幼児期は共産、学生時代は社会、社会人は資本、老後は民主

人は、生まれた瞬間から、ずっと同じ世界を生きているわけじゃない。

同じ日本に生きていても、
同じ社会に属していても、
年齢や立場によって、
求められる価値観も、許される態度も、
まるで別の制度のように変わっていく。

最近、そんなことを強く感じる。

幼児期は、ある意味で共産主義的だ。
学生時代は、かなり社会主義的だ。
社会に出ると、一気に資本主義に晒される。
そして老後、組織から引退した時にはじめて、
人は民主主義を感じるのかもしれない。

乱暴な言い方に見えるかもしれない。


でも、これ、意外と生活感覚に近い。

今日は、責任・怠惰・主体性・権利という4つの言葉を使って、
この流れを考えてみたい。

 

  幼児期・・・存在しているだけで守られる世界

幼児期は、まだ成果を求められない

ご飯を作ってもらう。
服を着せてもらう。
泣けば誰かが来る。
何も生み出さなくても、
とりあえず「生きていていい」が先にある。

 

これは、制度としての共産主義とは違う。
でも、生活感覚としてはかなり近い。
存在しているだけで、必要なものが配分される世界だからだ。

この時期の責任は、ほとんどない。
主体性も、まだ弱い。
権利なんて言葉を知らなくても守られている。
怠惰であることすら、問題になりにくい。
寝て、泣いて、食べているだけでも、
とりあえず共同体の中で生かされる。

 

つまり、幼児期とは、

人が“役に立つ前に守られる”最後の時間なんだと思う。

  学生時代・・・守られながら、責任を学ばされる世界

学生時代になると、少し変わる。

 

学校という組織に属し、
ルールを守り、
集団行動を学び、
責任を持て、主体性を持て、協調しろと教えられる。

 

ここで面白いのは、学校はかなり厳しいのに、まだ資本主義ではないことだ。

成績はある。
競争もある。
比較もある。
部活やサークルで上下関係もある。
でも、それでもなお、
属しているだけで居場所がある

 

これってかなり大きい。

たとえ目立たなくても、
たとえ大きな成果を出せなくても、
とりあえず「生徒」である限りは、
その場にいることが許されている。

だから学生時代は、かなり社会主義的なんだと思う。

 

統制はある。
自由は狭い。
でも保護もある。
共同体に属している限り、
完全には市場に放り出されない。

ここで教えられる責任は、まだ倫理だ。
自分の行為を引き受けろ。
約束を守れ。
ちゃんとしろ。
迷惑をかけるな。
そういう、人としての責任だ。

 

主体性も同じだ。

自分から動け。
前に出ろ。
率先して行動しろ。
学生が思う主体性は、
たぶん部活やサークル、資格、進路活動みたいな、目に見える“頑張り”なんだろう・・・?

 

でも、この時点ではまだ、
責任も主体性も自分が持つものとして語られている。

 

  社会に出ると、言葉の文法が反転する

ところが、社会に出た瞬間に、同じ言葉なのに意味が変わる。

 

ここが怖い。

 

責任は、負うものから、負わせるものになる。
主体性は、持つものから、求めるものになる。
権利は、持っているものから、奪われうるものになる。
成果や報酬は、手に入れるものから、与えられるものになる。

 

同じ日本語なのに、
動詞だけが全部すり替わっている。

これが社会だ。

学生時代に教わった責任は、
「逃げないための言葉」だった。
でも社会で使われる責任は、
「逃がさないための言葉」になりやすい。

主体性もそうだ。
自分で考えて動けと言われる。


でも、実際に求められているのは「組織にとって都合のいい範囲で、自発的に動け」だったりする。

自由にやれ。
でも空気は読め。
意見を出せ。
でも面倒は増やすな。
主体性を持て。
でも責任はお前が取れ。

 

・・・うん、なかなか美しい。
ここまでくると、もはや現代詩である。

  資本主義が生むのは“下の怠惰”ではなく“上の特権の怠惰”

よく、社会主義の欠点として
「みんな平等だと怠ける人が出る」と言われる。

 

それはたしかにあるんだろう。
働きアリの法則みたいに、どんな集団でも動く人と動かない人は出る。
でも、それは選べる怠惰なんだ。

 

誰の側にも起こりうる。
共同体の中に混ざる怠惰だ。

 

でも資本主義が生む怠惰は、少し違う。

資本がある。
立場がある。
配分権がある。
評価権がある。
すると、自分は責任を持たずに済む。

命令ではなく「お願い」で動かす。
指示ではなく「分かってくれるよね」で押しつける。
成果は取る。
失敗は下へ流す。
それでも自分は、管理している側の顔でいられる。

 

これが、私には特権の怠惰に見える。

 

