さよならみどりちゃん [DVD]/星野真里,西島秀俊,松尾敏伸
¥3,990
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OLのゆうこ(星野真里)はいいかげんな性格のユタカ(西島秀俊)と付き合っているが、ユタカには「みどりちゃん」という本命の彼女がいた。(シネマトゥデイ)



★14番目の月が一番好き


今回はさよならみどりちゃん。

つい最近二回目みました。



星野真里の残念おっぱいがきっかけとなってみる人がほとんどでしょうね。

本人は自分が残念おっぱいと言われてることを知ってるみたいですけど、みんなね、胸が小さいから残念おっぱいっていったわけじゃなくてね、形の話なんですよ。

その点自分の中では「ジョゼ」における池脇千鶴は残念おっぱいではありません。



そろそろ話を戻しましょう笑



この映画はひとことで言ってしまえば、ラストシーンで全てもってっちゃったってやつ。

ラストシーンでユウコが歌う歌の歌詞に全てメッセージが込められているんだなぁ。と個人的には解釈しています。



ぶっちゃけ、今思い返したら、ラストシーン以外、あんまり記憶に残るシーンがないかなっていう。タクシー追いかけるシーンはさすがに気づくだろ!って違和感ありましたけど。

ユウコの崩壊っぷりがちょっとつらいなぁ、とも思いつつ、まぁ実際的を射てるんだなぁ、きっと女性の中にはユウコみたいな人って多いんだろうなぁとも思います。



ユウコがほんとにそこらにいるキャラであるのに対し、

西島秀俊演じるユタカはほんとに特殊なキャラクターだなぁと思いますね、男から言わせてもらったら。

初エッチをして、ユウコから「このタオル、ユタカ専用にするんだぁ」と、もう付き合ってる感マンマンなユウコ本人目の前にして、なんの気負いもなく、「あー、そういうの無理無理。オレ彼女いるから」って平気でいっちゃう男です。


それでもあいまいな関係を続け、「オレ○○とやっちゃった」とか軽くポロっとユウコに笑いながら言っちゃう男です。


作品中ではユタカに男友達がいるって感じには描かれてないんですよねぇ、僕も彼とは友達になりたくないですわ。

ユタカに感情移入する人はいないんじゃないですかねぇ。

それでもああいう男がモテてしまうんだからむかつきますね。。笑


ラストシーン、残念おっぱいが披露されるわけですけど、

やっぱり披露するなりの意味はあるというわけです。


身も心もすっぽんぽん。そんな体当たりシーン。それに対するユタカの返答。

そこがこの映画のキモ。そして学べるシーンでもあります。


ちなみにエンドロール。

ちょっとしゃれた演出がされております。ここが僕は好きでしょうがない。歌詞を堪能して、自分の恋愛観と比較してみてくださいな。



観た人にしかわからないですけど、ユウコとユタカのその後ってどう思います?



その解釈もその人の恋愛観でまっぷたつになるのかと。


なにはともあれ、邦画の中ではなかなかの作品。好きです。







ライフ・イズ・ビューティフル [DVD]/ロベルト・ベニーニ,ニコレッタ・ブラスキ,ジョルジオ・カンタリーニ
¥1,890
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カンヌ映画祭で審査員グランプリに輝いた、ロベルト・ベニーニ監督・脚本・主演の感動作。ナチの強制収容所に収監されたある一家の物語を、ユーモラスかつ温かな視点で描く。“イタリアのチャップリン”と称される、ベニーニのユーモアと哀しみを交錯させた演出が秀逸。1939年、ユダヤ系イタリア人のグイドは、小学校の教師ドーラに恋をする。彼の純粋さに惹かれた彼女は結婚を承諾。やがて可愛い息子も生まれ、3人は幸せな日々を送っていた。そんなある時、彼らに突然強制収容所への収監命令が下る。(allcinema ONLINE)




★人生って素晴らしい。



こんにちは。

観た映画を気まぐれに書いていく記事です。

ネタバレをなるべく避ける感じで書きたいです。なお、好き度を10段階の星であらわしています。



それでは、ライフイズビューティフルという映画。

松本人志著のシネマ坊主で絶賛されていたのでみてみました。おととしに一回みて、今年もっかいみてみました。


タイトルだけみたら、なんというダサいことか。

小学生の日記のタイトルか!みたいな。


そんな感じでみていきますと、これはこれは、最初の方がダサいんです。

前半は二人が結婚して子供を産むとこまでが描かれるんですけど、ここの演出がほんとにくさい。

まぁ、奥さんがピンチのときにいわゆる白馬の王子様的な感じでベニーニが登場するシーンを何回も繰り返すんです。これがちょっと現実的な人間にはキツイなぁ、と。このまま続くようだったら、えらいことになってしまうぞ、と。ほんとフルハウスみたいなテンションなんですよ。まぁ、それはそれでいいんでしょうけど。



しかし、この映画はそんな風には終わらせないのです。

子どもが生まれてから素晴らしい展開をみせていきます。


背景は第二次世界大戦のホロコーストで、ベニーニ演じる、お父さんはユダヤ系であり、奥さんは違うのですが、そのハーフということで、子どももユダヤ系とみなされ、父と子は連行されてしまいます。

