筆運びはまさに見事で、「あ!こいつがでてきた!こいつとこいつがついにであったぞ!」とテンションが上がるような登場のさせ方をするのだ。

それにしても、この作品に出てくる二人の女性、「イーディス」と「ローズ」。これはフィッツジェラルドの奥さんであるゼルダの投影であり、主人公と思われるゴードンはまさにフィッツジェラルド自身がベースになっているだろう。
これを書いたとき、彼はまだ売れる前であり、作品内のゴードンと同じく、売れないアーティストであった。ゴードンが絵描きを夢にしているがそれは小説家と同じく「売れなきゃ金にならない」業種である。そんな成功前で、文無しのゴードンをイーディスは捨てる。大学時代の華々しかったゴードンの落ちぶれ方に、嫌悪感さえ抱くのである。イーディスのキャラクターはゼルダの恋愛観がベースになっているのかもしれない。フィッツジェラルドは、文無しの自分がゼルダに捨てられてしまうかもしれないという不安からこのシーンを書いたのではないだろうか。
それにしても、このシーンのゴードンはかなりの病みっぷりではあるが、結構共感してしまった。病んでいるときに、昔愛し合った人のもとに頼り「僕はダメ人間だ。もうなにもかもうまくいかない」と言いながらも、彼女が手を差し伸べてくれることを心のどこかで期待してしまうのである。「どうしてこんなこと(自分のダメっぷり)を打ち明けるのかわからない」とゴードンはいうが、まさにその通りで、本当にわからないのである。それでも昔の恋人、というものに泣き付いてしまう、という感覚は非常にわかる。非常にわかるばかりで、どうしてもそれを言語化するのには難しすぎるし、まして僕もやや「ゴードン的」になってしまいそうだからこの辺で終わりにしたい。
「ジュエル」に至っては、ゼルダの浪費癖がベースになっているように思う。ところで、原文ではジュエルはJewel表記になっているが、ジュエリー(Jewelry)と関連があるのではないか。もちろん、宝石のことだが、彼女の金銭感覚、ゴードンに金を要求するあたり、「金」というものに共通点があるように思う。そしてさらにゴードンはジュエルについて、"She used to be 'pure'."(彼女は無垢だった)という。まさに宝石は垢の無い存在である。何やら、僕の推測は正しそうだ。ジュエルはゴードンに対して、ストーカー的な行為もするようになる。それがゴードンの悩みの種で、彼女が原因で会社を首になったと語る。そして文無しになると、金を寄越せと文句を言いだす。とびきり恐ろしい女である。ちなみに僕はヘレナ・ボナム・カーターを想像して読んだ。ハリーポッターのベラトリクスである。そんな彼女と、酔っぱらっている間の記憶が定かでないときに、結婚の約束をしてしまったゴードン。それに気づいた瞬間、一気にこれからの将来がゴードンの頭に特急列車が走るかのように想像できただろう。「終わりだ」こんな感覚であろうか。もちろん、正気を保っていれば、もう少し、なんとかできたのかもしれない。しかしながら、彼はとびきりに病んでいたし、酒は介していたものの、元カノにドン引かれ、友人には蔑まれ、劣等感のカタマリのようなものを背負っていたはずだ。ここが短編であるところの悔やまれるところだ。彼の苦悩についてもう少し知りたいところだった。もちろん、過去の回想も含めて。いろいろなことを考慮すると、彼の自殺も、納得できるような気が、する。

「ローズ」と「キイ」。いいキャラである。この二人がこの作品のいわば「導火線」のような役回りで、ゴードンらの本筋に直接的なかかわりはみせないが、それを爆発させるのは彼らの存在があるからである。つまり、ピーターを酔わせたのは彼らである。酔ったピーターはイーディスにダル絡みをする。このダル絡みは、イーディスがパーティを後にするきっかけにもなり、彼女はその結果悲劇をみる。さらに、そのまま酔っぱらっていたピーターは、ディーンと合流し、二人で「ミスタ・イン」「ミスタ・アウト」のコンビを組む。(相当に酔っぱらっているのだ。『時計仕掛けのオレンジ』のような狂気までもが垣間見える)この二人組みがゴードンに絡む。これはゴードンにとってのこれでもかという追い打ちである。とどめである。もしかしたら、いや、確実に、この一件がゴードンとジュエルの結婚のきっかけになっているのではないか。相当に病んでいるゴードンは、ジュエルの口車に乗せられて、ひょろひょろと結婚を認めてしまったのかもしれない。

このように、一見不必要そうにみえるローズとキイだが(主要人物との会話がほとんどないからだ)、すべての出来事の裏には彼らの存在がちらりと垣間見えるのだ。フィッツジェラルドは神か。これが軽く読み飛ばされるような、娯楽小説であるはずがない。そういう面でも、物語の展開は『グレート・ギャツビー』に匹敵するほどに上手く、計算されていて隙がない。そして冒頭でも述べたように、“映画的”である。その観点でいえば、僕は『ギャツビー』をしのぐ、と個人的にそう思う。メイデーの団体が、ダッダッ、と強く足音を鳴らせて前に進んでいくように、勢いよく終結へと読者を誘っていくこの作品はそういう意味でとても素晴らしいのである。

僕がごく一般的な文学部生というのは大間違いの話だ。
今回はスロットについて語る。何を隠そう、僕はつい先ほどまでパチスロ店にいて、バカ勝ちしてきたのである。こんなに気分が良くなった日には、ついにスロットについて語るのもいいじゃないかという次第だ。

さて、僕はこれで人生三度目のスロットである。なんだかんだしっかりしているのだ。決して、ウシジマくんに出てくるような、借金までして金を突っ込むパチンカスでは僕はない。