社会主義の怠惰は、みんなの中に混ざる。
資本主義の怠惰は、上に立つ者の特権になる。

この違いは大きい。

怠けることそのものが悪いんじゃない。
人間なんだから、怠ける。
疲れる。
サボる。
逃げる。
それは普通だ。

でも、責任を持たないまま他人を働かせる怠惰は、かなり汚い。

しかもそれが、資本がある側には許されやすい・・


ここが資本主義の怖さなんだと思う。

  マルクス・・・成果を生む者が、成果を持てない

ここでマルクスを思い出す。

マルクスは、労働者が自分の労働から疎外されることを問題にした。


自分が生み出した価値なのに、その価値の決定権も所有権も持てない。
働いているのに、働いたものが自分のものにならない。

 

これはすごく分かりやすい。

責任は取らされる。
成果は出さされる。
でも利益は上が持っていく。
自分が生み出したものを、自分で持てない。


これが疎外だ。

 

マルクスの怖さでもあり、鋭さでもあるのは、この構造が単なる金の話じゃなく、
人間そのものの問題になっていることだ。

 

働いているのに、自分の人生を生きている感じがしない。
努力しているのに、自分で手に入れた感じがしない。
頑張っているのに、評価も配分も他人が決める。

 

それはもう、
ただの労働じゃなくて、人生の外注みたいなものだ。

 

  フーコー・・・主体性は“自由”の顔をした管理になる

次にフーコーだ。

フーコーは、権力はただ命令するだけじゃないと見抜いた。
むしろ現代の権力は、
人に「自分で動いている」と思わせながら、
ちゃんと管理する。

 

これ、主体性の話にぴったりだ。

主体性を持て。
自分で考えろ。
自分で判断しろ。
言葉は自由っぽい。

でも現実には、
その主体性は、
組織にとって都合のいい自己管理として使われることが多い。

つまり、主体性は
持つものじゃなく、
求められるものになる。

しかも厄介なのは、
求めている側は責任を薄められることだ。

 

「自分で判断したんですよね?」
この一言で、組織はきれいに手を引ける。

命令ではなく、自主性。
強制ではなく、成長機会。
支配ではなく、自己実現。

いやいや、
包装紙がきれいすぎるだろう。
中身を見せてほしい。

 

フーコーを読むと、
現代社会って、ムチで叩くより、やる気を出させる方が上手なんだと分かる。

怖いのは命令じゃない。
自分の意志だと思わされることなんだ。

 

  アーレント・・・人は働くためだけに生きるんじゃない

そしてアーレント。

アーレントは、人間の営みを・・・労働、仕事、活動みたいに分けて考えた。
ざっくり言えば、人はただ生き延びるために働くだけの存在じゃない。
公の場に現れ、語り、行動し、世界に関わる存在でもある。

 

でも現実には、多くの人は働くことに追われる。

生活のため。
家賃のため。
明日のため。
組織のため。

その結果、
人は「市民」である前に「労働者」になる。

 

ここで、老後の話がつながる。

組織から引退したとき、はじめて人は
「私は会社の部品じゃなく、社会の一人だったんだ」
と思い出すのかもしれない。

 

だから老後になると、民主主義を強く感じる。
選挙に行く。
声を上げる。
権利をよこせと叫ぶ。

 

若い頃は責任を学ばされ、老いてから権利を主張する。

 

これ、ずいぶん遅れて届く民主主義だなと思う。

でもその遅さには、理由がある。
働いている間は、
人は市民である前に労働者として生きるからだ。

 

  老後・・・組織から外れて、はじめて民主主義を感じる

幼児期は共産主義的。
学生時代は社会主義的。
社会に出ると資本主義。
そして老後、ようやく民主主義。

 

この流れで見ると、人生ってずっと同じ制度を生きていない。

幼児期は、存在しているだけで守られる。
学生時代は、属しているだけで守られる。
社会に出ると、成果を出さなければ守られにくい。


そして老後、組織から外れたときに、
「私は票を持つ一人だ」と気づく。

つまり民主主義って、若い頃から持っているはずなのに、
実感するのはずっと後なんだろう。

 

だからこそ、
老後の声は大きくなる。
傲慢に見えるくらい強くなる。


それは単なる老害じゃなくて、
ずっと抑えられてきた“市民”が、最後に出てくる感じなのかもしれない。

 

  結局、私たちは何を奪われてきたのか?

こうして見ると、奪われてきたのはお金だけじゃない。

責任の意味。
主体性の意味。
権利の意味。
怠惰の意味。
それぞれの言葉の文法そのものが、人生の途中で変えられてきたんだと思う。

 

責任は、負うものだった。
主体性は、持つものだった。
権利は、あるものだった。
成果は、得るものだった。

でも社会に出ると、
責任は負わされ、
主体性は求められ、
権利は不安定化し、
成果は配分される。

このすり替えに気づかないと、人はただ「頑張りが足りない」と思わされる。


でも違う。
頑張りの問題じゃない。
文法の問題なんだ。

 

  まとめ・・・社会は、言葉の意味を変えて人を使う

 

幼児期は共産主義的な保護。
学生時代は社会主義的な所属。
社会に出れば資本主義的な交換。
老後にようやく民主主義的な要求。

 

そう考えると、人生とは成長ではなく、
守られ方と測られ方が変わっていく過程なのかもしれない。

 

