ついに貯め終わりました
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有名なこちらで。


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うひょ!?


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並べてみた


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5万円タワー


101,000円貯めました!
期間は9月末からだから、4ヶ月ですね!

とにかく500円玉を使わないという自分ルールを作り、1000円札を使いまくりました(笑)

貯金始めてだったんですけどこれはめちゃ貯まりやすいですと思います。

うひょー!



iPhoneからの投稿
今回はいつもと違ったテイストに。

三ヶ月待ち望んでいたヘッドマウントディスプレイをようやく購入することができました。
当然SONYのHMZ新型です。

外箱
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内容物
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本体、プロセッサー、付属イヤホン、電源ケーブル、HDMIケーブルです

つけた感じ
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かなり奇妙な感じでしょうね。
でも実際つけてみてしまうと、自分の見た目は確認できないわけですから問題ないでしょう。


サウンド
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オープンエア型のヘッドホンもついでに購入しました


感想。

初めて着けたときはあまりに感動しすぎて、笑が止まりませんでした。
これは言葉のあやでもなんでもなく、本当に言葉そのまま笑がとまりませんでした。

その後いろいろ試してみました。

・ゲーム
ウイニングイレブン
まったく問題なし。映画館貸し切ってゲームをしている感覚。

バイオハザード アンブレラクロニクルズ
カーソルの動きが少し速く感じるのと、やはり手元が見えないと自分がどこを撃っているのかの認識が弱い
微妙。

GTA4
もれなく酔います


映画
まったく問題なし。むしろ映画視聴がメインであり、5.1chサラウンドシステムも加わって、個人的には映画館以上の視聴環境でした。


3D
まだ3D映像をもってないので確認できてないです。近々3D対応の映画を借りて来ます


メリット
ど迫力。
3D対応。
そしてなにより、ベッドに入ってぬくぬく仰向けのまま視聴できる。
これが1番新鮮なことでした。

デメリット
おでこの締め付けが後半辛い。
バンドで締め付けて使うんで、頭部は割と窮屈です。夏場がきつそうです。
調節に関しては慣れれば30秒ほどでいけますが、依然難しい部類です。
やはり目がしんどい。3時間で警告表示されます。両端はうまく調節できないとぼやけるので目は疲れます。


しかしながら、大学の試験が終われば一日一本ペースで映画をみていく予定ですので良い買い物したなって思います。
現在使用しているテレビがワンルームにしては大きい32型なんですが、やはり目とディスプレイの間に生活感があると冷めてしまいます。
しかし、ヘッドマウントディスプレイはそのまんま映画館。しかも客席なし。没入感と表現するらしいですが、映画鑑賞がかなり捗ること間違いなしです。


さて、こっからは書くかどうか迷いましたが、男性諸君のみの話になります、もちろん試してみました。
まさに目の前にいるかのような錯覚ができます。
場合によれば映画よりこちらがメインになる方も多いかと。当然私は映画目的ですが。
しかし、この場合1人暮らしの方限定でしょうね。
使用すると、視覚と聴覚がシャットダウンされるんで、万が一見られたら、戸籍から抹消されるかもわかりません。



というわけで、映画大好きな方、お金に余裕ができれば買ってみてもいいのではないでしょうか。
私は独身貴族っぷりがまた一つ加速してしまいました。




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受験が近い中学三年生にメールを送りました。
そういえばセンター試験が明日に控えてます。残念なことに私は二回受けましたが、とんでもなく嫌な空間です。私立志望の自分でさえそうなのですから、国立志望の心情は凄まじいことでしょう。

以下コピペ


こんばんわ。中村です。
調子どうだい。
まぁ、推薦入試が近いと思うんだけど、あんま気にすることはない。落ちることを考える必要もないし。メリットがないからね。

受験ってのは不完全で挑むものなのさ。必ず何かを捨てなければならない。そういうときに、受験までの残り時間を計算して、その期間で自分に何ができるのかをリストアップする。それで優先度が高いものから片付けていく。満遍なく手を出して実の残らないパフォーマンスをするよりかは要領が良いはずだ。

もし緊張して、頭が働かなかったら、机にペンを一旦置いて、深呼吸。
そして口角を上げて、smile!
最後に一言「良し。」
やってみるといい。落ち着くよ。自分を客観視できて冷静になれるはずだ。周りの人間だって不安で緊張して受けてるんだ。なにも君だけじゃない。

さて、最後に。
受験ってのは非常にシンプルなもので、学校が設けたラインを1点でも超えてれば受かるんだ。努力で身につけた学力は裏切らないよ。受かるやつは受かるべくして受かるし、おちるやつは落ちるべくして落ちるのさ。まぐれで受かることはあるけど、まぐれで落ちることは無い。安心して受けてきてください。

各試験の直前とかに暇つぶしにもっかい見直してくれると嬉しい。

それでは、君の努力を讃えて。


《追記》
その後、彼からは第一志望合格の報告を受けました。できる子だったからなぁ。英語ができたおかげで受かったと言ってくれました。良かった。おめでとう。


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血液型性格診断信じてますか?