実は、ハッピーな前半部分にも、ユダヤは入店禁止の張り紙を映したりなど伏線は張ってあります。


父と子が連行されると聞き、奥さんはいかなくていいのに、「わたしもいく」と。


この映画は家族愛がはんぱじゃないんです。

僕は本当に家族愛を描く映画に弱くてすぐ泣いてしまいます。クレヨンしんちゃんのオトナ帝国。。笑

この映画で僕は三か所泣いてしまうわけですが、僕が伝えたいことは、

前半がハッピーだからといって、後半にシリアスになるというわけではないということです。


描くテーマはシリアスですが、その表現方法はまったくもってシリアスじゃない。

ここがベニーニの素晴らしいところで、さすがコメディアン出身だというところ。(松本人志監督にも見習ってもらいたい。。


具体的にいえば、父と子で同じ収容所に配属されるのですが、まだ事態がよくわかってない子に対し、ベニーニは「これはゲームなんだ」と提案するところ。

「ドイツ兵に見つからないで一日過ごせたらポイントをあげよう!1000ポイントたまったらお前の好きな戦車のプレゼントだ!」


二回目みたときは僕はこの父親のキャラクターにもう感服です。

なんて素晴らしい父親なんでしょう。


どんなに、裏で厳しい現実が隠れていようとも。

このまま過ごせば僕たちはしんでしまうんだという現実。


しかし、絶対に子にそんなことは伝えない。全て持ち前の口のうまさで、おもしろおかしく、この場はゲームなんだ、楽しもうぜ。と。



ドイツ兵の通訳をするシーン、スピーカーで無事を伝えるシーン、そしてラストシーン。

僕の大好きなシーンです。



後半の展開は本当に素晴らしくて、しかしながら、やはり前半がなくてはこの後半はありえないのだと。

ベニーニのキャラクターを前半で観客にしっかりとわからせることで、後半がいきる。



きっと、あの子どもは大人になって、父の偉大さに気づくのだなぁ。と

そんな父親に僕もなりたいと思いますし


やはり、どんなにつらい状況においても、希望を見出し続けることの強さ。

そして、おもしろきこともなき世をおもしろく精神。



一つの隙もなく、完璧に練りこまれた脚本。

少しくらいくさい演出でも、そんなん気にならんわ!ってほどの完ぺきな脚本。



大傑作です。おすすめです。



なんか急に小説とやらを書きたくなりまして。

そのときは白紙の状態で、書き始めてみると意外と進みまして。

まさかの恋愛小説になってしまって本人が一番びっくりしてるんですけどね。

もちろん初めて書きますし、なんの基礎もわかってない状態なんで、めちゃくちゃ読みにくいですし、横書きになってしまってるんですが、なんとかがんばってよんでくれたらうれしいです。


PDF版できました!

「あの夏にみていた」




*あとがき


このあとがきは、四作目の「フライングエッグストーリー」を書き終えたあとに、書いているんですが、見返すと、さすがに初めて書いただけあって、稚拙すぎてしょうもない作品です。当然今も稚拙には違いないんですけど、それでも見るからに稚拙だということです。

文体が恥ずかしいし、舞台の展開もわかりにくいし。


それでも、今でも構成だけは気に入っています。

小説にしかできない技というかね。

最初の、あの夜の学校の脇道の描写は、後半にもう一度同じ表現が出てくるまで、「夢」だってことに気付けないわけです。

さらにいうと、そこに出てくる女の子が、次の朝に出てくる女とは違うってこともそのときに気付くわけです。

こういうのは文字だからできるんでしょうね。映像ならどうやるんだろうか。顔が出たらばれてしまいますからね。


きっと、この小説は、最初の夜の公園の脇道を書きたかっただけだと思うんです。スケッチみたいに。それで、いつも通り、頭の中真っ白なまま書き進んでいくという。


まあ、それでも稚拙ですよね。恥ずかしいね。


まぁ、一瞬で考えついたことなんで、なにもまとまらず書き進めてますけど。(いつも通りってことね。)


SNSが、こう広まって。このブログもSNSに入るんでしょうけど、他者に自己を表現する場ってのがここ5年で圧倒的に広まったと思うんですよね。

昔は前略とかモバスペ(個人ホームページ)とかありましたねー、懐かしい。あの時代の方が内輪でやれて、今となってはその方が優れてるのではないかと思ったり。
ああいうのって完全な内輪だから、愚痴なり独り言なり、適当なことダラダラ言ってても許されやすかったと思うんですよ。

でもツイッターっていろいろその点都合が悪いなって思います。

前者をモバスペでまとめますね。
モバスペは、要は読み手に主導権が握られてます。読みたければアクセスすればいいわけです。

ツイッターに関してはフォローしてれば自然とタイムラインに流れてきますよね。ちょっと受動的な要素があるといいますか。見せられてる的な部分もあるというか。
「フォローしてるのだから、十分能動的じゃないか!」ってそりゃまぁそうでしょうけど、付き合いもあるんですよ。ここがもうひとつモバスペとの大きな違いがあると思いますね。

誰が見てるのかがわかるってことです。ある種契約ですよね。「あなたのツイートみてますよ~」っていう。
これが最近非常にめんどくさいなって。状況がって意味でね。

別に全然面白くないツイートする人でも、あいつがフォローしておれがしてないのもなんかおかしいし、付き合いでフォローしとくかって場合があるんですよ。
別にフォローしたかったわけじゃないんですよ。そこまでそいつのツイートみたいわけじゃない。