そして、その途中で
責任も、主体性も、権利も、
ずいぶん都合よく使い直されてしまう。

マルクスは、成果を持てない労働者を見た。
フーコーは、自由の顔をした管理を見た。
アーレントは、労働に追われて公共性を失う人間を見た。

たぶん今の私たちは、
その全部の中にいる。

 

だからせめて、言葉の意味くらいは取り戻したい。

 

責任は、誰かに押しつけるための言葉じゃない。
主体性は、都合よく働かせるための言葉じゃない。
権利は、機嫌次第で削られる飾りじゃない。
怠惰は、下だけに貼られるレッテルじゃない。

 

そうやって見直した時、ようやく少しだけ、
自分がどこで何を失ってきたのかが分かる気がする。

 シンプルフレーズ

幼児期は守られ、学生時代は育てられ、社会では使われ、引退後にようやく叫ぶ。
それが、私たちの人生に埋め込まれた制度の流れなのかもしれない。

 

はぁ、なんて生きにくい世界なんだ・・・

学生の頃に言われる「主体性」と、
企業に入ってから言われる「主体性」。

 

あれ、同じ言葉の顔をしているのに、
中身、だいぶ別人じゃないですか・・・?

 

学生の頃の主体性は、分かりやすい。

部活を頑張る。
サークルを盛り上げる。
資格を取る。
進路のために動く。
率先して発言する。
みんなを引っ張る。

いわば、
「自分から動ける人」が主体的とされる。

 

なるほど。


青春だ。
キラキラしている。
履歴書にも映える。
面接官もニッコリである。

 

でも、社会に出た瞬間、
この「主体性」は少し様子が変わる。

 

いや、少しじゃない。
だいぶ変わる。


下手すると別の生き物になる。

企業が求める主体性って、
本当に「自分で考えて動くこと」なんだろうか・・・?

もちろん建前ではそう言う・・・。

自ら考え、
自ら行動し、
課題を発見し、
周囲を巻き込み、
成果を出せる人材を求めています・・・。

 

うん。
採用ページって、だいたいそう書いてある。


あれはもう、現代の詩だと思っている。

 

でも実際に求められているのは、
たぶんもう少し具体的だ。

チームにちゃんと入ること。
空気を読むこと。
余計な正論で場を凍らせないこと。
会社の方向性に疑問を持っても、
せめて今じゃない顔をすること。

 

つまり、
「自分を主体にする力」ではなく、
「組織を主体として受け入れる力」が求められている。

ここが、ちょっと面白い。
いや、笑えないけど面白い。

 

学生の頃は、
自分の意思で動けと言われる。

でも企業に入ると、
会社の意思を自分の意思みたいに持てと言われる。

 

このすり替え、
わりと鮮やかである。

主体性って聞いていたのに、
気づけば「協調性の上位互換」みたいな扱いになっている。

 

しかも厄介なのは、
ただのイエスマンでは足りないことだ。

黙って従うだけでは、評価されない。
「自分で考えて、この結論にたどり着きました」という顔で
元気よく同じ方向を向く必要がある。

 

そう・・・
受動的ではダメなのだ。

能動的に従わなければならない。

命令されて動くのでは遅い。
言われる前に察し、
期待される答えを先回りし、
笑顔で差し出す。

これが大人の主体性です・・・みたいな顔をされる。

 

なかなか高度である。
ほぼ職人芸だ。

つまり企業が言う主体性とは、
自由に自分を出すことではない。

組織の論理を理解し、
その論理を自分の中に住まわせ、
あたかも自分の意志であるかのように行動する能力。

 

言い方を変えれば、

「私は私の意志で動いています」
と言いながら、
ちゃんと会社に都合よく動ける人。

 

それが、社会で高く評価される主体性なのだろう。

なんとも便利な言葉だ・・・
主体性。

響きは自由。
中身は適応。

ラベルは自主性。
運用は従順。

まるで、
無糖って書いてあるのに後味が妙に甘い飲み物みたいだ。


いや、怖いのは飲み続けるうちに
それが普通の味になることだけど。

もちろん、会社という組織で働く以上、
協調や連携が必要なのは当たり前だ。

一人で働いているわけじゃない。
好き嫌いだけで動けるほど、
現実は優しくない。

だから、合わせること自体が悪いとは思わない。

 

ただ、そこで気になるのは、
「主体性」という言葉が、
あまりにも都合よく使われすぎていないか?・・・ということだ。

 

自分で考えろと言いながら、
考えた結果が会社に不都合なら嫌がられる。

意見を出せと言いながら、
求められているのは改善案であって反論ではない。

挑戦しろと言いながら、
失敗すると評価に響く。

自由にやれと言いながら、
自由の範囲はすでに引かれている。

 

すごい。
こんなに自由そうで自由じゃない言葉も珍しい。

主体性って、
ずいぶん働き者なんだなと思う。
会社の都合に合わせて、意味まで残業している。

だからこそ、
一度ちゃんと考えたくなる。

主体性とは、
いったい誰を主体にした言葉なのか?

自分を主体にして生きることなのか?