できればこの記事を読んで信じるのをやめてもらいたいんですけど。
まぁ、実はこれから書く記事は中学生時代から思っていた内容でして、ようやく文章化することができました。


本気で血液型性格診断を信じている人ってのはいないってことを私は信じたいのだが、一昔前に「○型自分の説明書」という本がよく売れていたことからすると、そういうわけにもいかないのかなと思う。


さて、とりあえず当たり前のことだが、血液型性格診断に科学的根拠はない。

ではまず血液型性格診断の概要から入っていきたい。
1970年代に能見正比古が提唱して彼の著作から世間に広まっていったのが始まりである。
著書は売れに売れ、マスコミなどにも多くとりあげられた。

しかし、科学的根拠が無く、血液型性格分類というのは誤った説というのが今の認識である。

能見正比古の著作では血液型性格分類のためのデータが掲載されていたらしいが、ソースが彼の著作の読者アンケートだったというから恐ろしい。なにが恐ろしいかはあとから詳しく述べていきたい。


まぁ、単純に言えば、人間の性格がたった4タイプに分類されるわけはないのだ。
前の記事にも書いたが、血液型性格診断を信じるものは自分は個性的だと思ってる人間にありがちな傾向で、その時点で「ここに書いてあることは誰にでもあてはまること」という思考が欠如しているために生じることである。



しかしながら、うまい具合に世間にはそれぞれの血液型別性格イメージが定着しているように思う。
A型…几帳面、B型…自己中心的、O型…社交的、AB型…変わり者
代表的なものをあげるとこんな感じだろうか。

私はAB型だが、こんな認識をされてしまってはB型とAB型の人間はたまったもんじゃない。

「私の血液型なんだと思う?」
と聞いてくる輩には、好みならAかO、ナシならBかABと答えておけばいいのかな。
まぁ、そんな話はどうでもよくて。


まず、血液型性格分類が確実にあてにならないという認識を持たなくてはならない。
でないと、とんでもなく怖いことが起こるのだ。


血液型性格診断に自分の性格が形成されてしまっている可能性があるということだ。


これは非常に恐ろしいことで、幼いころから私たちは血液型性格診断を聞かされてきており、マスメディアの影響もあり、先ほど述べた血液型別性格の固定観念を持っている。

AB型の子供がいて、
100人中99人がAを選択しているという状況で
「ぼくはAB型だから個性的でいいんだ」といいながらBを選択する、とか。

もしこんなことがあったら…。


能見正比古のデータのソースが読者アンケートという話を先ほどしたが、
そりゃ能見正比古の求めた通りのデータが集まるのも当たり前だろう。


自分の性格が血液型性格診断に形成されてたらと思うと私は頭がおかしくなりそうだ。


血液型性格診断を信じている人間、ほんとにそれでいいのか。
あなたはそれっぽっちの人間なのか。
幅広い可能性があるはずなのに自ら壁を作っていないか。
血液型何型?と聞いて、B型と返ってきたときに何をがっかりする理由があるのだ。むしろがっかりされるのは質問したあなたの方だ。



とはいえ、血液型の話が盛り上がるのは事実だ。
私はそれがただの「血液型性格診断ごっこ」であってほしいなと思っている。




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昨日講談社ホールにて第四回西きょうじポレポレ課外授業が開催されたので行ってきました。
いままではまだ札幌にいたりだとか、スケジュールが合わなかったりだとかで、今回の参加が初めてとなります。

それでテーマが「これからの時代に仕事とどう向き合うか」でして、就活も始まった今、とてもタイムリーなテーマで、さすがだなと思いました。

そこでみなさんとシェアできたらいいなという内容が、残念ながらごく一部しか紹介できませんが、ありますので書いていきたいと思います。



労働と仕事について違いを述べることができるだろうか。
レジュメには経済学者のハンナアーレントが示した定義が載っていたが、難しすぎるので、簡単に言うと
労働…動物は食べなきゃ生きられない。そのための手段であり「せざるを得ないこと」