この時点で僕は十分「受動的」だなって思うんですけどね。フォローさせられてるんですよ。しょうがなくね。

でね、おかげさまでしょうもないツイートがタイムラインに流れてくるわけで、
おまけにそいつが大学生特有のビジネスについて語り出し始めてたらそれはもう痛いのなんのって。
いや、痛いと思いますよ。僕からみても痛いんですから、30代のそこらのサラリーマンのおっさんが見たらもっとそうでしょ。「おれにもそんな時代があったなぁ」とか言って。

でね、ぼくも一時期、映画と文学について語ってしまったことがあるんですよ。
カポーティがどうとか、フィッツジェラルドがどうとか。あの映画の展開がどうとか。
そんで締めに決まり文句「やっぱ○○ってすごいなぁ」でしょ。
確かに映画も文学も大好きなんですよ。それで、たまにリプライもらえたりして、ツイートする価値はあったのかなぁとか思うんですけど、全然興味ない他の人にとっては「痛い」んだろうなぁって思います。
かっこつけてる、とか。なにを高尚ぶってるんだ、とか。
実際にぼくにも高尚ぶってる要素が少なからずあるんで、何も反論できません。

さっきね、ツイート検索で「カポーティ」で検索してみたんですよ。まさにこの行動がこの記事書くきっかけなんですけどね。
そしたらもう、まさにいままで僕がツイートしてた感じにそっくりな文体が山ほどヒットして。

「『夜の樹』読了。やっぱりカポーティの文章力は凄いの一言に尽きる。頭の中に映像を浮かばせる力。カポーティは文章を読んでいるのではなく、映像を読んでいるといった感覚。すごいなぁ」

みたいな。
すっごい痛いんですよ。いや、この人のプロフィールみてないから、もしかしたらモノホンの文学評論家かもしれないですけど、このツイートをただの大学生である僕がしてたら間違いなく痛いですよね。
だいたい、「読了。」ってなんだよ!日常会話で使ってみろってんだ。

「A子~カポーティ貸してくれてありがと!すっごい面白かったよ!昨日読了。」

は?

というわけで、これって自己顕示欲なんですよ。自分ってこういう人間ですー、わかってね!っていう。
別にあっていいと思うんですけど、それが強すぎるとしんどいというか。

だからまぁ、ちょっとツイッターでの自己顕示欲の扱い方ってのを考えました。反省も込めてね。

あとね、その人のツイートが見たくなければフォロー外していいと思うんですよ。リストでみるなりミュートにするとかいろいろ他に方法はありますけど。

なんかね、ぼくがすっごい頭おかしいなって思うのはフォロー外されたからってなんか友達関係を絶交されたみたいに捉える人が多いんですよ。ほんと頭おかしいんじゃないんですか?
ぜんっぜんイコールじゃないと思いますけどね。まったく別問題でしょ。そういう人って、1番大事な現実世界での信頼とかってのが無いのかなって思います。あいつにフォロー外されたからもう話さないとか、ツイッターやめた方がいいですよ。




…ってね。
こんなこと思っちゃう時点でツイッターあんまり好きじゃないんですよ。。笑
話戻りますけど、誰が見てるのかってのがわからなきゃこんなトラブル起きないんですから。

でもツイッターのシステムを変えられるわけではないし、そのシステムに合わせた使い方をするのがベストなんじゃないかなって思います。
自己顕示欲ばりばりのものはブログとかそれこそ古いけどモバスペとかにね、こっそり書くのがいいと思います。チラシの裏にでも書いてろとは言わないです。
発信の意味から言っても誰かが見てるってことは非常に重要だと思っていて、このブログもツイッターの方に更新情報流しますけど、そのURLを踏むか踏まないかはその人次第ですから。



まぁ、難しいというかめんどくさい問題ですよね、ほんと。
相変わらずツッコミどころ満載な内容になってしまった気がします笑

もうちょい考えるべき問題なのかなって思うし、なにをツイッターごときでそんな考える必要があんのよって思いもあるし。
まぁとにかく一時期の自分が気持ち悪くてほんとごめんなさいってことです。はい。笑



iPhoneからの投稿

ぼくはよく他人に無関心って言われるし、たしかに自分でもはたからみたらそう思われるだろう行動をとっているとも思う。

だけれど、決して無関心というわけではない。当然、話しかける人には関心があるし、好きだし、向こうもぼくのことを好きでいてくれたら尚更良いという思いである。

なぜ無関心と思われるかといえば例えば、他人の行動にとやかく言わないといったところか。
あと、友達づくりって言葉が嫌いなところとか。


なんだろうな、例えばぼくはタバコが大嫌いなのだけれど、タバコを吸っている人に、吸わない方がいいよとは言わない。
だけれど、タバコを吸おうと思ってるのだけれどどう思う?、と言われれば、全力でタバコを吸わせない方向に持っていく、というスタンスがあるといったところか。

