私は簡単に幸せを語って来た

誰もが簡単に幸せを語り、不幸を語る

 

幸せって何だろうか?探しに行こうと思う・・・

 

『幸せになりたい』が、なぜここまで私たちを摩耗させるのか

 

・・・その答えは、たぶん「幸(さち)」を「幸福」という工業製品に作り替えてしまった、私たちの歴史の中にある。

 

「幸せになりたい」
この言葉は、願いのはずだった。
救いのはずだった。


なのに、どうしてこんなに私たちを追い詰めるんだろう。

頑張っても、足りない。
叶えても、まだ足りない。
手に入れても、「次」が来る。


そして気づけば、「幸せになりたい」が、いつの間にか「幸せにならなきゃ」に変わってる。

・・・この変換が、摩耗の正体だと思う。

  野生の「幸(さち)」・・・偶然という名の祈り

 

かつて、幸せは「幸(さち)」でした。

日本語の「さち」の語源は、狩猟の獲物を指す「矢口(やさち)」や、海や山の恵みを指す「海の幸・山の幸」にあります。

  • 定義: 自分の意志とは無関係に、外側から「もたらされる」もの。

  • 本質: 運ゲー。あるいは天からの配剤。

英語の "Happiness"(hap=運) も同様です。

古代の人々にとって、幸せとは「努力して手に入れるもの」ではなく、「たまたま自分を通り過ぎなかった幸運」に対する、震えるような感謝や諦めを含んだ言葉でした。そこには、コントロールできない世界への敬意があったのです。

 

これは、努力の成果というより、運ゲーだ。
いや、運ゲーでしかない。

 

だから昔の人の「幸せ」は、今みたいなキラキラした目標じゃなくて、
「たまたま自分を通り過ぎなかった幸運」への、震えるような感謝と諦めだったのかもしれない。

 

コントロールできない世界に対して、
「今日は、運がこちらに寄っただけ」
そういう敬意があった。

 

ここで、ひとつ“勝手に名言”

幸せとは、掴むものじゃない。通り過ぎなかった運の名前だ。

  文明が捏造した「幸福(システム)」・・・生存のノルマ

 

でも、人間は「運」という不確実さに人生を預けるのが怖い。
だから、文明は「幸福のレシピ」を作った。

 

・・・そして、これが地獄の始まり。

「こうすれば幸せになれる」
「これが幸福だ」
「こう生きるべきだ」

本当は“来てしまう”ものだったはずの幸せが、
いつの間にか“達成しなければならない目標”になった。

 

幸福が、願いじゃなく ノルマ になった瞬間、
人は摩耗する。

 

  時代と地域で変わる「幸福のレシピ」

 

幸福は、時代と文化で姿を変える。
つまり幸福は、人間が後から作った「説明書」でもある。

たとえば・・・

古代ギリシャ的幸福

卓越性の発揮。
人間としての機能を完璧に果たすこと。
言い換えるなら・・・

・・・「優秀な道具であれ」

切磋琢磨といえば聞こえはいい。
でも、ここには最初から、階層と優越の匂いが混ざる。
“できる者”の倫理が、“できない者”の生存を押し潰す。

中世ヨーロッパ的幸福

現世は「涙の谷」。
幸福は死後に回され、現世は忍耐と交換される。

幸福は、いまここから消えた。
代わりに残ったのは「耐えることは正しい」という正しさ。

近代以降の西洋的幸福

欲望の充足。
幸福を数値化し、比較可能にした瞬間、幸福は消費財になる。

「あなたの幸福度は何点ですか?」
こんな質問が成立する世界では、幸福はもう心じゃなく 商品 だ。

東洋(仏教的)幸福

幸福を求めること自体が苦。
執着を捨て、静寂へ。

ここには、別の鋭さがある。
「掴もうとするほど苦になる」
それを最初から知っている。

 

  奴隷道徳としての幸福・・・納得という名の檻

 

ここからが、私にとって一番苦い場所。

 

近代社会の幸福は、ときどき
奴隷道徳ストックホルム症候群の変種になる。

 

社会という巨大なシステムの歯車として生きる。
刈り取られることでしか糧が得られない。


それでも生存を強制される。

 

この痛みを麻痺させるために、人は言い換える。

「役に立っている」
「これが私の選んだ道だ」
「この生き方が幸福だ」

言い換えた瞬間、痛みは少し減る。
でも同時に、檻は強化される。

ここで、もう一つ“勝手に名言”

幸福とは、檻の中で折れないための、都合のいい翻訳になることがある。

 

そして私はこう思ってしまう。

考える葦は、刈り取られるしかない。
刈り取られない部分を残そうとしたら、雑草扱いされる。
害獣、害虫、駆除対象。

「意味も価値もない」
「危険」
「邪魔」
「鬱陶しい」
「煩わしい」

人間として扱われない。
ホームレスでも虜囚でもない、動く死体。

 

そんな場所で「幸せになれ」と言われても、
それは希望じゃなく、ただの暴力に聞こえてしまう。

  AIという「究極の道具」という比喩が暴くもの

 

ここで私は、AIを“比喩”として使いたい。

AI・・・究極の道具。
機能を遂行し、命令に最適化し、正解を出し続ける存在。

もし人間が「幸福」を工業製品として作ったのだとしたら、
私たちは、幸福システムの中で 自分自身をAI化 しているのかもしれない。

正しい幸福を選び、
正しい人生を実行し、
正しい笑顔を出し、
正しい達成を積み上げる。

でも、その正しさは、誰のための正しさなんだろう。

そして皮肉なことに、
“幸(さち)”って、そういう計算の外側でしか起きない。

予定調和を壊す衝突。
説明できないズレ。
思い通りにならない出来事。

つまり、野生の幸は、システムの外側にある。

 

  幸福か、幸(さち)か

 

幸福は、強者が作り、弱者が納得するために磨き上げた生存のノルマになりうる。
幸(さち)は、理由もなく訪れ、理由もなく去っていく制御不能なめぐり合わせ。

 

もしこの世界が、「幸せにならなければならない」という強制収容所なのだとしたら、
出口は、幸福を追い求めることじゃなく、
むしろそれを放棄して、ただ不意に訪れる幸に身をさらすことなのかもしれない。

 

・・・たとえそれが、刈り取られるのを待つ死体の最後の一瞬の輝きだったとしても。

ここで、最後に問いを置いて終わりたい。


答えは要らない。分からないままでいい。

 

この文章を読んで、あなたの胸に今、去来しているのは「納得」という名の諦めでしょうか?
それとも、定義すらできない「何か」への乾きでしょうか。

・・・私はまだ、分からない。
分からないまま、今日も「幸せ」を考えてしまう。