仕事…「人間として生きていくのに必要なこと」つまり、自然環境に従って生活するのは動物とは変わりないからこそ、人間的に生きることが必要


さらに西きょうじ講師なりの定義をすると(こっちの方がよりわかりやすい)

労働…報酬を伴うもので苦役だったりする。強制力をもって働かされることを合意する。状況によって強制された生存のための手段

仕事…報酬を伴うものと、伴わないものがある。多くの場合やりがいのあるものである。自ら進んで働いたり、仲間に頼まれて働くことを合意する。生活手段であるが、自発性を伴い、自らにまた、他者に何らかの喜びを与えること。

つまり、仕事とは大きくまとめると自発性とやりがいということだ。


何をやるかではなく、やっていることとどういう接し方をするかということが重要である。
仕事への接し方の自己決定権を失うと仕事は労働となり人の精神、心身を蝕む原因となりかねない。

とのことだ。

西講師はこの話をする前に、今回の講演会はノーギャラでやっているという話を前提として、「私は今仕事をしているでしょうか?」と問いかけた。
私は、仕事は見返りに金銭的または物的報酬を伴わなくてはいけないと思っていたので、仕事ではないという方に手を挙げたのだが、即座に西講師に「私は断じて仕事だと思っています」と言われてしまった。
今ではなるほどその通りだと思う。


さて、次に西講師はこんなエピソードを話してくれた。

「石切場にやってきた男が、石工になにをしているのかと尋ねた。一人の石工は不機嫌な表情で『このいまいましい石を切っているところだ』とぼやいた。
別の石工は満足げな表情で『大聖堂を建てる仕事をしているんだよ』と誇らしげに答えた。
完成した暁の大聖堂の全容を思い描くことができて、しかもその建設工事の一翼をになっている石工はただ目の前の花崗岩をみつめてうんざりしている石工より、はるかに満足しているし生産的だ」

私はとても共感した。
前者の石工は労働にしかなり得ないが、後者の石工は紛れもなく仕事をしている。
私も教員を目指し塾講師としてバイトを始めたわけだが、
教員をめざす理由というのは、こんなに多くの人の思い出に残る仕事は他にないと思ったからだ。塾講師を始めた理由は、教員になるためのステップアップとしか考えていなかったが、今思えば、私の塾は担任制ということもあり、既に一世代目の生徒と関わっているのに違いないと考えている。

中学校時代の担任を思い出してくださいと言われたら、多分全員に近い人が思い出せると思う。中学校時代の通っていた塾の先生を思い出してくださいと言われても同様だろう。少なくとも私はそうだ。

どんなに記憶は薄れるものといえども約10年はこうして覚えてられるのだ。
コンビニ、マクドナルド、ショップ、居酒屋の店員じゃ無理だ。

とても素晴らしい仕事だと感じてやっている。
一時期、ダブルワークでマクドナルドもやっていたことがあるのだが、1ヶ月でやめた。今なら言葉にして表現できる。労働だと思ったからであろう。

大学生のアルバイトなんて、上京組でなきゃ「せざるを得ない」こともないだろう。労働だと感じているなら、さっさとやめて、仕事をすべきだとは思う。


とまぁ、西講師の話とそれを踏まえた私なりの考えでした。
とても素晴らしい講演でした。ありがとうございました!
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人に裏切られることを恐れて、誰も信用しない人がいる。

私は、人は全面的に信用すべきだと思う。特に友だちの関係ならなおさらだ。

確かに一度でも人に裏切られた経験を持つと、またこんな思いをするのではないかと裏切られることを恐れて、不信になる気持ちはわかります。



だけど、裏切られることによって生まれる被害ってそんなに大きくないと思います。

起こるかわからない裏切りを恐れて、目の前の人を信じれなくなる方がよっぽど怖いことだとは思っている。

この考えは結構自分の中で強い思いではあると思っているのだが、一方でまた矛盾した思いも抱いていて。


説教(という表現からして間違っているのだとは思うのだが)を聞くのが非常に苦手なのである。

特に自分の性格面に関連することについて言われるときほど苦手なものはなくて、あなたより自分が1番自分のことわかっていますから無駄なのになぁやめてほしい、と思ってしまう。