つまり、もう起きたことに対しては何も言わないというスタンス。

だから、一例だが、今浮気してるんだよね~、と言われたところで、
「なにしてんの?やめた方がいいよ!」と言うのはメガネ委員長系女子にその役割を譲るとして、
ぼくが言う言葉としては「へぇ、そう笑」なわけだ。
当然、それを言われた側としてはそっけなくとられるだろうし、むしろ、メガネ委員長系女子のかけるような言葉を期待してるはずなのだから、もともと根本的にぼくとタイプは合わないのだが、
ぼくの考えとしては、「本人が考え抜いた上に下した行動なのだから、そんないま聞いたばっかりの私が何か意見を述べることなんてできないよ」ということ。

ただ、誤解して欲しくないのは、浮気しようと思ってるんだよね~、という未然のことに対しては、全力でぼくは自分の意見を伝える、ということだ。

もう起きたことには何も言わない。
起きる前なら何か言う。

この違い。
基本的に世間話ででてくるのは圧倒的にもう起きてしまった話だから、ぼくもそっけない感じの意見が多くなる。

自分なりに見つめ直した結果、これが無関心に思われる理由の一つだろう。
我ながら人付き合いが苦手だなぁ、と思う。(理解者が少なからずいることに救われて今日も生きています。ありがとう。)

何か行動を下したんなら、いま聞いたぼくが、本人以上にそのことについて理解できるわけないんだし、何もいう必要はないと思ってしまうんだ。

でも意外とこういう人多いと思うのだけれどね。
決してその人に対してどうでもいいと思ってるわけではないのだ。何も言わないというのはぼくなりの信頼の一つです。信頼してるから、その人が決めた道が1番正しいと思ってるからね。
決断を下す前の相談なら全力で支えてあげたいですし。

以上です。

それで、あと友達づくりって言葉が嫌いってことについて。
彼女つくる、とか彼氏つくる、とかいうのも同様に。
まぁ、あまりに世間にこういう言葉遣いが普及しちゃってるから、ぼくも無意識に口から出ちゃってる場合もあるのかもしれないのだけれど、嫌いです。

つくるものじゃなくないか?
友達とか、彼女彼氏、って気づいたら自然と隣にいるものだと思ってるのだけれど。
人脈とか、コネとか意味わかんないこと抜かしながら色んな人間と交流を持って、友達多い面してる人って、それ友達じゃないと思うのだけれど。
友達じゃなくて手段なんだろうな。自分が成功するための。
コネと思われて話しかけられてる人がかわいそうだし失礼だなぁ。と思います。

と、同時にそれくらいの人間関係の人でもニコニコ仲良くできるコミュニケーション能力を羨ましくも思うのだけれどね。ぼくには難しい。

だから、なんというか、誰かれかまわず、愛想良く話しかけるとかってのが難しいってのが、まぁ、無関心と思われる理由の二つ目かなぁ。
友達は多い方が良いって、そりゃそうだけど、それは量と質を兼ねるときだけのことであって。
あんまり、誰とでも仲良くなろうとしてないのが現状。自分が仲良くなれそうな人と仲良くなりたいし、もちろん相手側からも然り。
でも、たいてい仲良くなりたいと思った人って向こうも同様に仲良くなりたいって思ってくれてることが多い気がして嬉しいのだけれどね。(日々感謝しています。)

限りなく人見知りに近い性質を持っているけれど、ちょっと違うのかな。

関係ないですけど、ぼくは好きな人にはデレデレです。ほんとに好きなんで。はい。気持ち悪い。。

新年度が始まりますし、新入生のなんか、そういう意味で必死な人をみたりして思いました。
あと、自分は無関心なわけじゃないんだという弁解も含めて笑


桜はもう散りました。
あれだけ風流だといって、感慨深く眺めていた桜を踏みながら歩くのは少し滑稽に感じつつ、それが気持ちの切り替えのきっかけとも感じながら日々を過ごしています。
授業が始まって友達と会えるのが楽しみだ!