デビュー戦は大学一年生のとき。
塾のバイトの夏期講習で鬼のように稼いでいた僕は、バイトの先輩に誘われて初めてスロットを打ったのであった。カエルのやつだった。何が何やらわからないまま、言われるように20円スロットを打っていた僕。一回転させるのに、メダルが3枚必要なことから、60円で一回転遊べる。当然、一回なんかで777は出ないので、100回近くまわすことになる。僕は、5000円をはじめに突っ込んだ。ものの30分程度で全額消え去った。先輩に相談しにいくと、「もう5000円っしょ」と、顔も見ずに言われた。先輩はこのときペカらせていて、じゃらじゃらと台からメダルが放出されていた。僕は、「くっそ~はめやがって~!!」とこの先輩に半ば殺意を抱きつつ、自分の場に戻った。思えば、このときにやめれば良かったのだ。5000円といえば、たかが5時間働けば稼げる金額であるが、食費にすれば3日満足に食べられる金額である。そのことについて考えを巡らせれば巡らせるほど、悔しさは募り、気づけば僕はもう5000円を突っ込んでいたのだ。するとである。初めての大当たりが僕のもとにやってきた。ベコッという音とともに、ペカッたのである!そこから先はご想像の通りボルルルルルルの連続である。メダルにして350枚。金額にして、7000円ではないか。この時点で、僕はギリギリ1000円近く勝っていたのだ。思えば、このときにやめれば良かったのだ。。先輩いわく、「連チャンあるっしょ!」とのことである。そのとき先輩は台に向かってひたすら「あっちぃ!!やべっ、あっちぃ!!」と叫んでいた。もし、連チャンがあれば、レギュラーボーナスでも、一気に5000円の勝ちは見込める。先ほどとはうって変わって、今度は3日僕の命が延びたことになるのだ。僕はメダルをぶっ込んだ。どがどがと。しかし、まるでペカる気配がない。いや、まだだ。次の辺りまでは最低でも打つぞ・・・。しかし、数回、ボルルルルルとなるだけで、結局メダルの数はどんどん減っていくのだった。もうやめよう、もうやめようと思いつつ、打ち続け、「あー!!もうやめよう!!」と本気で思ったときには、僕は2000円負けていた。つまり、10000円ぶっ込んで、8000円分のメダルが手元に残った。先輩のところに報告しにいくと、「ごめん、ちょっと今アツいから先帰ってて良いよ」と言われた。悲しいデビュー戦である。

二度目はつい最近の三月のことである。北海道に帰省してたときに、友達とノリでスロットをしにいくことになった。今度は5円スロだ。財布にも優しいので気軽に遊ぶことができた。おかげで僕は2000円しかぶっ込まずに済んだ。ぶっ込んだ台は「リラックマ」の台である。しかしながら、まわせどまわせど、あの忌々しいクマがただひたすらに寝転がり続けるだけであった。まことにゴミ台である。一度もまともな当たりを引くことなく、僕の二回目は幕を下ろした。

そして、今日の話である。三度目のスロットだ。
きっかけはよくわからない。ふと急にペカらせたくなったのだ。今までで、トータル4000円負けている。なんとかこの負け分を取り返せれば、僕は永遠にスロット界から身を引く自信があった。もちろん、店に向かっていた当時の僕にはこれから何が起こるのか知る由もない。しかしながら、これを読んでいる人には結末はもうわかっているだろう。なぜならば僕は冒頭に既に「バカ勝ちした」とわざわざ強調して書いたのだから。今日は何度もペカった。こんなに連チャンするものなのかというぐらいに。ベコッといった瞬間僕の毛穴という毛穴からじわりと汗がしみ出し、顔が熱くなる。当確である。そして、またペカるのだ!!たまらない。今まで負け続けただけに、「やはりパチスロなんて勝ちに行っちゃダメだ」と本格的に自信をなくしていた僕。しかし、完全に考えは変わった!!「勝てる!!勝てるのだ!!パチスロでお金は稼げるのだ!!遊んでお金を稼げる夢の世界がほんとうにこの世にあるのだ!!」と。
そうして、僕はポッキー一箱を受け取って店を出たのである。


確かに勝ったのは本当である。一応、2000円ぶっ込んで、2000円とポッキー一箱を手にしたのは事実である。しかしながら、実際のところ最高値を考えれば7000円近いものがあった。4連チャンしたのだ。たった5回転でペカるのだ。僕にとって初めての経験であった。山のようにメダルは積み上がった。思えば、このときにやめれば良かったのだ。そこから僕はこの台は、神懸かっている!!と信じて疑わず、360回転打った。何もあたらなかった。気づけば、マイナスギリギリのところでとどまっていた。人間の欲というのは本当に恐ろしいものだ。ときに人をダメにする。そんな場所がパチスロである。結局僕は今回に限っては、タダでスロットを遊べて、おまけにポッキーをおいしくたべることができたが、それでも恐ろしい遊びである。これは、スロットを媒介にして、自分の欲がどれほどのものかを測るものなのだ。
僕は懲りた。こりごりである。あのくそピエロにはうんざりである。
自分の欲の深さにショックを受けたことだし、今回がスロットに触れる最後の日であろう。こんなことを言ってもジャンルがジャンルなので、信用はまったくされないだろうが、少なくとも僕は今まで三回しかスロットに触れていないのだ。間違いなくやめられるはずだ。まことにクソゲーである。

自分の欲がどれほどのものか知りたい方はぜひ、パチスロを。。
ただし、その診断費が高くつくか安くつくかはあなた次第です。
いつかは必ず、その診断費を払う日がくるのですから・・・。
マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)/中央公論新社

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『氷の宮殿』。原題は"Ice Palece"。
初めて読んだのは大学一年の頃の夏休みだ。僕はこの本から受けた、そのときの衝撃を今でも覚えている。当時の僕と言えば、文学部の何が楽しいのかさっぱりわからない状態だった。実のところ文学部に対してあの頃に持っていた感想と言えば、本当に楽に単位がとれてしまう、といったところだ。私立大学の文系学部生は得てしてぬくぬくと大学生活を送るものなのだが。しかしながら、そんなふざけた大学一年の前期が今の僕にとってとても重要な時期であったのは間違いない。というのは、それは僕が初めてフィッツジェラルドを手に取った時期であるからだ。
もし、大学一年の前期の演習がフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を扱う授業でなかったとしたら、僕はどういった大学生活を送ることになっていたのだろうと今になって思う。『グレート・ギャツビー』が僕にとってのアメリカ文学の始まりであり、文学部としての楽しみの起点であり、大学生活におけるコンパスの針であったのだ。僕が道を踏み外すたびに『グレート・ギャツビー』の存在が僕を適切な方向に修正してくれる。
もし、演習の内容が『グレート・ギャツビー』でなく、『マクベス』だったとしたら。『高慢と偏見』だったとしたら。どうだろう、僕は『グレート・ギャツビー』、いや、フィッツジェラルドに触れることはあったのだろうか。まして、大学生活なんてものはいったいどうなってしまっているのだろうか。
僕にとって『グレート・ギャツビー』との出会いはそれほど重要なものなのだ。それはフィッツジェラルドとの出会いでもあり、アメリカ文学との出会いであったのだ。