まぁ、この考えは相手に対する不信なんだと思う。


最近になって、お金を貸す、だとか相手が明らかに嘘を言ってそうだとしてもとりあえず信用する、というのはできてきているのだけれど、
どうもその点に関しては苦手である。

難しいです。
素直に相手の意見を聞くことって信頼に繋がるのだなとわかっただけ、以前より成長できたのだとは思う。


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最近思うのは、人間って個性的でありたいんだなってことだ。

それはまぁ、個性尊重の時代に生きてきた私たちであるから、納得できないことではないのだが。


しかし、これは別に私たちに限ったことでもなんでもない。


というのは、たとえば血液型占い、または診断。


あれを「当たってる~すごい!!」などといって喜ぶ輩は、確実に自分は個性的だと思ってるのだと最近気づいた。


なぜかというと、実はあれには、だれが読んでも思い当たる節があることが書いている。


まぁ、ああいう診断系は10個羅列して、1つでも当たれば、当たった気になるのが人間のあほなところだが、今回の問題はそこではなく、


”これはだれにでもあてはまること、という思考がない”


ということだ。



自分はまったく個性的でないと思ってる人間が同じものをみたとして、

きっと、同じ感想はでてこないだろうと思う。



なんだこれ、あたりまえじゃん。 とか、そんなところだろう。



それに対して、感動し、驚くやつは、少なくとも

自分は”やっぱり”ほかの血液型の人間とは違う個性をもっているんだ!


という思考がはたらいているに違いない。


最近、Twitterで、

A型の人RT、B型の人RT、O型の人RT、AB型の人RT

という風に4つ血液型診断のツイートがあったのだが

そのそれぞれの血液型の性格的特徴を示した、4つ全部が同じ内容で、しかも意外と結構な数がRTされてて笑ってしまった。



まぁ、そのツイート主は、きっと、血液型診断なんてあてにならないでしょ?ってことはもちろん

「なに、自分の性格が個性的だと思ってるんだよ。みんなそうだっつーの。ほらみてみ?」

という思いも込めていると信じたい。



というわけで、人間って個性的でありたいのです。何か考えを持ったらこの考えは自分だけのものだって思っちゃうタイプなんです。




だから、恋愛観、仕事観などなどの考えは決して曲げずに貫き通したがるのだ。

じゃあ自己主張ってなんだ。


食事の席では、ちょっとばかしまずい料理がきたとしてもみんなで声を合わせて「おいしい~!」と、とりあえず言うのだろう。それでひとりになったとき「やっぱまずかったな。。。と感じるのは私だけだろうか」なの?

違います、みんな同じこと思ってます。個性化失敗、残念。



犬と猫がでてきたら、とりあえずみんな声を合わせて「かわいい~!」ですか。きっとその場の空気に合わせていっているのでしょう、わかってます。

「私は、本気でかわいいとは思ってませんが、あの場ではかわいい~!と言うことによりその場の空気に一体してみただけです」って言うんでしょ?わかってます。「私を他の大勢と一緒にしないでください。」でしょ?わかってます。

でもね、それすらみんな同じこと思ってます。個性化失敗、残念。



みんな個性的でありたいのである。

すでに見た目が違う時点で充分個性的であることに気付かずに...。



まぁこんな記事自らの首を絞めているだけなわけだ。


ただ、まぁ、やはりそれがどんなに普遍的な考えであろうと、表に出すことにはなんらかの意味はあると思う。人は結局は一人で孤独の世界にいるときにしか個性的でいられないのだから。

まず、はじめに、私は後悔は死んでもしたくない。
死んでもしたくないというのは、よくある言い回しだから使ってみたとかそんなレベルではなく、大マジだ。
後悔を残したら死のうと思う。大マジで。


いきなりこんな導入はどうかと思うが、私がこうまで思うのは、いざ死ぬときに(人は自分が死ぬ瞬間というのが不思議と感じられるらしい)、「あ、あのときあぁしておけば良かったな」と思って死にたくないわけだ。


死ぬことと、後悔を残して死ぬことなら、死ぬことの方がましでしょ?
だから後悔してしまった瞬間自分はすでに死んでいるようなものなのだ。

だから本当に死んでしまうかもしれない。


もちろん、私は「あ、今朝朝飯食っておけば良かったな」というくらいで死んだりはしない。
そんなこと言い出したら私は何度死ねばいい。先程の授業で教科書を忘れてしまったことに気づいた瞬間死ねば良かったのか。