それとも、
組織を主体として受け入れることなのか・・・?

 

学生が思う主体性は、
まだ「自分」が真ん中にいる。

でも企業が求める主体性は、
たぶん「会社」が真ん中にいる。

この違いに気づかないまま社会に出ると、
多くの人は戸惑う・・・

 

主体的に動けと言われたから動いたのに、
それは今やるべきじゃないと言われる。

考えて発言したのに、
もっと周りを見てと言われる。

自分なりに判断したのに、
相談してからにしてと言われる。

 

社会って難しい。
主体性とは、前に出ることではなく、
前に出ていいタイミングを見極める能力だったらしい。

 

先に言ってほしい。
就活サイトのどこかに小さく書いておいてほしい。

※主体性には空気読み機能が必要です・・・( ´∀` )

 

って。

たぶん本当に問うべきなのは、
主体性があるかどうかじゃない。

 

誰のために動いているのか?
誰の意思を、自分の意思として引き受けているのか。
そのことを、自分で分かっているかどうか。

 

そこが曖昧なままだと、
「主体的に生きているつもりで、
ただ上手に適応していただけだった」
という、なかなか切ない話になる。

まあ、社会はそういう
“自発的に従える人”を高く評価する場所でもある。

それを大人の成熟と呼ぶのか、
上手な飼いならされ方と呼ぶのかは、
人によって違うだろうけど。

 

でもせめて、
言葉の意味くらいは見失いたくない。

主体性とは、
本来は「自分で考えて、自分で選ぶこと」のはずだ。

たとえ組織の中にいても、
流されながら流されていることに無自覚になるのと、
分かった上で引き受けるのとでは、
話がまるで違う。

 

従うことが悪いんじゃない。
合わせることが悪いんじゃない。

 

ただ、
それを「自分が選んでいる」と言えるかどうか。

その最後の感覚だけは、
たぶん手放さない方がいい。

主体性という言葉が、
会社の便利ワードとして消費される時代だからこそ。

せめて自分まで、
自分の主体を外注しないようにしたい。

そんなことを思う。

春は、希望の季節なんて綺麗に言われる。
でも実際は、選ばされて、比べられて、未来を決めろと言われる季節だ。

就職、転職、進学・・・選ばなきゃいけないものが増えるほど、人は不安になる。
そして、やっと選んだあとでこう思うのだ・・・

 

「想ってたんと違う」

「想ってたんと違う」

それは、あなたが間違えたからじゃない。
見る目がなかったからでもない。
覚悟が足りなかったからでもない。

たぶんそれは、現実が始まっただけなんだと思う・・・。

 

今回は、春の分岐で人が何を感じるのか。
そして、選んだ後に何を考え続ければいいのかを、少しだけ掘ってみたい。

 

  選ぶ時、人は何を基準にしているのか

 

就職先や転職先を探す時、私たちはいろんな条件を並べる。

給料。
働きやすさ。
生活との両立。
勤務地。
会社の知名度。
安定性。
将来性。
仕事内容。
人間関係。
自分に向いていそうかどうか?

進学だって同じだろう。
学びたいこと、通いやすさ、学費、将来の可能性、世間体・・・いろんなものを天秤にかける。

 

そして、どれもこれも決め手に欠けるなら、いっそ自分で何か始めるとか、起業するとか、誰かの枠組みじゃない選択をしたくなることもある。

 

でも、何を選んでも、その先で起きることはだいたい同じだ。

「こんなはずじゃなかった」
「想ってたんと違う」

たぶん、これは避けられない

 

  「想ってたんと違う」は、失敗じゃない

 

想像と違った。
しっくりこない。
思ったほど楽しくない。
思ったよりしんどい。
思ったより自分に向いていない気がする。

そう感じた時、人はすぐに「選択を間違えた」と思いやすい

 

でも、本当にそうだろうか?

世界は不条理だ。
人にも物事にも、良い面と悪い面がある。
予想通りの部分もあれば、予想外の部分もある。


そして何より、自分自身の反応だって、やってみないと分からない。

 

だったら、何を選んでも「想ってたんと違う」が出てくるのは当然なんだ。

 

つまりそれは、失敗の証拠じゃない。

理想が終わって、現実が始まった合図なんだと思う・・・

期待が剥がれた場所からしか、本当の選択は始まらない。

 

  大事なのは、正解探しじゃなく優先順位だ

 

じゃあ、何が大事なのか?