そんな『グレート・ギャツビー』との強烈な出会いを果たした直後の夏休みに僕は『氷の宮殿』を初めて読んだ。いわば、フィッツジェラルドの他の作品も読んでみようと思って図書館で借りてみた次第である。この作品を読んで、いわゆる僕にとってのフィッツジェラルドの存在がより堅固なものとなった。つまり、彼は「グレート・ギャツビーさん」ではなく、れっきとした「フィッツジェラルド」なのである、ということが身にしみてわかったのであった。
この作品も、三年次の演習で扱われるということで、久々に読んでみた次第である。もちろん、借りてではなく、買って。(本は買わなきゃダメ・・・。)
二度目ではあったが、ラストの感動は、当時受けたものとまるで遜色のないものであった。新鮮な衝撃がまた僕の心を襲った。続けて再読。計にして三回読んだことになる。

アメリカの南部と北部の価値観の相違についてがこの作品の内容のほとんどを占める。そういえば、ゴールズワージーの『林檎の樹』も似たようなテーマの作品だったな、と読んでみて思い出した。南北戦争が終わったものの、当時のアメリカには依然として南部と北部では、はっきりとした違いが残っていた。
南部の少女サリー・キャロルは、ふとしたきっかけで北部のハリー・ベラミーと出会う。二人は結婚を誓うが、どうしても南部と北部の価値観の相違が生じ、破綻してしまう(直接的には描かれていないが、おそらくそれに近い状態になったのであろう)。
南部の人間は、穏やかで、明るいが、これといった仕事への熱や、目標も無く、怠惰な毎日を過ごす。サリー・キャロルはまさにそういった人間であったが、内には北部的な性格も持ち合わせていた。このまま自分は南部に居続けて良いのだろうかという疑念が生じ始める。「私の中には二人の私が住んでいるの。一人はあなたの好きなものぐさでけだるい私。だけどそれとは別に私の中には一種のエネルギーのようなものがあって、それが私を冒険へと掻りたてるの」。サリー・キャロルは、北部と南部の性格、一種の二面性を持ち合わせた人物であることが伺える。

物語は次第に、サリー・キャロルの本質に対して審判を下す方向に向かっていく。つまり、サリー・キャロルは本当のところはどちらなのか? 僕はこの審判の方法が非常に気に入っている。サリー・キャロルと彼氏のハリーは、50メートルほどそびえ立つ「氷の宮殿」の中にある迷路へと入ることになる。二人はその迷路ではぐれてしまう。それもハリーがどんどん先に行ってしまうような具合で。それはまるで、サリー・キャロルが北部の性向についていけず、立ち往生してしまうかのように。ハリーの呼び声も次第に遠のき、やがて完全な静寂が彼女を包む。そして、消灯。暗闇と凍てつくような寒さ。強烈な孤独と彼女は対峙し、それは同時に彼女自身と向き合うこととなる。
この場面が僕はどうしようもなく好きで、読むたびに心臓が高鳴ってしまうのだ。いったいぜんたいどうしたらこのような筆運びができてしまうのだろう。次第に僕にもフィッツジェラルドが天才と呼ばれる所以が少しずつわかってきた気がする。
彼の天才的な筆運びについてはもう一つ語りたいことがある。
この作品は当然のこと南部と北部の二項対立が描かれる。そこですばらしいのはそれぞれの温度感である。南部のシーンは読むだけで、ぽかぽかとあったかい気分になり、北部のシーンを読むと、室温が20度ある場所で読んでいるにもかかわらず、思わず肩に力が入ってしまう。もちろんそれはフィッツジェラルドの文才によるものだ。このことについて僕が思ったこと、感じたことを言語化するのは非常に難しい。それでもなんとか言葉にするならば、彼は暖かさを表現するために、決して「暖かい」とは書かないのである。寒さを表現するために、決して「寒い」とは書かないのである。どれも絶妙な言い回しを用いて、「warm」という4文字だけでなく、その場面全体にしみ込んでいるような暖かさを表現するのだ。その場面であれば、どの1文を読んだとしても感じられる暖かさ、寒さがこの作品にはあった。お察しの通り、僕の文才ではその魅力は半分も伝えられないので、ぜひ自分の目で味わってもらいたいものだ。

とはいえ、この作品ではやや感覚的な描写が目に付く。もちろん「亡霊」「幽霊」系統のことについてだ。三回読んでも、いまいち「亡霊」に対する良い解釈がまとまらない。それはもしかしたら、サリー・キャロルから放たれた、「北部側のサリー・キャロル自身」なのかもしれないし、単純に南北戦争で戦死した人々のことを言っているのかもしれない。この辺りが、非常に解釈のしがいがあって面白い。何度も読んで自分の考えを確立させたくなる。