そうではなく、なぜ私が死なないかといえばそれを私は後悔と捉えてないからだ。後悔=死。後悔じゃない=死じゃない。当然です。


実は私の中での後悔の定義というものは非常に範囲が狭い。(はずだ)
故に、ほぼ死ぬような後悔には出会わない。(だって死にたくないんだもん。)


では定義とは何か。
実は申し訳ないが、後悔の定義は言葉で表せるほどまだ自分の中では定まっていない。今から後悔ではないことの定義を話すので、その背反だと捉えてくれれば嬉しい。

それでは改めて。
後悔にならないことの定義は自分の中では、「考え、経験をつみ、考え抜いた後に、プラスイメージに変換できること」である。

簡単なことです。人生考え方であり、面白きこともなき世を面白くできるわけだ。

例えば、朝飯を食いのがしたというマイナスイメージをプラスイメージに変換できるだろうか。


「節約できた。」
「ダイエットになった。」
などなど。
もっといえば「朝飯を食べる時間がなくなって良かった」とか。


私は今日教科書を忘れてしまったわけだが、「友だちに、教科書見せて、とコミュニケーションを取れて良かった。」と変換しておいた。(荷物が軽くなって良かった、は今思いついた。)


とまぁ、そういうわけだ。

後悔に値すべきことの例を出したいのだが、これが非常に難しい。
ただ一つ挙げるのなら、きっと「自分が関連した他人の死」だ。

不意に手を離したすきに子どもが横断歩道に走って車に轢かれて即死、だとか。

まぁ、私もきっとその場で死ぬだろう。

世の中に「子どもが1人減って生活費が浮いて良かった」と考える人間はいるだろうか。
いたとして、その人は金と命を天秤にかけて、金をとるのだろうか。


後悔ではないことの例としてあげたことは、結局「~じゃない方が良かった」が成立するのだ。
あとあと考えたら朝飯食べない方が良かったじゃん!教科書忘れて良かったじゃん!


ものは本当に考えようで、だいたいのことはプラスイメージに変換できる。
ただし変換できないものは不運ながら訪れることもある。

そのときはしょうがないです。
私なら死にますし。

ただプラスイメージに変換できるものはできた方が楽しいとは思いますね。











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議論ってたしかに私も「それを行うことによって現在の自分の考えとは異なる結論に達するものだという合意の上でなされる」ものだと思うのだけれど。

勘違いしている人が多いなと感じます。

勘違いしている人ってきっと最初のスタンスから違うと思うんだ。
自分の意思を強く持つことはときには大切だけれど、議論の場では、その意思が180度変わる可能性ってのも当然受け入れてなくてはいけない。

なんか、勘違いして、とにかく相手の主張にまされば良し。みたいな勝ち負け主義…多いなぁ…。

そういう人とは議論なんかしたくないよ。第一議論じゃないし。だからもしそういう雰囲気になったら、私はさっさと逃げてます。


ましてや、相手の主張だけじゃなく、相手の人格批判にまで至るような人間もいます…これはもう論外というか…なにがしたいのかわかりません。

ツイッターでもよくそのような短絡的思考ゆえの議論もどきが見受けられる気がします。
特に著名人の方は気の毒です。

聞く力の欠如。
聞くことって話すことなのに。




◆「情報以前の知的作法」を読んで

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先日バイト先での打ち上げに参加したのだが、その二次会のカラオケでこんなやりとりがあった。

私「Aさん、何歌うんですか?」

A「ラルクとかよく歌うよ~」

B「Aはほんとラルク大好きだよな!自分のことハイドって言い出すもんな(笑)」

私「まじですか!ぼくも好きです!一緒に歌いません?」

A「お、いいねぇー!歌おう歌おう!」



こうして私とAは一曲目にラルクを2人で歌ったのだが、その後二時間室内にラルクが流れることはなかった。



ラルク大好きなAがラルクをそれ以降歌わなかった理由はなんなのかと考えてみると

もしかしたら私に遠慮したのではないかという結論に至った。

最初に2人でラルクを歌ったことにより、それ以降ラルクを歌う時も2人で歌わなくてはいけないという縛りが自然にできてしまっていたのではないかと思う。


それほど気軽に話す間柄でもないため、自然とラルクを避ける結果になったのだろうか。


仲良くなろうと良かれと思って言った言動が、余計な壁を作ってしまったとは。


たしかによく考えたら一度2人で歌ったアーティストを次は1人で歌うというのも不自然なかんじである。

なんとまぁ、カラオケではこの発言は控えた方がいいなと思わせる一件であった。







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