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夏期、冬期講習について書かせていただくと、

この期間はわれわれはボーナス期間とよんでいて、

レギュラーでは一日最大3コマしか持てないのですが、講習期間は一日最大7コマ入ることができます。


夏期のころは、本当に本職は学生ということが危ぶまれるほど出勤し、

100コマ超えを達成しました。

今過去に戻れるなら、当時の自分を止めてあげたいです、本読めよ、といいたい。


たしかに毎週のように6連勤し、つらいっちゃつらかったですが、仕事内容が、いってしまえば

「椅子に座って、中学生とおしゃべりする簡単なお仕事」なので、肉体的な疲れはそんなになかったですし、

頭はたしかに疲れましたが、授業が終わったあとに、生徒とじゃれあうのがかなり楽しくて癒しになってました。あ、声がかれたのもありましたね。


冬期は英検の受験も控えていたため、かなり抑えましたが、それでもコマはかなりの数を担当してましたね。50コマくらいでしょうか。

ちなみに、冬期で10コマ集団国語を担当しました。これは、今の塾での基礎になってるので、やってよかったと思います。



まぁ、これだけのコマをこなせば、さすがに慣れてくるもので、

英語の説明もさることながら、生徒の対応なども、とてもしごかれた素晴らしい期間でした。

あのとき頑張ってよかったと思いますね、ほんとに。




そして、いよいよ受験が迫ってきます。

生徒はもちろん、講師も精神的につらくなってくる時期でしたが、いつも通り授業を行うことを心がけました。

持っていた中3生は二人で、どちらも英語でした。

二人とも英語が得意教科でとても助かりました。

そのうち一人が難関校を目指すので、高校範囲を教えることができたのも結構大きかったですね。


結果はふたりとも合格。かなりサプライズ合格でしたので、うれしかったですね。。

とりあえず一年目、落ちた生徒の顔をみずに済んだのはとてもよかったと思います。

二人とも英語ができたおかげで受かりました!って言ってくれました。当然うれしかった。



この職業の醍醐味は、まさにこの瞬間です。

一年間続けてよかったな、と思えるこの瞬間なのです。



そんな生徒が今日卒業式だったみたいなので、この機会に一年間を振り返ってみました。

卒業おめでとう。


初授業に完全に挫折した私は、なんとか改善点を探しました。



完全に授業予習不足でした。

文法書などの参考書から、現在完了の説明の仕方を学ぶ。

という、今となっては当たり前すぎることが、できていなかったのです。


さっそく、書店にFORESTを買いに行き、現在完了について調べます。

―FORESTは今でも最良書だな、と思います。伊藤和夫、西きょうじ、仲本浩喜...などのもとで、文法のしゃれた説明を学びつつも、結局最後にまとめとして、FORESTを参照します。


そして、授業の時間配分については、「事前にノートを作っていき、それを生徒のノートに貼る」という方法を思いつきました。

ほかの生徒にも併用できるように、スキャンしてPCに取り込み、データ化しておきました。



それで挑んだ、リベンジ授業は大成功でした。

私も生徒も充実感でいっぱいの授業でした。

やっぱり続けよう、と思いました。



ここからの塾での生活ではうれしいことばかりでした。

先ほど登場した、中1数学の女の子は、新たに、英語も通うことにしてくれて、担任は私を指名してくれました。室長からもほめていただいて、感謝されました。


その女の子のエピソードとしては、なんでしょうね。

初めての英語の授業で、いままでの理解度を知るためにも、簡単な復習テストをやってみたんです。

そしたら、まさかの0点でした。

まったく授業がわかってなかったのです。

これはまずいと考え、当初予定していた授業内容をすべて変更し、90分で、学校の3週分にあたる内容を解説しました。しゃべりっぱでしたが、1:1ということもあって、なんとかその一回で復習が終わりました。

そして、一週間たち、前回と同じテストをやってみたんですね。


満点でした。


個別指導をやって一番思ったのは、講師が伸ばそうと思えば、本当に伸びる、ということです。

この件で初めて、このことを実感しました。


英語はうれしいことに得意教科になってくれたようで、その後の定期試験では、一度80点台があったものの、コンスタントに90点台をとるまでに成長してくれました。

一方で数学が苦手でした。

70点台→60点台と英語に反比例するかのように、成績は落ちていきました。

そろそろやばいな、と思い

「次とれないと担任はずされちゃうかもな~」とか言ってみたりしたり。笑(こういったはっぱかけもたまには必要だと思ってます。)

意外とこういう一言がきっかけとなったりするんです。

生徒のなかでも「さすがに次回も落ちたらやばい」っていうのが浮かんだんでしょうね。

やる気が段違いでした。

結果はなんと90点台。

そのときの定期テストの結果は、英数ともに90超えという素晴らしい結果でした。



こんなことほんとに言いたくないんですが、あのときばかりは「某スイッチ」を押すことができたのかなぁ、って思いますね。

私はアルバイトとして、塾講師を選択しました。

理由としてはいくつかあるのですが、まず一つは、小学校くらいのときから、バイトは頭脳系にするといっていましたね。当時から、生意気なことに、周りより頭が良いと思っていた私は(実際はそうではないと後に知る)、せっかく頭が良いという才能があるのだから、だれでもできるような肉体系、単純作業より、頭脳系の仕事をするほうが向いているにきまってる、という理由ですね。

かなり世間知らずな印象を受けると思いますが、まぁ、根本的には、この考えは当時と今も変わっていません。今でも、自分は頭脳系の仕事をしたいですし、なにか自分の存在意義があるもの、つまりクリエイティブな仕事をしたいなぁ、と思ってます。