 

それは、
何を優先するのか。
何を我慢するのか。
何を手に入れるために、何を手放すのか。

 

そこを考え続けることなんだと思う。

どんな道にも、良い面と悪い面がある。
全部を取れる選択なんて、たぶんない。

 

高い給料を取れば、自由な時間を失うこともある。
やりがいを取れば、安定を失うこともある。
安心を取れば、刺激を失うこともある。
夢を取れば、周りの理解を失うこともある。

 

結局、選ぶというのは「何を得るか」だけじゃなく、何を諦めるかを引き受けることでもあるんだろう。

だから本当は、「自分に合う場所を探す」というより、
自分が何なら耐えられて、何だけは手放したくないのかを知ることの方が大事なのかもしれない。

  熱意は冷める。それは悪いことじゃない

 

さらに残酷な話をすると、最初の熱意は長く続かないことが多い。

どれだけ「ここで頑張ろう」と思って始めても、2か月もすれば熱が落ち着いてくる。
新鮮さも薄れる。
理想も剥がれる。
現実的なしんどさが見えてくる。

 

でも、それもまた自然なことなんだと思う。

恋愛だってそうだろう?
最初は燃え上がる。
だけど、その熱がずっと同じ温度で続くわけじゃない。
年々、静かになっていく。
粛々と日常になっていく。

仕事も、勉強も、人間関係も、たぶん似ている。

(ごめん。完全に私の主観だよ?)

 

だから必要なのは、「最初の熱意を永遠に保つこと」じゃない。
そうじゃなくて、冷めたあとに、どうやって自分をもう一度動かすか?なんだ!

そのために、こまめにリセットして、気分を一新できる方法を持っておくのはかなり大事だ。

 

  自分を立て直すには、環境を変えるのもひとつ

 

気分を切り替える方法なんて、世の中にいくらでもある。

資格や試験に挑戦する。
趣味を見つける。
休日の過ごし方を変える。
小さな目標を作る。

どれも間違いじゃない。

 

でも、正直ちょっと普通だなとも思う。

私なら、もっと手っ取り早く、人間関係を切り替えるかもしれない。

 

友人。
同僚。
いつものメンバー。
いつも同じ会話をする相手。
いつも同じ自分でいなければいけない空気。

 

そういうものを少しずつ変えていく。

それだけで、人は驚くほど違う刺激を受ける。

 

人は、他人の目の中に自分を見る
誰といるかで、使う言葉も変わる。
笑うポイントも変わる。
欲しくなるものも変わる。
当たり前だと思っていた日常の輪郭まで変わっていく。

他人を変えることで、自分が変わる。
自分が変わることで、見える世界が変わる。

これは、かなり魅力的な刷新方法だと思う。

 

しかも、案外コストが少ない・・・たぶんね?(笑)

・・・まあ、リスクはあなた次第です(笑)

 

  選択とは、違和感と付き合い続けること

 

選ぶ前の私たちは、どうしても「自分に合う何か?」を探してしまう。

 

でも、たぶんそんなものは最初から存在しない

 

どの道を選んでも、違和感はある。
どの環境に行っても、想像とズレる。
どんな人間関係にも、面倒さはある。
どんな夢にも、現実の重たさはついてくる。

だから大事なのは、違和感がないことじゃない。

 

その違和感の中で、何を守りたいのか?を決め続けることなんだと思う。

 

自分に合う道を探すというより、
違和感だらけの現実の中で、少しずつ「ここならまだ歩ける」と思える形を作っていく。

 

その積み重ねが、あとから振り返った時に
「ああ、これが自分の選んだ道だったのか」
になるんじゃないだろうか?

 

  春の分岐で大切なのは、選んだ後に考え続けること

 

春は、選択の季節だ。

でも、選んだ瞬間に全部が決まるわけじゃない。


むしろ本番は、その後に始まる。

想ってたんと違う。
しっくりこない。
熱意が続かない。
別の道の方が良かった気がする。

 

そんなものは、たぶん全部ある。

でもそれは、失敗じゃない。
現実の中で、自分の感覚がちゃんと動いている証拠だ。

 

だからこそ大事なのは、
何を優先するのか。
何を我慢するのか。
何を手に入れるために、何を手放すのか。


それを考え続けること。

選択とは、正解を引くことじゃない。
「想ってたんと違う」現実の中で、それでも自分が何を選びたいのかを、何度でも確かめ直すことなんだと思う。

 

最初からしっくりくる道なんて、きっと少ない。
でも、違和感の中で考え続けた道は、少しずつ自分の道になっていく。

そんな春があっても、いいんじゃないかな?と思う・・・

 シンプルフレーズ

自分に合う道を探すより、違和感の中で何を守るかを決めた方が、

たぶん人生は少しだけ自分のものになる。

噂話が好きな人がいる。
人の失敗が大好きな人がいる。
誰かの転落を見て、妙に元気になる人がいる。

人の幸せは喜べない。だから不幸を見てニヤリくらいが丁度いい

 

そういう人たちが本当に幸せかと言えば、たぶん別にそうとも限らない。

人の不幸を見て笑っている人が、満たされているとは限らない。


むしろ、自分の空虚さや退屈さや不安をごまかすために、他人の不幸に群がっているだけかもしれない。

それでもやっぱり、人は他人の不幸を見てしまう。


そして時には、そこに比較の快楽すら感じる。

「あの人よりはマシ」
「自分じゃなくてよかった」
「まだ自分は安全な側にいる」

そんなふうに、自分と比較して、ほんの少し愉悦に浸ることもある。

 

これは綺麗ごとでは消えない、人間のかなり生々しい部分なんだと思う。

 

  他人の不幸が気になるのは、幸せだからじゃない

 

