まず、はじめに、私は後悔は死んでもしたくない。
死んでもしたくないというのは、よくある言い回しだから使ってみたとかそんなレベルではなく、大マジだ。
後悔を残したら死のうと思う。大マジで。


いきなりこんな導入はどうかと思うが、私がこうまで思うのは、いざ死ぬときに(人は自分が死ぬ瞬間というのが不思議と感じられるらしい)、「あ、あのときあぁしておけば良かったな」と思って死にたくないわけだ。


死ぬことと、後悔を残して死ぬことなら、死ぬことの方がましでしょ?
だから後悔してしまった瞬間自分はすでに死んでいるようなものなのだ。

だから本当に死んでしまうかもしれない。


もちろん、私は「あ、今朝朝飯食っておけば良かったな」というくらいで死んだりはしない。
そんなこと言い出したら私は何度死ねばいい。先程の授業で教科書を忘れてしまったことに気づいた瞬間死ねば良かったのか。


そうではなく、なぜ私が死なないかといえばそれを私は後悔と捉えてないからだ。後悔=死。後悔じゃない=死じゃない。当然です。


実は私の中での後悔の定義というものは非常に範囲が狭い。(はずだ)
故に、ほぼ死ぬような後悔には出会わない。(だって死にたくないんだもん。)


では定義とは何か。
実は申し訳ないが、後悔の定義は言葉で表せるほどまだ自分の中では定まっていない。今から後悔ではないことの定義を話すので、その背反だと捉えてくれれば嬉しい。

それでは改めて。
後悔にならないことの定義は自分の中では、「考え、経験をつみ、考え抜いた後に、プラスイメージに変換できること」である。

簡単なことです。人生考え方であり、面白きこともなき世を面白くできるわけだ。

例えば、朝飯を食いのがしたというマイナスイメージをプラスイメージに変換できるだろうか。


「節約できた。」
「ダイエットになった。」
などなど。
もっといえば「朝飯を食べる時間がなくなって良かった」とか。


私は今日教科書を忘れてしまったわけだが、「友だちに、教科書見せて、とコミュニケーションを取れて良かった。」と変換しておいた。(荷物が軽くなって良かった、は今思いついた。)


とまぁ、そういうわけだ。

後悔に値すべきことの例を出したいのだが、これが非常に難しい。
ただ一つ挙げるのなら、きっと「自分が関連した他人の死」だ。

不意に手を離したすきに子どもが横断歩道に走って車に轢かれて即死、だとか。

まぁ、私もきっとその場で死ぬだろう。

世の中に「子どもが1人減って生活費が浮いて良かった」と考える人間はいるだろうか。
いたとして、その人は金と命を天秤にかけて、金をとるのだろうか。


後悔ではないことの例としてあげたことは、結局「~じゃない方が良かった」が成立するのだ。
あとあと考えたら朝飯食べない方が良かったじゃん!教科書忘れて良かったじゃん!


ものは本当に考えようで、だいたいのことはプラスイメージに変換できる。
ただし変換できないものは不運ながら訪れることもある。

そのときはしょうがないです。
私なら死にますし。

ただプラスイメージに変換できるものはできた方が楽しいとは思いますね。











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