ただひとつ言えることは、ハリーのように、何か物事をひとくくりにして論じるのは愚かなことである。これは100年経った今も普遍の事実だ。彼のように、「まったく南部人ときた日には」などと言ってしまうようでは、サリー・キャロルに三行半を突きつけられるのも当然であろう。もとはといえば、二人は本当に愛し合っていたのだろうか。ハリーは確かに彼女を愛していたのかもしれない。真実の愛だったのかもしれない。しかし、サリー・キャロルは? 第一、彼と出会ったのも場所は北部のアッシュビルとはいえ、季節は夏じゃないか。それも出会って四ヶ月でプロポーズするのなんて、お互いをまったく知らないのによくできたものだ。もしかすると、ハリーは彼女の目に、南部ではみられない新鮮な男性像に対して魅力を感じたが、いわばその愛は瞬間的なものだったのではないか。サリー・キャロルには北部性と南部性の二面性があると述べたが、その北部性はハリーと出会ったことによって生じたインスタントな仮のものだったのではないか。彼女自身もその二面性に悩み、実際に冬の北部を訪れ、価値観の異常なまでの相違を目にし、この作品のシンボルでもある氷の宮殿での迷路に迷ったことで、本来の自分を見つけ出したのではないだろうか。
だとすれば、結局彼女は元通りの南部性に生きる少女に一件落着したことになる。
果たして、彼女の北部性がもともと彼女に存在したものなのか、後天的なものなのかは僕にはまだよくわからなかった。しかし、少なくとも彼女にとって居心地が良いのは南部のタールトンであることは間違いないのだ。彼女がそのことに気づいて、またもとのふるさとに戻ってきて、けだるそうに「ハーイ」と言う。まさにそのことが一番大事なことなのだと思った。


ところで、この記事を書くにあたって、少しばかり背景知識が増えた。
一つは、サリー・キャロルが「サリー」と呼ばれるのを嫌う場面。それは、当時の南部女性特有のダブルネーム呼びという慣習があったかららしい。つまり「サリー・キャロル」というダブルネームでちゃんと呼んで欲しかったということだ。
もう一つはイプセンについて。『ペール・ギュント』は男が何人もの女性と婚約しては破棄し逃げ回る物語だった。ロジャー・パットンが読むのをやめさせた理由はそんなところにもあるのかもしれない。
最後に、「1885年」これって何があった年?わかる人、教えてくださいな。
ベンジャミン・バトン 数奇な人生 (角川文庫)/フィツジェラルド

¥514
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読了。とでも言いたくなる気持ちをグッと抑えて。
フィッツジェラルドの『ベンジャミン・バトン』を読んだ。原題は『THE CURIOUS CASE OF BENJAMIN BUTTON』結構そそられる原題である。やはり、”数奇な人生”と”CURIOUS CASE”では何か違う。結局のところCURIOUS CASEはCURIOUS CASEなのであって、CURIOUS CASE以外にはあり得ないのだ。少し前の話だが、僕は『星の王子さま』の翻訳を個人的にしていた。今は途中でなんだか飽きてしまって、休憩しているが、そのときにひどく感じたのは、結局は英語を日本語にするなんてことは無理な話なのだ。極端な話をすればHAPPYはHAPPYなのであって、楽しいと翻訳するわけにはいかないのだ。うまく伝えられないけれど本当にそういうことなのだ。つまり、そういう観点からものをいえば、やはり海外文学を楽しむにあたっては原文で読むべきなのであるということを強く感じた。
それならば、と僕は大学でフィッツジェラルドについて扱う演習を選択した。前にも書いたことだが、僕はアメリカ文学が好きで、その中でも特にフィッツジェラルドを好んで読んだ。ひと言で言うのも気が引けるが、彼のロマンチックな語り口がとても好きである。
僕は大学で英米文学を専攻しているので、もちろんその演習では原文でフィッツジェラルドを読むことになる。シラバスではすでに扱われる作品が提示されてあるので、じゃあそれならばと、事前にその作品を読んでおこうと思い至ったわけだ。原文は今のところ持っていないので、授業が始まり次第原文も読む。

前置きはこの辺りにしておいて、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』について。あくまで感想である。
角川から出ているこの翻訳本は、映画化されてからの刊行である。そのため日本では刊行が決まった2008年までほとんど読まれてこなかった作品ということになる。ページ数でいうと50ページ。一時間と少しあれば読み切れる短編である。

あらすじは映画同様、老人として生まれ、時間が経つに連れ、若返り、時を逆行するように生きるベンジャミン・バトンの数奇な人生について語られる作品である。
舞台は南北戦争後のボルチモア。ボルチモアは南北戦争時は非常に微妙な場所だったらしく、ボルチモア内でも北軍と南軍で分裂が起きたのだという。とはいえ、ベンジャミンの父であるバトン氏は戦争を機に社会的にも経済的にも誰もがうらやむ生活を手にした一人である。バトン夫妻にとって出産というイベントは初めてのことで、バトン氏は非常に神経質になっていた。彼は、男の子が欲しく、エール大学に通わせたかったのだ。なんとなく時代性も感じられるね。男性が優位な時代だ。
それなのに病院に駆けつけてみると、そこには赤ちゃんベッドからはみ出したように寝転がっているベンジャミン・バトンがいた。この”化物”が私の息子なのか!生まれたばかりのはずなのに身長は170センチほど、皮膚はしわくちゃ。そして、なんと言葉も喋りだす。「あんたが、私の父さんかい?」

まずはこの奇想天外な設定で見事一本書き上げてしまうフィッツジェラルドに、凄いなあという感想を持ってしまう。ベンジャミンは老人で生まれた代わりに、これから周りと逆行するように、若返り続け、最後は赤ん坊という形で人生を終える。かなりファンタジー色の強い作品である。

しかし僕はこの作品に少しばかり否定的である。
170センチの巨体が母親から生まれたことに一切の説明がなされていない強引さについては、ファンタジーだということで、気にしないことにするとしても、この作品の主題と思われるものが僕はあまり気に入らないのだ。
というのも、原作版のベンジャミンは、見た目と精神年齢が同じである。つまり、実年齢は0歳だったとしても、見た目年齢は70歳の老人として生まれたベンジャミン。実は精神年齢も70歳として生まれる。それはいきなり言葉を喋れる描写からも伺えるし、分娩室や自分の扱いについて文句ばかり言う様子はさながら頑固な老人らしい性格の描写である。「食べるものを頼んだら、哺乳瓶を持ってきおった!」このセリフはそれを裏付ける決定的なものだと思う。
別にその設定は良いのだが、フィッツジェラルドはどうも、この作品で精神年齢と見た目に縛られている人生を描いているような気がしてならない