生徒をクリエイトする、といった点で、塾講師をやることにしました。

あとは、将来教員志望のため、授業のスキルアップですかね。

ひとまず、大きな理由としてはこの二点です。


では、塾講師生活に絞って、この一年間をちょっと振り返らせてください。


四月の中旬に某スイッチを押すCMで有名な、スクールI○というとこで働きました。

ここは、個別指導塾でして、先生をまんなかにして、両隣に生徒を二人置く、1:2スタイルで授業を行っていきます。

国理社に関しては、一部集団授業も行っています。


採用の流れですが、恐ろしいほど簡潔でした。

筆記試験、性格診断テスト、IQテストのようなものをやらされます。

筆記試験は国数英の三教科ですが、それなりの点数ならパスします。

僕は英語ですら、76点という無様な結果でしたし、ほかの講師の中には、数学が0点だった人もいます。

たぶん、何か一教科人並みの点数がとれれば大丈夫だったんでしょう。


そして後日一次試験合格の連絡がきて、二次試験に向かいます。

二次試験とは名ばかりで、DVDを一時間ほどみて、室長から会社の説明をされると、そこで採用が言い渡されます。

さすが、全国に860教室展開する塾です。ゆるゆるです。



その後、室長相手に模擬授業をやらされます。

生徒のふりをした大人相手に授業をするのはかなりきついものがあり、本来持ってるはずの力の2パーセントも出なかった気がします。


さて、そうすると、いよいよ初めての授業の日がやってきます。


私の初授業は、今でも覚えていますが、中3の女の子が相手で、中3英語、道案内(Could you~?)の内容でした。

初授業ですから、とにかくコミュニケーションをとって、慣れてもらおうと、部活の話をしたり、クラスの話をしたり~で、15分くらい使ってましたね。

その子は、一種の才能だと思うのですが、いい感じでため口をきける子で、とても明るい授業ができて、助かったのを覚えてます。


そんなこんなで、次は1:2の研修が始まりました。

1:2は1:1と比べて、難易度が格段に上がります。

右の生徒が問題を解いている間に、左の生徒に解説を仕上げねばならず、解説途中に右の生徒から「先生、終わりました」と言われた瞬間が一番の難所です。

切り抜け方としては、左の生徒の解説を調整するか、右の生徒の問題を新たに提案するかの二つしかありません。

これが当時はまったくできず、模擬授業でも失敗し、室長にかなり落ち込んで相談をしに行ったのを覚えています。


そして、1:2の初授業が始まります。

左には中3英語男。右には、中1数学女。(このペアは僕の生徒の中で一番古株で、同時に二人ともありがたいことに私をとても気に入ってくれていて、とても思い出深い二人です。)



中1数学は正負の数。中3英語は現在完了形でした。


今ではノウハウがわかっていますが、未経験者に英語の時制を教えるというのは、とても苦行でして、まったくいい説明ができないのです。

「過去から現在までの時制のつながり」ということは当然僕らの頭の中ではわかっていることですが、それを中3にそのままいったところで、まず「は?」という顔をされます。


そのときの彼は僕の説明に対して、「は?」という顔は我慢してくれたものの、眉間にしわをよせて、テキストとノートを何度も見返していました。その顔には「ぜんぜんわかんねー」と書いてありました。


予備校の学費を自費で払って通っていた私は、とてもコスパにシビアになっていました。

当然それは、相手の気持ちもわかるわけで、

「高い月謝払わせて、こんな授業してしまうなんて、これは詐欺罪に当たってもいいんじゃないか」とまで真剣に思い、とても彼に対して申し訳なく思いました。


自分でも解説中「やばいやばいやばいやばい・・・」という言葉が頭をうずまいており、

口は乾き、(とても臭かったと思います。笑)

汗がこめかみからほほを伝ったのを感じました。


と同時に私の右目の端には与えた範囲をやり終えた生徒が見えます。

「あー、解説終わんないよ。でも右の子問題終わっちゃった。新たな問題指定しよう。でもどこをやらせればいいんだ。まだここは解説してないし。どうしよう、どうしよう。」

完全にパニック状態です。

それに、この塾では毎授業、保護者あてとして、4.5行程度の報告書を授業中に書ききらなくてはなりません。それも、二人分。



当時の私には不可能な所業でした。


こうして初授業は終わりました。

いまでもあの授業は私の中でもダントツのワースト授業です。

塾講師、先生に向いているという思いは無残に打ち砕かれました。完全に挫折でした。

もうやめよう、向いていない。とまで思い、室長にもう授業をこれ以上持たせないでほしいと相談までしました。


いま振り返って、あのときの授業の唯一の良かった点を挙げるとすれば「ごめんね。」と生徒に謝らなかったことですかね。謝らなくてよかったと思います、本当に。




なんで人は死ぬのが怖いのだろうね。

痛み苦しみ
現世との別れ

などなど?


まあ全然わかんないんですけど、

こう、睡眠から目覚めるときってある意味生まれ変わったと捉えられるじゃないですか。
睡眠で一度リセット(ある意味死)
そして起床(ある意味生)

なんか、最近生活リズムがおかしくて、皆が生きてる時間に死にいくわけなんですよね。

そういうの繰り返してると、人生ってのはちっぽけだなと思います。
人生ってさリセット効かないけど、強制終了は効くんだな、とかね。
人生ですら死には勝てないのね。




今、まったく死が怖くないんですよ。
普通の人からしたら常軌を逸した精神状態なんでしょうけど。

どんなにやなことあっても死んじゃえばいいんだもんねぇ。


ぼくは死後の世界は無いスタンスなんですけどね。

人生ってなんかミニゲームみたいなもんなんじゃないんですかね?

好きなように遊んで好きなときやめれる。

凄いなぁ。

でも人それぞれ遊び方が違うんですね。

まぁ、もうそろそろやめますけど。

僕が言いたいのは、人生ってとにかくめっちゃ重いじゃないですか。とにかくとにかく。

でもまぁ、いくら重くてもさ、プレイヤーのたった一言「やーめた」が効くんですよね。これさ、改めて考えてみるとすげーなって思ったわけよ。

死と常に向き合うっていうのかなぁ、常に死の可能性を留保しつつ、みたいな。
当たり前に喝を入れるみたいな。


それではそろそろおやすみなさい。



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ヘミングウェイのCat in the Rainを読みましたー。んでレポートまた公開してます。なんでかっていったら前もいったけどもったいないからです。笑

