福岡県の学習塾コンサルタント|学習塾運営の手引き

福岡県の学習塾コンサルタント|学習塾運営の手引き

福岡の学習塾コンサルタントが語る、塾運営のヒント満載ブログ。
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私は、採用面接の場においていくつかのこだわりを大切にしています。
その中でも特に重視しているのが、「失敗の代表作」を持っているかどうか、という点です。

もちろん、ただ失敗したという事実だけでは足りません。
その失敗は、果たして挑戦の末に生まれたものだったのか。
その人がどう向き合い、どう乗り越えてきたのか。
さらに、今それをどう活かしているのか。
私はその「失敗の質」を見極めています。

面接に来てくださった方が、私の知らない世界を経験していたり、
その世界の中で果敢にチャレンジしてきた人だったとき。
そして、今まさに次なる挑戦を続けている人だったとき。
私自身の価値観がぐんと広がっていくのを感じます。

人の夢を本気で応援していると、不思議とその人から「恩返し」のように
自分では見えなかった新しい景色を見せてもらえることがあります。
だから私は、その人の「物語」に耳を傾けたいのです。

文章からも、決断力はにじみ出る

面接では、短い論文を書いてもらうことにしています。
その中で、句読点の打ち方や文の長さにも注目しています。

一文がやたらと長く、読点が少ない人は、
「これまでの人生で決断をしてこなかった人なのかな」と思ってしまうことがあります。
長い一文の中で、意見が右往左往し、結局何が言いたいのかが見えにくくなってしまう。
それでは、生徒にも伝わりませんし、現場では困る場面が増えてしまいます。

だからこそ、文章一つをとっても、その人の「思考の構造」や「決断の跡」が見えるのです。

面接で大事なのは「物語」──それも、その人にしか語れないもの

面接の際には、私の質問に対する答えの「正しさ」よりも、
その人自身の物語を大切にしています。

というのも、会議やプレゼンテーションの場になると、
人はつい「演説モード」になりがちです。
しかも、その言葉が実体験に基づいたものではなく、
どこかで学んだ知識や使い古された表現ばかりになってしまうことも少なくありません。

でも、私が聞きたいのは、その人にしか語れない「一次情報の物語」です。
経験からにじみ出た、生の言葉。
それは、知識のボキャブラリーを並べたものとはまったく違う、心に残る力を持っています。

教育の現場も「演説」ではなく「物語」で

これは、面接に限った話ではありません。
実際に授業でもそうです。

先生がただ「正論」を演説するように話している授業よりも、
先生自身の体験や悩みを交えた授業の方が、ずっと引き込まれます。
生徒の想像力が自然と膨らんでいき、学びの奥行きが広がっていきます。

だからこそ、私は「物語で語れる人」を求めています。
それも、誰かの物語ではなく、自分自身の物語を持っている人です。


P.S. 採用基準について

ちなみに、採用の第1基準は、「学び舎」という業界の性質上、
九州大学を卒業された方、もしくは現在九州大学に在籍されている方。
または、修猷館高校など学区トップ校及びそれに準じる高校を卒業された方を基本としています。

ただし、これに該当しない方でも、担当教科の筆記試験で満点を取った場合、この教科は得意だと自信を持って言える方は「特例」として進んでいただけます。

その後の選考フローとしては、
第2審査が面接。
第3審査が口頭試験。
第4審査が思考力・人間力を判断するテスト。
そして、必要に応じて、現在の講師陣による「賛同」による最終審査を行います。


私は、ただ一緒に働く仲間を探しているのではありません。
お互いの夢を応援し合えるような関係を築ける人。
そんな人と、一緒に新しい未来をつくっていきたいと願っています。

そのために、私は採用という場においても、強いこだわりを持って臨んでいるのです。

 