皆最初は、ベンジャミンの異様な見た目に嫌悪すら抱いていた。それは父親であるバトン氏も同様であったし、祖父もまた然りだった。だけれど、しばらくすると、祖父とベンジャミンはすっかり仲良くなってしまうのだった。実年齢で言えば、60歳近い開きがあるのにも関わらずだ。それはもちろん、精神年齢と見た目が祖父と近くなったからお互いにわかり合えることがあったのだろう。同様にして、ベンジャミンの実年齢が20歳になる頃には父親のバトン氏と親密さを増す。そしてベンジャミンは後の婚約者となるヒルデガルドと出会う。彼らは実年齢こそ近いが、もう一度思い出して欲しい。ベンジャミンは実年齢こそ20でも、見た目と精神年齢は50なのである。しかし、ヒルデガルドは真相を知らないために、ベンジャミンに対して「50歳。25歳は世知にたけているだけ。30歳は働きすぎて疲れている。でも50歳は円熟のとき。30歳の相手に比べて大切にしていただけるでしょうし、私は50歳の男性が好きなのです」と言う。二人はそうして結婚するが、ヒルデガルドが30歳を超えた頃になると、ベンジャミンは彼女に何もときめかなくなってしまうのだ。それは、彼女の見た目の老化と、だんだんと落ち着いたつまらない人間になっていくからだ。この頃ベンジャミンの精神年齢は20歳に近づく頃である。ベンジャミンはどんどんと活気づいていく頃であるのに対して、奥さんは元気を失っていく、そして見た目はおばさんのようになっていってしまう。ここで既に価値観の乖離が始まっている。年齢が追い越したのだ。20歳の男が40歳の女と、うまくいくのかといえば、ベンジャミンの場合では、失敗してしまったのかもしれない。そして最後には、ベンジャミンは、彼自身の孫と同じ幼稚園に入ることになる。そして、孫が幼稚園を卒業する頃には、彼は赤ん坊となり、記憶は既に忘却の彼方。思考力は赤ん坊同様になり、静かに息を引き取るのであった。

たしかに、周りの人々が老いていくのに対して、自分が若返っていく、そのアイロニーにはとても興味深いものを感じる。それでも、このように語られてしまうと、同じくらいの年齢で、同じような見た目じゃなければ、仲良くなれないのか?と反発したくなる。それは、もしかしたら「そういうものではなく、本質で人と付き合えよ」というフィッツジェラルドなりの反面教師的な警告なのかもしれないが。
フィッツジェラルドが書くように、ほとんどの場面で、人間という物はその人の見た目であらかたを判断し、精神年齢が近ければ、フィーリングも合い、仲良くもなる。愛する妻が老化していって、自分の好みからかけ離れていく様をみれば、冷めてしまう気持ちもわかる。だけれど、まざまざと正直にそういうことを書かれてしまうと、なんともいえぬ、シュンとした気持ちになってしまうのだ。だから僕はこの作品はあまり読んでいて楽しくなかったのだ。

それでも、老人、中年、青年、少年、幼児、それぞれの人間の特徴をしっかり描いているところは読んでいてとても共感した。ベンジャミンは最後には、自分の息子に世話をされるのだ。「おしめで始まり、おしめで終わる。これで人生おしめーだ」みたいな言葉があったかもわからないが、結局のところ、赤ん坊も老人もそういった意味ではさして変わらないのだ。そういったことを鋭く書いたこの作品は、僕はあまり好きではなかったけれど、やはり凄い作品であることは間違いないのだと思った。

余談ですが、映画版はめっちゃ好きです。笑


「僕はいまどこにいると思う?」
家の中?違う。ファミレス?図書館?んー、惜しいな。心の中?クサすぎる。いま僕がどこにいるのかというと、極めて非日常性の高い場所にいる。それは場所に関してはもちろんであるが、僕が今置かれてる現状においても言えることだ。
僕は飛行機に乗り遅れた。そして今僕が乗るはずだった飛行機を見送りながら優雅にSOURSグミを噛んでいるところだ。ピュレグミよりうまいかもしれない。
今回は僕が人生で初めて飛行機に乗り遅れた話について語る。まさに今現在体験していることだから出来たてほやほやだ。いや、生中継だ。
行き先は札幌。帰省するためである。僕は2週間前からこの帰省を楽しみにしていて、僕はいったん気持ちが地元に移ってしまうと半ば東京というものに対して退廃的な気持ちになってしまうのだ。ここ2週間、僕は公衆便所に寄っては水を流さない日々が続いていた。立つ鳥跡を濁しまくっていたということだ。
そして運命の日である今日がやってきた。12:40の便であるので、起床は交通の兼ね合いも考え、余裕をもって7時として、目覚まし時計を設定した。僕は時間に厳しい人間である。友だちとの待ち合わせ時刻に関しては多くの人間よりも重きを置いている自負がある。正直いったところ、遅刻というのは最低の行為だ。これから社会人となろうものが、今のうちに遅刻の改善を徹底せずして何を語るのか。果たしてそんな大人になっていいのだろうか?
というわけで僕は9時に目覚めたのだった。目覚ましがなった記憶は無かった。時計の時刻を見た瞬間僕は顔面蒼白である。手足はガタガタと震え、頭の中が真っ白となり、意識が遠のきその場に倒れこんでしまったというのはまったくの嘘で、僕はとりあえず朝食の野菜スープに火を付けた。コトコトと煮込んだ。そしてそれを食べながら昨日録画した『乃木坂ってどこ?』というアイドル番組をケラケラ笑いながら楽しんだ。そしてシャワーを浴び、髪を乾かし、荷物をまとめて、途中で烏龍茶を買って堂々と遅刻した。
離陸は12時40分だが、こんなのはインチキなもので実際には12時10分に着かなくてはいけないというのが航空業界である。それでも僕はなんだかんだ急いで12時35分に着いて、ヨダレを垂らしながら、航空会社の人に「乗り遅れちゃいましダァ!!」と泣き叫ぶと、「わかりました。こちらにお並びください」と丁寧に諭された。僕は「フーフー」言いながらサービスカウンターの順番を待った。そこで頭をフル回転させて、いったい僕がこれからどうなるのか、ということについて考えた。今日は土曜日なので、空席は無いのでは。それならば僕はいつ帰れるんだ?席があったとしても当日購入なら3万円ぐらい必要かもしれない。何!?ではATMに行かなければならないじゃないか!!
僕は列から離れ、ダッシュでATMに向かった。いくら請求されるかわからないので、5万円を引き下ろした。僕が50時間働いて稼ぐお金である。航空会社というものは得体がしれなさすぎて、その時の僕にとってはインチキヤクザ会社という印象だったのだ。出てきた5万円を引っ掴み、「フーフー」言いながらまた列に並んだ。そして僕の番が来た。
僕があれこれと事情を説明すると、
「お客様、空港に着かれたのは何時ですか?」と聞かれたので、「12:30分頃です」と言った。そう、離陸には間に合ったが、搭乗は不可能な時間だったのだ。
「わかりました。では、変更手続き手数料といたしまして、3000円となります」と彼女は言った。
僕は混乱しながら3000円を支払った。そして、すんなりと代えのチケットを渡されてしまったので僕は思わず「3000円でいいんですか?」と尋ねた。
「はい。お客様は離陸には間に合っていますので、救済措置をとらせていただきました。あと10分遅れますと、新規のご購入となります」と彼女は微笑んだ。
そして僕も微笑んだ。