でもかなりおもしろかったですねー、こんな解釈できるんだー、みたいな。

ほとんど参考文献のまんまですけど。、

短いんでほんと読んでほしいです。


Cat in the Rain 日本語訳


Cat in the Rain 原文

 

 

 私はこの期末レポートの題材としてヘミングウェイの”Cat in the Rain”を選択した。その理由は、解釈が必要とされる箇所の多さである。たしかにヘミングウェイの”Cat in the Rain”130行程度の短い作品であり、あっさりと読んでしまえば、「雨の日の夫婦のけだるい倦怠を描いた小説」と一言で言ってしまうのも可能であり、世の大作のように、物語の展開にさまざまな起伏がみられるような、壮大なストーリーではない。しかし、この作品にはその、わずか130行程度のストーリーの間に、ヘミングウェイがちりばめた、どうしても自分の頭で考えて、解釈して、読む必要のある箇所が多数出てくるのである。またそれには、ヘミングウェイのぎりぎりまで切り詰められた文体の技法のもつ重みが感じられてくるのである。今回このレポートにおいて、私は、この作品を読んで、疑問に思った箇所とその解釈を示していきたい。

 まずはじめにこの作品のタイトルである”Cat in the Rain”について考察していきたい。ヘミングウェイはこのタイトルにある、”Cat”に対して、不定冠詞も定冠詞も付けなかった。つまり、”A Cat in the Rain””The Cat in the Rain”というようなタイトルにあえてしなかった、ということである。

物語には、猫が二回登場してくる。初めて登場するのは、アメリカ人の妻がホテルの窓から雨に濡れまいとからだを縮めている猫を見下ろす場面である。

-The American wife stood at the window looking out. Outside right under their window a cat was crouched under one of the dripping green tables. The cat was trying to make herself so compact that she would not be dripped on. (l.20-25)

この猫をみて、妻は下に降りて、猫を連れてくることを決心する。ちなみにここで、猫の代名詞が”herself””she”と表現されていることについてはまた後述していく。

二度目の登場は物語最後の場面である。

-Someone knocked at the door. ‘Avanti,’ George said. He looked up from his book. In the doorway stood the maid. She held a big tortoiseshell cat pressed tight against her and swung down against her body. ’Excuse me,’ she said, ‘the padrone asked me to bring this for the Signora.’ (l.125-130)

ホテルの主人に頼まれて、メイドが妻の部屋に猫を連れてくるのである。

問題なのは、この二匹の猫がはたして、同一なのかどうか、ということである。しかし、文章中でははっきりとそのことは示さない。そこでこのヘミングウェイがつけた”Cat in the Rain”の「冠詞無きCat」なのである。もし、”A Cat”ならば、この二匹の猫は異なるものだということが、そして、”The Cat”ならば、同一の猫ということが、タイトルから明らかになってしまうのである。そこでヘミングウェイは冠詞を付けずに”Cat”と表現することによって、二匹の猫が同一なのかどうかを、読者の解釈に任せたのである。この技法は、オープンエンディングと呼ばれ、「見た人それぞれが自由に解釈することができる終わり方」のことであり、「解釈がすでに制作側から定められている」クローズエンディングと対極の位置にある。

さてそこで、この二匹の猫が同一の猫だと解釈すれば、この物語はハッピーエンドであろう。妻が探し求めたかわいそうな猫、一時は姿を失うが、好意を持つホテルの主人のはからいでもう一度再会することができたのである。しかしながら、細部をしっかり読んでいくと、ヘミングウェイはこの二匹の猫を異なるものと意図していたのではないかと考えられてくる。その理由は、後者の猫だけ異様に、注意深い描写がされていることにある。メイドが連れてきた猫はメイドの身体からぶらぶらとぶら下がるほどの大きな猫であり、アメリカ人の妻がみた、「子猫」とはかけ離れた描写がされている。もちろん妻は、

-‘I want to have a kitty to sit on my lap and purr when I stroke her’ (l.104-106)

とあるように、膝の上にのって甘える子猫を望んでいたのである。メイドが主人に頼まれて持ってきた大きな猫とは違うのである。ただし、メイドが部屋に入ってきたときには、視点は夫にあり、妻は窓から外をみている。このときに、妻に視点があり、妻の反応を描けば、ヘミングウェイの意図した「あいまいさ」がまた損なわれることになるだろう。妻の猫をみた反応というのもまた、ヘミングウェイが読者に託した解釈部分であろう。

 つぎに、この物語は、登場人物の関係からも深く読んでいくことができる。


物語の冒頭文で、二人のアメリカ人の紹介をしている。ホテルに泊まっているアメリカ人は二人だけということから、どうやらこの二人は、別の国に旅行し、その国のホテルに宿泊しているということが読み取れる。周りには誰一人知り合いはいないようである。その二人は夫婦であり、その後の描写からすると、あまり仲が良いとは言えない状態である。夫は一日中ベッドの上で本を読み、妻が猫を連れに帰るために下に降りるといったときに「代わりに行こう」と言うも、それは口先だけのことで、妻が行くとなればすぐさま目線を本に移している。妻が帰ってきて、猫がいなくなったことを聞いても、反応は薄く、同情は読み取れない。妻がベッドに腰掛け、夫のそばに来ようとも、何の言動も行動もとろうとしない。そしてまた本を読み始める。その間に、妻の言動はどんどんエスカレートしていく。