他人の不幸を見て喜んでいるように見える人が、
そのまま幸せを手に入れているわけじゃない。

 

ただ、不幸は刺激になる。
退屈な日常の中で、分かりやすく感情を揺らす。
自分の位置を確認させてくれる。
自分の安全地帯を、一瞬だけ実感させてくれる。

 

だから見てしまう。
だから反応してしまう。

 

人の不幸は蜜の味、というのは、
性格が悪いからだけじゃなくて、
比較によって自分の位置を確かめる本能に近いんだと思う。

でもそれは、幸せそのものじゃない。
せいぜい、退屈や不安を紛らわせる一時的な刺激だ。

  安全な場所から眺めた不幸は、もう娯楽でしかない

 

そしてもっと厄介なのはここだ。

自分は安全な場所にいる・・・
テレビを見る。
報道を見る。
SNSを見る。
誰かの炎上。
誰かの失敗。
誰かの不倫。
誰かの破滅。
誰かの泣き顔。

それを、まるで映画やドラマでも見るみたいに眺めている時、それはもう情報じゃない。
エンターテイメントだ。

 

そう、人の不幸は、誰かの娯楽になる。
誰かの餌食になる。

 

ここがすごく怖いし、すごく今っぽい。

不幸そのものに価値があるんじゃない。


不幸を見せ物として流通させることに価値が出る。

不安も切り売りされる。
心配も押し売りされる。
不幸も編集されて、分かりやすく加工されて、消費しやすい形で提供される。

もうこれは、ただの不幸じゃない。
不幸ビジネスだ。

 

しかも、倫理とか道徳とかを口にしながら、その実いちばん気持ちよさそうに言いふらしている人がいる。

それは不幸を悲しんでいるんじゃない。
不幸を娯楽として提供しているんだと思う。

最高にイカれていて、最高にパンクで、最高にロックな世界だなと思う・・・

 

  人の不幸を大いに喜ぶ。それを許さないのは、倫理か、建前か

 

もちろん、他人の不幸を大いに喜ぶなんて、
倫理観も道徳観も、そう簡単には許してくれない。

 

そんなの最低だ!
性格が悪い。
冷たい。
ひどい。
そう言われるだろう・・・

 

でも、現実にはみんな見ている。
現実にはみんな消費している。
現実にはみんな、少しは気持ちよくなっている。

 

そこを無かったことにして、
「私は違います」みたいな顔をする方が、たぶんよっぽど不誠実だ。

人の不幸を喜ぶこと。
人の不幸を見てニヤリとすること。
それ自体は、たぶん消えない・・・

 

消えないどころか、
この社会はそれを前提に回っている部分すらある。

だから問題は、「そんな感情を持つのは悪いことか?」ではなくて、
それをどう扱うかなんだと思う。

 

  使う側に回れるのか、と言われると、私はそんなに強くない

 

だったら私たち自身が、
他人の不幸を提供する側になればいいのか?

人の不幸を切り売りして、
人の不安を煽って、
人の転落をネタにして、
視線を集めて、金にして、快感にして、主導権を握る?

 

理屈としては、たしかにそうだ。
使われるくらいなら、使う側に回れ。


この論理はすごく強い。

 

でも、正直に言うと・・・

世間体を気にする気弱な私には・・・そこまで露悪的にはなれない。


そんなに図太く、そんなに堂々と、他人の不幸を商品として振り回すなんて無理だ。

出来ることがあるとすれば、せいぜい一つだ。

自分の不幸を提供することくらいだ。

 

  自分の不幸を差し出して、誰かの幸福の糧にできるなら

 

大いに自分の不幸を使う。
大いに自分の失敗を言いふらす。
大いに自分の惨めさをエンタメにする。

 

それで誰かが少し安心する。
誰かが少し笑う。
誰かが「自分だけじゃない」と思える。
誰かが「まだ自分はマシかも」と思える。

 

それって、すごいことかもしれない!???

綺麗な言い方をすれば、
他人の救いになる。
もう少し汚い言い方をすれば、
他人の幸福の糧になる。

 

でも、どっちでもいい気がするんだ・・・

 

だって現実に、
人は誰かの不幸を見て、自分を保つことがあるんだからさ・・・・

 

だったら、自分の不幸が誰かの役に立つなら、
それはそれで、かなり面白い使い方だと思う。

自分の傷が、
誰かの笑顔の材料になる。


自分の惨めさが、私の悲しみが、過去とトラウマが・・・
誰かの安心の材料になる。

なんだか皮肉で、なんだか優しい。

  人の幸せを素直に喜べないから、不幸を見てニヤリくらいが丁度いい

 

もちろん、ここで
「他人の笑顔を喜べたら素敵ですね!」
みたいに綺麗に締めることもできる。

 

でも、ぶっちゃけ、そんなに綺麗に出来ていない・・・

人の幸せなんて、そんな素直に喜べない。
眩しいし、腹も立つし、嫉妬もするし、置いていかれた気にもなる。

私はそんなに善人じゃないし、聖人でもないし、良い人にはなれないんだ・・・

 