最近、私たちの教室には見学に訪れる方々が増えています。
教育関係者の方もいれば、地域の方や保護者の方など、さまざまな立場の方がいらっしゃいます。
そうした方々が、ふとした瞬間にかけてくださる“ひとこと”――実はそれが、私たちにとって何よりもうれしい贈り物です。


「ほめられる」という奇跡

たとえばこんな言葉をいただきます。

「教室が、なんだかすごくきれいですね」
「掲示物にあたたかさがあって、見ていてホッとします」
「授業中、誰ひとり私語をしていないのが印象的でした」
「自習の子たちまで黙々と取り組んでいて驚きました」
「先生方がテキパキと動いていて、安心感がありますね」
「自転車がピシッと並んでいて、すごく気持ちがいいです」

どれも、日々私たちが“当たり前”として過ごしていることです。
だからこそ、改めて誰かの言葉で気づかされたときには、心がそっと温かくなります。


その人にしか見えない“視点”の宝物

特に嬉しいのは、その人ならではの視点から生まれた言葉をいただいたとき。
私たちにとっての“普通”が、誰かにとっては“特別”だったという発見は、本当に貴重です。

「えっ、そんなふうに見えるんだ」
「そうか、そういうところまで伝わっていたんだ」
そんな気づきが、また新たな“当たり前”を生んでいきます。

これは、ちょっとした奇跡のようなものかもしれません。
私たちが意識せずにやっていたことが、誰かの心に届いていた――それは、日々の積み重ねが確かに形になっている証だと思うのです。


「当たり前」のレベルを、少しずつ高く。

最近、また一つ“当たり前”が増えました。
ある見学者の方に言われて、はっとさせられたのです。

それは、私たちではまったく意識していなかったこと。
けれど確かに、言われてみればそうなっていた。
私たちの“今”が、いつの間にか誰かの“称賛”に値するレベルに達していた。
それがどれほど嬉しいことか、言葉になりません。

私たちは、これからもそんな“当たり前”をひとつひとつ増やしていきたいと思っています。
それは決して、特別なことをするという意味ではありません。
「誰かにとっての感動が、私たちの日常になる」――そういう積み重ねを大切にしていきたいのです。


おわりに

学び舎というのは、建物だけではありません。
そこにいる人たちの気配や空気感、そして日々の“当たり前”の集積でできあがっていくものだと思います。

私たちの教室が、誰かの目に「温かい」「心地よい」「信頼できる」と映ったのなら、それはとても誇らしいことです。
これからも、そんな場所であり続けられるよう、**“基準の高い当たり前”**を積み重ねていきたい。
静かだけれど、確かな熱をもって、そう願っています。

いつかあなたがこの教室を訪れたとき、ふとした何かに「いいな」と感じてくれたら、それがまた、私たちの新しい“当たり前”の始まりになるのかもしれません。

 

私たちの学び舎には、ちょっと誇らしい「しくみ」があります。

それは──『気づかせる』という学びの仕組みです。


もちろん、「教える」ことも大切です。
わかりやすく、丁寧に、論理的に。
そんな授業ができる先生は、まさに“教える技術”のプロフェッショナル。

けれど、どんなに優れた説明をしても、
聞き手である子どもが「心を開いていない」状態では、
それはただの“通り過ぎていく音”になってしまう。

大切なのは、子ども自身が「気づくこと」なんです。


「なるほど、そうか!」と、
子どもたちの目がぱっと輝く瞬間。
そのひとときが、私たちの教室では何よりも尊い宝物です。

実は、人が本当に深く学び、成長できるのは、
誰かに“教えられた”ときよりも、自分で“気づいた”とき
なんですよね。

私たちの学び舎では、その「気づきの瞬間」を生むために、
日々、ちょっとした仕掛けや工夫を重ねています。


たとえば──
あえてすぐには答えを教えない。
質問の仕方を工夫する。
ヒントを渡して、自分で辿り着けるように導く。

それらは時間がかかるし、手間もかかります。
でも、その分、「一を聞いて十を知る」力が、
子どもたちの中にしっかりと育っていくのです。


この“気づかせる力”は、学力以上の価値があります。
自分で考える、自分で決める、自分で前に進む。
そういう力は、やがて大人になってからも、
人生を生きる大きな軸になってくれます。