-‘I wanted it so much,’ she said, ‘I don’t know why I wanted it so much. (l.83,84)

-I want to pull my hair back tight smooth… (l.103)

-I want to have a kitty to sit on my lap and purr when I stroke her. (l.105)

-And I want to eat at a table with my own silver and I want candles. And I want it to be spring and I want to brush my hair out in front of a mirror and I want a kitty and I want some new clothes. (l.108-111)

-Anyway, I want a cat. I want a cat. I want a cat now. If I can’t have a long hair or any fun, I can have a cat. (l.117-119)

このように、”want”が連続する発言が続く。妻の欲求、不満をあれやこれや述べ、特に猫への思いが強く示されている。同じ言葉が続き、こういった発言から、妻の精神的な幼稚さがうかがえる。この妻に対しての夫の対応というと、

-Yeah? (l.108)

-Oh, shut up and get something to read. (l.112)

このように、妻の言葉に対して、まともな返答をしておらず、しまいには、会話を拒否し、無視にまで至る。

夫婦であり、付き合いたてのカップルではないことから、夫は妻の精神的な幼稚さを熟知しているはずである。しかしながら、その慣れが妻の秘める感情に対する、鈍感へとつながっている。夫からは「またはじまった」程度にしか思っておらず、いつも適当にあしらわれてきた妻には、積年の思いというのが、この異国の知りあいのいない地で、孤独感となって強く表れていると感じられる。その孤独感は、冒頭の猫をみつけた場面で猫の代名詞を”herself” ,”she”と表現していることからも見受けられる。当然、ホテルの窓から、真下の猫を見下ろしているのであるから、その猫がオスなのかメスなのかは判断ができないにもかかわらず、妻は猫を

- The cat was trying to make herself so compact that she would not be dripped on. (l.25)

という文からわかるように、メスだと思い込んで発言している。この表現が示すところには、妻の猫に対する無意識的な自己投影が読み取れる。雨の中、濡れないように、テーブルの下で、縮こまっているかわいそうな猫をみたときに、孤独感というものを通して、自分と猫を重ねたのだろう。その後の妻と夫の会話における猫の代名詞は”it”となるが、その”it”は一般的な子猫を指しているのであり、具体的な状況にあるあの猫にまさに感情移入したということから、代名詞に違いを出していると考えられる。しかしながら、猫に思い入れのない人物からすると、猫の代名詞はまた違ったものになるようである。

-’Excuse me,’ she said, ‘the padrone asked me to bring this for the Signora.’ (l.130)

 これは、メイドが夫婦の部屋を訪れて、主人に頼まれた通りに猫を届ける、最後の場面である。メイドは猫を”this”と呼ぶ。「主人がこれを奥様にお持ちするように頼まれましたので」というように、まるで猫を物のように扱っているように見受けられる。これは、妻の猫に対する感情移入とはまるで対照的で、猫に対する愛情、さらには、猫を届けるという仕事を果たす上での誠意も感じられない。それは、妻が雨の中猫を探しに行ったときと同様である。

-‘A cat?’ the maid laughed. ‘A cat in the rain?’ (l.63)

これは、メイドが妻に対して何を探しているのか問うたところに、猫を探しているという返答が返ってきたときのメイドの反応である。メイドの視点に立ってみると、大雨の中、傘もささずにある女性が、ホテルの外に出て、なにやらかがんであたりを見回している。明らかに、なにか大事なものでもなくさないとできない行動である。そこで、主人から傘を渡すように言われ、女性に近づき、何を探しているのか尋ねたところに、あの返答である。メイドは意表を突かれたであろう。その後すぐ、メイドは女性に対して、「もう中に入りましょう」と退却をうながすのだが、ここには「何を猫ごときでそんなに必死になっているのか」という、女性の行動にかなりの違和感を持っていると考えられる。

 では、今度は主人と妻との関係について考えていきたい。

-The wife liked him. She liked the deadly serious way he received any complaints. She liked his dignity. She liked the way he wanted to serve her. She liked the way he felt about being a hotel-keeper. She liked his old, heavy face and big hands. (l.40-45)

このように、夫に対する”want”の連続と同様に”like”をここでは多用している。妻の精神的稚拙さをここでもまた印象付けているが、同時に夫と主人の対比もここからうかがえるだろう。主人の客の尊厳を尊重するような態度は、ベッドに一日中いて、妻にかまわず、本を読んでいる夫には欠落している部分である。夫と主人の対比はこの短い一節で7回も現れる”like”の表現がより明確にしている。しかし、そんな主人と妻との関係をメイドはあまり快く思っていない。主人から傘を渡すように言われ近づいてみれば、メイドにとっては全くどうでもいい事情であり、さらには、わけもわからず、重たい猫を腕にぶらさげながら、アメリカ夫婦の部屋を訪れなくてはならないのである。そういう観点からすると、メイドの仕事に対する誠意が薄いようにみえるのもうなずける話である。

 要するに、”Cat in the Rain”では、130行という短い話であるにもかかわらず、登場人物全員が実際にはうまい具合に絡み合い、それぞれの心情を相乗効果で示すことに成功しており、また、タイトルの「冠詞無きCat」をはじめとする、ヘミングウェイの巧みな文体により、文量以上の濃いストーリーを読者の頭に展開させている、すばらしい文学作品なのである。