だから私には、無理して聖人ぶるより、
やっぱり不幸を見てニヤリくらいが丁度いいんだと思う。

 

大いに喜べ、とまでは言い切れなくても、
少なくともそこにある生々しい本音を、
無かったことにしない方が、よっぽど誠実だ。

 

他人の不幸は、誰かの娯楽になる。
誰かの餌食になる。
そして時には、誰かの幸福の確認材料にもなる。

だったらせめて私は、
自分の不幸くらいは、自分で使いたい。
誰かに勝手に消費されるくらいなら、
自分の手で、笑える形にしてしまいたい。

 

それが優しさなのか?ただのやけくそなのか?は分からない・・・

でも、最高に生々しくて、
最高に人間っぽくて、
少しだけロックだとは思う。

 

  誰かの不幸は、誰かの娯楽になる。
だったらせめて、自分の不幸くらいは自分で笑える形にしたい。

人の不幸を見て笑っている人が、幸せとは限らない。
でも、人は他人の不幸を見て、自分と比較して、少し愉悦に浸ることがある。

 

そして安全な場所から眺められた不幸は、
もう情報じゃなく、エンターテイメントになる。


誰かの不幸は、誰かの娯楽になり、誰かの餌食になる。

 

それを大手を振って言いふらしている人たちは、
不幸を喜んでいるというより、
不幸を娯楽として提供しているんだと思う。
もうただの不幸ビジネスだ。

だったら、私たちは使う側に回るのか・・・?
・・・そこまで強くはなれない。私は弱いんだ・・・情けなくて・・・残念な生き物だから・・・

 

でも・・・?だからこそ、自分の不幸を差し出して、誰かの幸福の糧にすることくらいはできるかもしれない。

 

他人の幸せを素直に喜べない。
それならせめて、
不幸を見てニヤリくらいが丁度いい。

 

そのくらいの本音の方が、たぶんこの世界にはよく似合っている。

少なくとも私には、それくらいが丁度いい・・・

命令は聞ける。けれど、責任を隠したお願いは聞けない。

「分かって欲しい」なんて論外だ。

 

分かって欲しいって何だろう?

命令やお願いなら、相手の意図を知ることが出来る。

 

でも、「分かって欲しい」って・・・恋愛ならまだギリ分かる。

どれだけ忖度しても答えにたどり着ける自信が無い。

 

私は人の感情が分からないから・・・

優しい言葉ほど、無責任なことがある

  「お願いだから」がしんどい理由。命令のほうがまだ誠実だと思う話

 

世の中では、命令する人より、
お願いしてくる人のほうが優しいことになっている。

 

強く言う人より、
柔らかく頼む人のほうが感じが良いことになっている。

 

そして、
「分かって欲しい」と言う人は、
傷ついた側で、繊細で、真っ当な人みたいに扱われやすい。

 

でも、私はずっとそこに違和感があった。

むしろ逆じゃないかと思うことが多かった。

命令のほうが、まだ筋が通っている。
お願いのほうが、よほど無責任なことがある。
「分かって欲しい」は、相手に責任を押し付ける言葉になりやすい。

 

そんなふうに感じる場面が、
仕事でも、人間関係でも、何度もあった。

今日はその違和感を、
ちゃんと言葉にしてみたいと思う。

 

  命令は乱暴でも、責任を持つという表明がある

 

命令と聞くと、あまり良い印象はないと思う。

偉そう。
高圧的。
支配的。
上から目線。

たしかに、その通りな部分もある。
命令には圧がある。
重さがある。
言われた側は気分の良いものではない。

 

でも、それでもなお、命令にはひとつだけ・・・
お願いよりも明確なものがある。

 

それが、責任だ。

「これをやれ」
「こうしろ」
「これで進めろ」

命令するというのは、
相手を動かすということだ。
相手に負荷をかけるということだ。
その結果、失敗もあれば、不満もあるし、反発だって返ってくる。

 

それでも言う。
それでも指示する。

ということはつまり、
少なくとも建前の上では、
命令する側が責任を持つという表明なんだと思う。

 

有名な言葉を借りるなら、まさにあの感じだ。

「撃って良いのは、撃たれる覚悟のある奴だけなんだ」

命じて良いのは、
命じた結果を自分に返される覚悟がある人間だけだ。

だから命令は怖いけれど、
まだ分かりやすい。
誰が言ったのか。
誰が決めたのか。
誰に返せばいいのか。
そこが見える。

この「見える」というのは、案外大きい。

  「お願いだから」は、優しさじゃなく責任回避になることがある

 

一方で、お願いはどうだろう。

「お願いできる?」
「できたらでいいんだけど」
「無理なら仕方ないんだけどさ」
「ちょっと頼んでもいい?」

言い方は柔らかい。
角も立ちにくい。
いかにも優しそうに聞こえる。

 