そして──
この学び舎を支えてくれている先生たちにも、
実は「気づき」がたくさんあります。

たとえばある日、
本来は休日だった先生が、ふらりと教室に顔を出してくれました。
別に業務があるわけでも、報酬が出るわけでもない。
でもその先生は、静かに椅子に座って、笑っていました。

「ここにいると、気づかされることがあるんだよ」
「子どもたちの表情に、救われるときがあるんだ」
そう、ぽつりと言った言葉が印象に残っています。


報酬の代わりに笑顔がある場所。
成績以上に、心が育っていく場所。

そんな学び舎が、これからの社会にはもっと必要なんじゃないかと、
私は思っています。


「気づかせる」ということ。
それは、ただテクニックの話ではなく、
“信じて待つ”という愛情の表れでもあります。

焦らず、急かさず、けれどそっと背中を押すように。
そんな優しさを、これからも大切にしていきたいと思っています。

 

「教えてやっている」
「教えてもらって当然だ」

 

もし、先生と生徒のあいだにそんな空気が漂っていたとしたら、学びの場はたちまち居心地の悪いものになってしまうでしょう。

 

先生の側に、どこか「自分が上だ」と思っているような態度が見えたとき。
生徒の側に、「教わって当然」「できて当たり前」という無意識の甘えが見えるとき。
その関係性には、自然と歪みが生まれ、学びの本質から遠ざかっていってしまいます。

もちろん、先生は知識や経験を持ち、それを伝えるという大切な役割を担っています。
そして生徒は、その学びを受け取り、成長していく立場にあります。

 

けれど、だからこそ忘れてはならないのが、「お互いへの敬意」なのだと思うのです。

 

教える側には、相手に対する理解と配慮が必要です。
教えを受ける側には、「学ばせてもらう」という感謝と、「もっと知りたい、伸びたい」という能動的な姿勢が求められます。

 

それは、たとえるなら「光」と「磨き」のような関係かもしれません。
先生には、確かに光るもの――経験や知識――がある。
 

でも、生徒にもまた、磨けば光るものがある。
そしてその“磨こうとする意志”があってこそ、学びの場は、真に美しいものへと変わるのです。

 

しかし、現実には残念ながら、そのバランスを見失ってしまっている場面に出会うことも少なくありません。
「先生だから偉い」
「生徒だから従うべき」
そんな固定的な関係が、いまだに学校や塾、教育の現場に根付いてしまっていることもあるのです。

 

公教育でも、私教育でも。
 

大切なのは、教える側・教わる側、どちらの立場であっても“対等な人としての尊敬”を忘れないこと。
その敬意があるだけで、学びの空間は驚くほどあたたかく、心地よくなります。

 

そんなことを改めて感じさせてくれたのが、以前訪れた横浜の小さな塾でした。

 

そこでは、先生も生徒も、互いに目線を合わせ、言葉を交わし、笑い合いながら学びを深めていました。
先生は決して偉ぶらず、生徒の声に耳を傾けていました。
生徒もまた、先生の言葉に真剣に耳を傾け、自分の思いをしっかり伝えていました。

そこには、「教えてやっている」も「教えてもらって当然」もありませんでした。
あったのは、ただまっすぐな「対話」と「敬意」――。
 

それは、まるで“学び”という旅を、先生と生徒が一緒に歩んでいるような光景でした。

教育とは、ただ知識を伝えるだけではなく、人と人とが心で向き合うこと。

教える側も、教わる側も、
ともに磨き合う関係でありたい。
そんな願いをこめて、私は今日も人の学びに目を向け続けています。

 