幸い時間には追われていなかったので、僕は売店でグミを買った。おばちゃんのレジさばきの手際の良さが印象的だった。そして僕はグミを噛みながら自分が乗るはずだった飛行機を搭乗ゲートで見送ったのだ。空は雲一つない快晴だった。
そして、今に至るわけだ。あと20分で僕の搭乗である。母の手料理が待っているらしい。飛行機乗り遅れたむねを伝えると、当然のことながら、まあまあキレていた。
僕の過去のツイートから転載して最近みた映画を紹介する記事です。できるだけ全てのせていくと思うので、つまらなかった映画も紹介します。語りたくもないダメな映画に出会った場合はのせないかも・・・、 今回は、『オーシャンズ13』、『風と共に去りぬ』、『コンテイジョン』、『ワールドウォーZ』、『クロニクル』の五本を紹介します。 3/5 映画『オーシャンズ13』 3部作完結。お疲れおめでとう。ありがとう。めでたし。ぱちぱち。


大好きなシリーズ。「オーシャンズ」で組んで、お宝ゲットだぜ!!の三作目。今作は原点回帰、舞台はカジノだ。カジノに隠されてあるダイヤを盗むのだ。僕は好きすぎてトリロジーでBlu-rayも買ってしまった。豪華キャストは言うまでもなく、最近僕はブラッドピットにドハマリしてるため、かっこよくてニヤニヤしっぱなしなのがこのシリーズ。ただ、3に関してはジュリアロバーツが出てくれなくて残念(*_*)11が最高傑作なのは異論ないよね。そして12がちょっと浅くなった。んで、13は最後だからってんで、とにかく楽しく明るく、めでたしめでたし!!オーシャンズ最高!!って感じの作品。笑 監督ソダーバーグの手のひらで踊らされるのが好きな人がオーシャンズシリーズのファンになるわけですね。13でも踊らされまくり。そして、すべてうまくいく。めでたしめでたし。もうなんかさ、娯楽映画すぎると、どうでも良くなっちゃう感じ?とりあえずトリロジーで完結させようぜってノリ? でも素直に最後は拍手しましたね。 ・・・★7

3/6 映画『風と共に去りぬ』  長尺をものともしないテンポの良さ。あと、生きる元気?ポジ映画?

 四時間あったので、結局2日に分けました。南北戦争を舞台にした、ミッチェルの傑作米文学が原作の映画。アカデミー賞9部門とかいうが、当時でこの豪華な映像は、今年でいうゼログラビティ的なノリの受賞なんじゃないかな。やっぱ、70年前の映画だから、特別面白いとは思わなかった。名作だし、英米文学専修として、教養のために見ておこうと思ってたら結局そんな感じで終わった。テンポの良さは凄かったけどね!ほとんどのシーンが1分立たずに切り替わるからね。ラスト10分は、さすがにめちゃ面白かった。超ポジティブ。ちょっとうるっときたよね。語弊があるかもしれないけど、結婚が大きなテーマとしてあって、しかも主人公が女性となると、男女で感想が分かれてしまうのはしょうがないことなのかなとは思う。女性はなんだかんだ、スカーレットの味方になって見ちゃうと思うのね。スカーレットってモラル的には終わってるけどさ、女性としてこんなにチヤホヤされるのって凄いことじゃない。だから、味方的な視点になれる要素があると思うけど、男性からしたらこの四時間、腰を据えるところがなくてね。。スカーレットを好きになる男性ばかりだからさ。だからこそ、ラスト10分にある、レットのあのセリフが僕としてはとても心に染みた。それまでの3時間半結構しんどかったんだけど、あのラストを見て、さすがに名作なんだなぁとか思ったね。うん、映画見たから小説は読まないです。。。笑 ちなみに日本では「明日は明日の風が吹く」が有名だが、結局それはTomorrow is another dayを洒落て訳しただけらしく、アメリカではそこまで有名なセリフではないみたい。そこらへん、知っておくと得なんだか、損なんだかわからんね。(°_°) あんなにわがままやってたスカーレットを捨てるレット。←ここ最高に良い。 でもめげないスカーレット。「明日考えよう」←これも最高に良い。 ラスト10分だけで身体の内からゴゴゴとエネルギーがたぎるようなそんな素晴らしいものがあった。結論としては、当然ながら見て良かった映画だと思う。特別おすすめする気にはならないけどさ。 ・・・★5 3/8 映画『コンテイジョン』 ストーリーは超地味。ただ、語られる恐怖はとことんリアル。

