「教えてやっている」
「教えてもらって当然だ」
もし、先生と生徒のあいだにそんな空気が漂っていたとしたら、学びの場はたちまち居心地の悪いものになってしまうでしょう。
先生の側に、どこか「自分が上だ」と思っているような態度が見えたとき。
生徒の側に、「教わって当然」「できて当たり前」という無意識の甘えが見えるとき。
その関係性には、自然と歪みが生まれ、学びの本質から遠ざかっていってしまいます。
もちろん、先生は知識や経験を持ち、それを伝えるという大切な役割を担っています。
そして生徒は、その学びを受け取り、成長していく立場にあります。
けれど、だからこそ忘れてはならないのが、「お互いへの敬意」なのだと思うのです。
教える側には、相手に対する理解と配慮が必要です。
教えを受ける側には、「学ばせてもらう」という感謝と、「もっと知りたい、伸びたい」という能動的な姿勢が求められます。
それは、たとえるなら「光」と「磨き」のような関係かもしれません。
先生には、確かに光るもの――経験や知識――がある。
でも、生徒にもまた、磨けば光るものがある。
そしてその“磨こうとする意志”があってこそ、学びの場は、真に美しいものへと変わるのです。
しかし、現実には残念ながら、そのバランスを見失ってしまっている場面に出会うことも少なくありません。
「先生だから偉い」
「生徒だから従うべき」
そんな固定的な関係が、いまだに学校や塾、教育の現場に根付いてしまっていることもあるのです。
公教育でも、私教育でも。
大切なのは、教える側・教わる側、どちらの立場であっても“対等な人としての尊敬”を忘れないこと。
その敬意があるだけで、学びの空間は驚くほどあたたかく、心地よくなります。
そんなことを改めて感じさせてくれたのが、以前訪れた横浜の小さな塾でした。
そこでは、先生も生徒も、互いに目線を合わせ、言葉を交わし、笑い合いながら学びを深めていました。
先生は決して偉ぶらず、生徒の声に耳を傾けていました。
生徒もまた、先生の言葉に真剣に耳を傾け、自分の思いをしっかり伝えていました。
そこには、「教えてやっている」も「教えてもらって当然」もありませんでした。
あったのは、ただまっすぐな「対話」と「敬意」――。
それは、まるで“学び”という旅を、先生と生徒が一緒に歩んでいるような光景でした。
教育とは、ただ知識を伝えるだけではなく、人と人とが心で向き合うこと。
教える側も、教わる側も、
ともに磨き合う関係でありたい。
そんな願いをこめて、私は今日も人の学びに目を向け続けています。