You cannot teach a man anything; you can only help him to find it within himself.
――「人にモノを教えることはできない。できるのは、彼の中にある力を見つける手助けだけである」
これは、ガリレオ・ガリレイの言葉です。

この言葉を初めて読んだとき、ふと、自分の仕事の本質に触れたような気がしました。
私は学習塾という教育の現場に身を置いていますが、そこでの“教える”という行為が、
必ずしも「知識を与えること」ではないことを、日々の中で痛感するのです。


最近では、自分よりも年下の講師たちのほうが、知識や技術において優れていると感じることが多くなりました。
時代の流れとともに、学び方も、吸収のスピードも、驚くほど進化しています。
しかし、教育とは“知識や技術”だけで成り立つ世界ではありません。

本当に大切なのは、それらを「どう使うか」。
言い換えれば、知識や技術は、その人の“個性”であり、
それを活かすことで初めて、組織全体が意味を持ち始めるのです。

個性の集合体――それが“組織”というものです。
多様な個を集め、ひとつの目的に向かわせるためには、
明確なビジョンと、それを支える“マネジメントの力”が必要不可欠になります。


マネジメントというと、業務の管理や数字の管理ばかりが想像されがちですが、
本質はもっと深いところにあると私は考えます。

たとえば、会社の方向性や価値観を共有し、
講師やスタッフが共通の目的意識を持つこと。
そして、「自分はこのチームの一員である」と実感できるように導くこと。

これができてはじめて、個性は組織の中で生かされ、
それぞれの強みが、互いの弱みを補いながら、全体を押し上げていく力になります。

知識や技術が優れていても、それが“組織としての力”として使いこなせなければ、
結果としてそれは孤立したスキルに過ぎません。
だからこそ私は、講師たち一人ひとりの“力の使い方”を伝え、
組織全体としてどう結びつければ最大限の効果を発揮できるのかを、日々考え、実践しています。


「この講師とこの講師は、授業スタイルも価値観も違うけれど、組めば補完し合えるかもしれない」
「この人には、まだ見ぬ可能性がある」

そんな風に、それぞれの“個”と“個”を結びつけ、
まるでパズルのピースがはまるような瞬間に立ち会えること。
それが、マネジメントという仕事の一番の醍醐味かもしれません。

そしてその結びつきは、ただ業務を効率化するだけでなく、
講師たち自身の成長を促し、ひいては組織全体の発展にもつながります。
それはやがて、生徒たちの成長にも還元されていく。

こうした“見えない循環”を生み出すことこそが、
私の役割であり、講師たちの仕事でもあるのだと思っています。


もうひとつ、大切にしていることがあります。
それは、部下や講師の“可能性”を、誰よりも深く信じ、
ときには本人以上にそれを理解し、言語化して見せることです。

人は、自分の限界を「自分の物差し」で測ってしまいがちです。
その物差しは、多くの場合、狭い経験や固定観念からできていて、
本来の可能性よりもずっと手前で“限界”を設定してしまうものです。

だからこそ、私は講師たちにとっての“新しい物差し”でありたい。
彼らが見ている天井を少しずつ取り払い、
「君にはもっとできる」「こういう可能性もあるんじゃないか」
と、新しい視点を提示し続けることが、私のもうひとつの役割です。


もちろん、私自身がすべての生徒に直接関われたら、それに越したことはありません。
でも、物理的にそれは難しい。
だからこそ、講師一人ひとりが「生徒にとっての最良の教師」であるように、
その育成と支援に力を注ぐのが、私にできる最大の貢献なのです。


マネジメントとは、人を「まとめる」ことではなく、
人の中にある力を信じ、それを引き出し、結び合わせること。
教育の現場でも、それはまったく同じ。

知識や技術を教えるだけではない、
「その人の中にあるもの」を一緒に見つける、そんな仕事を、
私はこれからも誇りをもって続けていきたいと思っています。