またもソダーバーグ監督、そして『オーシャンズ』ばりに豪華な出演陣ということで、程々に有名な作品ではあるが、内容はお粗末くんである。よくあるウイルス系パニック映画、なのだが他と違うのはとことんリアル路線に走ったところだろうか。まさに「感染シミュレーション映画」とでも言うべきか、リアルさ抜群。ただその分退屈すぎてしょうがない。静かなのだ。普通のパニック映画なら、解決の糸口が見つかったり、はたまたそれがおじゃんになったりとストーリーに起伏があるのだが、この作品はまるで無い。本当にシミュレーションって感じ。お情け程度にストーリーがくっついてる程度で、それはそれで何も面白くない。ストーリー的にもおじゃる丸見てる方がマシ。要はこの映画の楽しみ方としては、「ウイルス感染が起きたら本当にこんな風になっちゃいそうだな~」って思いながら見ることぐらいだろうか。まあ、それが僕にとっては眠すぎたわけだね。いま、深夜五時半だし。ただ、ラスト2分。めちゃ怖い。しばらく鳥肌がおさまらないね。このラストだけは価値がある。ラストに1番怖いところを持ってくるあたり、「パラノーマル~」に似た性格の悪さを感じるね。でも、本当にラスト2分。めちゃ怖いよ。繰り返すけど、この映画、このラストだけは価値がある。笑  ワクチンを国民に支給する際に、生産がおっつかないってんで、クジ引きで、誕生日で支給するシステムとかマジで起きそうって思ったね。「3/9が出ました。明日は3/9が誕生日の方にワクチン支給します。7/4が出ました。7/4の方は2日目の支給です。11/25が出ました~」

うん、ありそう。。 ・・・★5 3/8 映画『ワールド・ウォーZ』  結構面白かった。ブラッドがハマってた。ゲームやりたくなった。


ワールドウォーZね。面白かったのよ。ゾンビ映画ってほんと奥深いな、と。出尽くしたと思いきや、そうでもない、カルト的人気を誇るジャンルだよね。僕もゾンビ映画大好きです。ワールドウォーZは、良い裏切り方をしてたよね。色々と掟破りをしてた。それはグロ描写一切無しってとこがデカイ。女の子とも安心して見に行けるよね。あとはね、普通のゾンビ映画ではキーパーソンとなるようなキャラ(ゾンビに詳しいオタク系)が、序盤で呆気なく死ぬ。正直ここ笑う。だって、死に方がさ・・・、、。そこらへんが新しいかな。ちなみに今回のゾンビはウイルス性で、音に反応するらしい。そこはもう出尽くしたか。。? あと、キャストが良かったね。主人公は国連勤めの、スーパーマン。冷静沈着。腕を噛まれた女性を感染する前にズバッと手首切り落とすという恐ろしい決断力。結果的に命を救った。そんなキャラ、ブラッドピットしか似合わないよね。だから、ドハマリ。もう50のおっさんだが、相変わらず頼もしさが異常だわ。 さて、この映画有名なのがこのシーン。ゾンビから逃げるために、高い塀を作ったのだが、なんといとも簡単にゾンビが昇ってきてしまうのだった。ゾンビがゾンビに乗っかっていく、なんとも物理を無視した方法で。まあ、怖いね。ブラピはそれでも真顔ですが。

・・・★7

3/8 映画『クロニクル』  映像だけでこの点数上げちゃう!ストーリーはオマケだね。

始まりはよくある学園ストーリーの雰囲気で始まるが、学生3人がある穴を見つけてから急展開。かれらが突然超能力を手にしてしまって、物を飛ばしたり、空飛んだり、曲げたりできるようになる話。しかし、とある出来事から物語は次第に破滅に向かっていく。。。まあ~面白かったけどね。映画館で観なきゃだめかな。僕はHMDだから問題ないんだけど。要はね、映像は本当に素晴らしいんだけど、ストーリーがなんともいえないほど微妙なんだよね。ラストも強引だし。どうしようもないからあのラスト、みたいな。ちょっとがっかりした。ただ本当に映像は良くてさ、超能力の描写なんかみててめちゃ楽しいの。空飛んで、雲の上でラグビーするシーンとか最高。

あと、夕暮れの中、超高層ビルの屋上で青春の話したりとかさ。めっちゃ景色綺麗だし。そこらへんはすごく良かったなぁ。んで、後半は破滅モードになるんだけど、意外と楽しかったりもした。かなり怖かったけれど。個人的にはホラー気味に行くのではなく、前半の青春系の綺麗な感じでずっといってほしかったなぁ、って凄い思った。上映時間は90分ないし、見やすい。ただ、ちょっとDVDだと頼りないかな。。 ・・・★8

<<今回のイチオシ!!>>

え~~~~~~~とね、、、、、無いです。
なんか今回の作品五つともそんな好きじゃない。まあ、点数は良いけどさ。浅めの映画が多いからかな~。
あえて、★5をつけた『コンテイジョン』のラスト2分だけ見るってのもいいかもね。次回以降は良い作品を紹介できますように~。

自身のツイッターからの転載ですが、最近みた映画を紹介していきます。

『ファイト・クラブ』、『ハングオーバー2』、『デュー・デート』、『るろうに剣心』、『セックスと嘘とビデオテープ』の五本を紹介します。

2/26 映画『ファイト・クラブ』
美しいラストに口があく。この映画のメッセージをとくと受け取れ!

ファイトクラブ結局今日もみた。2日続けて。多分昨日わけわかんなかったのは、眠すぎたからだと思う。二回目で、こんなシーンあったっけ?ってとこたくさんあったからそこ完全に寝てたんだな。。そりゃわからんで、つまらんくなるわ。デヴィッド・フィンチャー監督。ガッツリハマりそうだ。なんだかんだちょくちょくこの人の映画見てるけど、面白いよ。斬新って一言で言っていいのかわからないけど、明らかに他の監督陣とは一線を画いた映画を撮る。ヘレナボナムカーターさんを初めて女として意識できた作品だった。普通に可愛かった。。好きになりそうだった。。相変わらずダークな役どころではあったけど、可愛かった。

ブラッドピットが初めて登場するシーンは鳥肌立っちゃうからお楽しみに。彼のルックスのピークってここらへんなんじゃないかな。とにかくかっこよすぎるわ。少し集中してみないとついていけなくなる作りだから、しっかり見ないとね。その分、話はめちゃくちゃ面白い。メッセージ性もビシバシ感じる。ただの暴力映画みたいに干されたらしいけど、身体の内側から凄い元気が湧き出てくるような映画だ。その元気が暴力的なものであることは否めないけど。。
極めつけはラストシーン、10秒。これほど美しいラストシーンは初めて!!びっくらこいた。