でも、ここにずっと引っかかっていた。

お願いって、
やってもらうことは求めるのに、責任は持たない形になりやすい。

できたら、相手の善意のおかげ。
できなかったら、
「いや、お願いしただけだし」
「無理なら仕方ないって言ったよね」
で終われてしまう。

これ、かなり便利なんだよね。

人を動かしたい。
でも、命令した責任は持ちたくない。
失敗した時に、自分の指示だったとは言いたくない。
相手が動かなかったとしても、強制はしていないと言いたい。

 

その逃げ道を、
優しい言い方で確保しているように見えることがある。

つまりお願いは、
優しい顔をしているけれど、

責任を受けない指示

になりやすい。

ここがしんどい。

 

命令なら、まだ腹を立てやすい。
「ああ、この人が言ったんだな」と分かるから。

 

でもお願いは違う。
断ると、こちらが冷たく見える。
空気が悪くなる。
気が利かない人みたいに扱われる。
善意が足りない人みたいに見られる。

 

だからお願いは・・・
柔らかいのに逃げ場がない。

そのしんどさを、優しい言葉は隠してしまう。

そのせいで、凄く息苦しくなってしまうのは私だけなんだろうか・・・?

  「分かって欲しい」は、理解できない責任を相手に押し付ける

 

そして、もっと厄介なのがこの言葉だと思っている。

「分かって欲しい」

この言葉は、とても切実に聞こえる。
苦しさや寂しさもにじむ。
だから否定しづらい。
むしろ、否定したら自分が冷たい人みたいに感じてしまう。

でも、この言葉もまた、
かなり危うい構造を持っている。

 

なぜなら、
理解できなかった責任を相手に押し付ける言葉になりやすいからだ。

 

本来、何かを伝えるなら、
まず責任があるのは伝える側のはずだ。

どう言えば伝わるか。
何を省かずに話すか。
どこで誤解されるか。
どんな言葉を選ぶか。

その責任を引き受けた上で話すのが、本来の順番なんだと思う。

 

なのに、
それを飛ばして
「分かって欲しい」と言われると、分からない側が悪者になりやすい。

察せない人。
冷たい人。
鈍い人。
思いやりのない人。

でも、違うはずだ。

分かることは義務じゃない。
理解は強制できない。
共感は命令できない。

それなのに「分かって欲しい」は、その義務のないものを、
相手の責任に変えてしまう。

 

だから私は、この言葉がしんどい時がある。

切実な言葉だからこそ、なおさら重たい。
そして、重たいくせに責任の向きが曖昧なんだ。

  本当に怖いのは、強い言葉じゃなくて、責任を隠した言葉かもしれない

 

世の中はよく言う。

命令するな。
もっとやさしく言え。
気持ちを分かってあげろ。
察してあげろ。
思いやりを持て。

 

もちろん、それがちゃんと成立する関係もあると思う。


断っても責められない関係。
分からなくても怒られない関係。
お互いに責任の線を越えない関係。

そういう相手なら、
お願いも優しさになるし、
「分かって欲しい」も対話の入口になる。

 

でも、現実はそんなにきれいじゃない。

 

職場でも、家庭でも、人間関係でも、
責任を取りたくない人ほど、
やさしい言い方を使うことがある。

「お願いね」
「できる範囲でいいから」
「このくらい分かるよね?」
「普通ここまで言わなくても察するよね?」

こういう言葉のほうが、
怒鳴り声より長く残ることがある。

 

強い言葉は傷として見えやすい。
でも、責任を隠したやさしい言葉は、
こちらが悪いのかもしれないと錯覚させる。

それが一番やっかいだ。

 

  だから私は、命令のほうがまだ誠実だと思ってしまう

 

誤解してほしくないのは、
命令が好きだと言いたいわけじゃない。

命令は重い。
嫌だ。
怖い。
疲れる。

でも、それでもなお、
お願いや「分かって欲しい」より、
まだましだと思う時がある。

 

なぜなら命令には、
責任の所在が見えるからだ。

誰が言ったのか。
誰が決めたのか。
誰が引き受けるのか。


そこが見える。

でもお願いは見えにくい。
「分かって欲しい」は、もっと見えにくい。

 

見えない責任は、
気づかないうちに相手へ流れていく。
だから人は疲れる。
だから苦しくなる。
だから、やさしい言葉なのに息苦しくなる。

 

私はたぶん、
命令が好きなんじゃない。

責任を隠して人を動かす言葉が嫌いなんだ。

ただ、それだけなんだと思う。

  優しさより先に、責任を見たい

 

言葉の温度と、誠実さは一致しない。

冷たい言葉でも誠実なことはある。
やさしい言葉でも無責任なことはある。

命令は、命令する側が責任を持つという表明だ。
お願いは、責任を受けない指示になりやすい。
「分かって欲しい」は、理解できない責任を相手に押し付ける常套句になりやすい。

 

だから私は、
やさしい言い方かどうかより先に、
その言葉の責任を誰が持つのかを見たい。

本当に優しい人は、
口調が柔らかい人じゃない。
自分の言葉の責任から逃げない人だと思う。

 

やさしい口調で責任を逃がすくらいなら、
重たい言葉でも責任を引き受けるほうが、
まだ誠実だ。

そういう人の言葉なら、私はまだ聞ける気がする。