この映画、凄いなあ、と思いつつ、割と現実的にも思った。ほら、日本でもカルト的なことって起きたでしょ。やっぱりみんなそれぞれ自分に不満があってさ、理想があるわけだよね。ちょっとしたきっかけさえあればそれが爆発してしまうってちょっと怖いよね。ちなみにエドワードノートンがジョセフゴードンレヴィットに顔似ててかっこよかった。ブラピのが4京倍かっこよかったけど。あ、いま思い返したけど、ファイトクラブは、ヘレナボナムカーター以外、男まみれの映画です。暴力シーンがバカみたいに出てきます。あとすごい、革命的思想を持つ、、映画。。保守的でいるのが凄い情けなくなる、、そんな恐ろしく影響力が強い映画なんだ。久々に両手あげて絶賛映画じゃね?ファイトクラブ。
・・・★10

3/1 映画『ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える』
気楽に観れていいよね。この映画はラストがズルい。

ハングオーバーシリーズの二作目。ハードディスクに残ってたからみた。前作と同じくやらかしてしまって、起きたら昨日の記憶がまるでないってパターン。目覚めると猿がいて、坊主になってて、顔にはタトゥー。友だちが1人いない!いったい昨日おれらは何をやってしまったんだ!?
感想としては一作目の方が凝ってたかなぁ。二日酔いの謎解きって斬新だったしね。ぶっちゃけ二作目はそこまで。笑えるんだけどさ。普通って感じだ。特に印象に残るシーンもなかったし、謎解きするだけで、ぶっちゃけ単調なまま終わる。このままだとあんまりなぁ。。。って思ったところで流れるエンドロール。デジカメで撮った昨日の惨劇のスライドショーだ。これがこの映画の卑怯なところ。いわば本編の始まりである。結局はいままでの謎解きが全てこのエンドロールの前フリとなっていて、今までの苦労から、感動すら覚える。あんなバカなことやってた奴があんな大真面目な顔して必死こいて自分の尻拭いしに色んなところ回ってたわけだ。そりゃ面白い!エンドロール見ないで帰るお客さんが多い中、この試みはイイよね。というわけで、95%はいまいちなのに、エンドロールのおかけでめっちゃいい映画みた気になっちゃうのさ。
・・・★6

3/1 映画『デューデート ~出産まであと5日!史上最悪のアメリカ横断~』
ハングオーバーより、友情を描くことに焦点をおいている。

昨日続けてみた映画がこれ。これもハードディスクにあった。ハングオーバーの監督トッドフィリップスのやつ。一応、、ハングオーバーだけの監督ではありません。キャストは『アイアンマン』のロバートダウニーJr.と、ハングオーバーにも出ているデブの人(名前知らねえ!!笑)お嫁さんの出産に立ち会わなきゃいけないのに、トラブルで飛行機に乗れなくなった。そこで、おデブがその病院まで送ってやる、ということで男2人の5日間の旅、スタート。しかし、この旅、ハチャメチャである。困難続き。
ハングオーバーより好きだったんだよね。登場人物が2人だからセリフの掛け合いがしっかりしてて面白い。それにデブのキャラもかなり活かされててイイ。個人的に好きなシーンが、デブの父の遺灰をコーヒーに混ぜて間違って飲むところだ。その他にも結構笑えるところが多くて楽しい。ちゃんとラストにホッコリするものが用意されてるし、普通にいい映画だった。「喧嘩するほど仲がいい」とかいうけどね、まあこの映画くらいだよね、久しぶりにこの言葉思い出させたの。笑
・・・★7

3/1 映画『るろうに剣心』
アクション面白い。見所は江口洋介の超人アクション。

ハードディスク整理の巻。佐藤健くんはとてもいい役者でござる。武井咲は可愛いだけだけど、蒼井優さんは可愛いし、怪しい女の役だったから珍しく色気もあって、拙者とても興奮したでござる!!
剣術アクションがとても凄かったでござる!!見応え抜群。にしても人殺せない縛りで戦うとか難易度高すぎでござる。敵に対しても殺さないとかバカ真面目すぎるでござる!!!
ストーリーは普通です。アクションがとにかく気持ちよかった。続編があるみたいです。地上波出たらみます。。笑 あ、江口洋介さんが超人的なジャンプを見せてくれるでござる!!X-MENレベルでござる。拙者、突然の江口先輩の跳躍力にさすがに噴いてしまったでござる、、
・・・★6

3/4 映画『セックスと嘘とビデオテープ』 
文学的。芥川賞あげたくなる。

「オーシャンズ」シリーズのスティーブンソダーバーグ監督のデビュー作。結構良かった。まあ、良質な昼ドラって感じだ。セックスレスの妻の妹と浮気する男。そこに旦那の大学時代の友人が転がり込んでくる。しかもそいつは結構特殊な性癖を持っている男だった。性行為はせず、女性の性体験の告白をインタビュー形式でカメラに収めるのに性的なものを感じる男。まあ、AVでもインタビューのところが1番いいって言ってる男が日本にもたくさんいるわけだから結構共感を受けるところなのかもしれない。さすがに自分で撮るほどの行動力は彼らには無いみたいだが。
音楽もほとんどかからず、ずっと暗いまま進むのだが脚本がかなり僕好みだったわけだ。なんか凄い文学的でさ、もしこれが小説で、俺が腕が五本生えてる審査員なら間違いなく芥川賞をあげてやりたくなるストーリーだった。セックスと嘘とビデオテープ。まさにそのタイトル通り、この3点についてとことん語る映画。ビデオテープってのはつまり「嘘の反対=告白、正直」を表してて、いいタイトルだなぁとかも思う。古めの作品で恐ろしいくらいに安い作品ではあるけれど、かなり楽しめる。おすすめ。
・・・★8

<<今回のイチオシ!!>>
『ファイトクラブ』で間違いないです。これは見なきゃいけない映画です。特に男ならね。
あと、インディペンデント系ということで『セックスと嘘とビデオテープ』も良作なので見てほしいです。