皆様、今日も「自分の物差し」で生きていらっしゃいますか?

それとも、
誰かが落としていった使い古しの物差しで、
今日も自分をペチペチ叩いていらっしゃいますか?✨

 

私たちは、ふとした瞬間に
自分にレッテルを貼ってしまいます。

「ダメな自分だから、動けない」

「ダメな自分」という幻想を脱ぎ捨てて、深呼吸するための処方箋

 

  踏み出したいのに、足が止まる理由

 

新しい場所。
新しい分野。
新しい人間関係。

踏み出したい気持ちは、
確かにどこかにあるのに、
なぜか足が止まってしまう。

 

そんな経験、
きっと少なくないはずです。

 

  未知の世界は、いつだって「嫌いな授業」に似ている

 

興味のない分野。
関心のない世界。

それはたいてい、
未知で、怖くて、
どこか嫌悪の対象になります。

 

人は、
嫌いなものをあえて選ばないし、
苦手なことに無理して挑みません。

 

関心がなければ、
そもそも見向きもしない。

それは、生存本能として
とても自然なことです。

 

  日常のワンシーン:歴史の話

 

例えば、歴史。

武将の名前。
城。
刀剣。

 

好きな人にとっては、話も盛り上がるし、実際に城へ行きたくなるほど
面白い世界です。

 

でも、興味も関心もなければ?

それはただの
「嫌いだった社会の授業」
引き戻されるだけ。

 

同じ対象なのに、心の窓が開いているかどうかで、
見え方はまったく変わってしまいます。

  「ダメな自分」という呪いのレッテル

 

ここに、もし
自分で
**「ダメな自分」**というレッテルを
貼っていたら、どうなるでしょう。

「自分には分からないだろう」
「見いだせないだろう」
「出来ないだろう」
「きっと、良くない結果になる」

まだ何も始めていないのに、
未来だけは、ネガティブに確定させてしまう。

 

その結果、行為には繋がらない。

ダメだと思った瞬間、
新しい風を受け入れる
準備が終わってしまうのです。

 

怖いのは失敗ではなく、苦手なのは挑戦でもない。

 

「どうせダメな自分」という前提で
世界を見てしまう、その曇ったフィルターこそが、
私たちの足を止めています。

 

  その「ダメ」の基準、誰の私物ですか?

 

ここで、
一つだけ考えてみたいことがあります。

その
「ダメ」の基準って、
一体、誰のものなのでしょう?

誰かと比べて、そう感じただけ。
誰かに比べられて、評価された記憶。
「出来ているはず」という前提が
自分には適用されなかっただけ。

それって……
誰かの物差しでしかないんじゃないでしょうか。

 

  🐕 コリーとチワワを比べる無意味さ

 

私とあなたが違うように、
コリーとチワワを比べて
「どっちがダメか」を決めるのは、
そもそも無理があります。

ボルトとアインシュタインが100m走を競う・・・?

ホーキング博士に、腕相撲を挑む・・・?

 

それは勝負ですらありません。
ただの・・・配置ミスです。

適材適所での総評になっていない。
それだけの話なのかもしれません。

 

それなのに私たちは、
その相対的評価を真に受けて、
ネガティブな未来を予見して、
行為を止めてしまう。

 

正直に言って、その仕組みが私はよく分かりません。

あまりにも、自分に対して残酷すぎるから。

 

  今日から少しだけ、呼吸を楽にするために

 

ダメな自分かどうかは、
能力の問題じゃない。

配置の問題かもしれません。

ダメな自分を認識したから、
動けなくなったんじゃない。

誰かの物差しを、
自分の声だと信じてしまったから、
立ち止まっただけ。

そう考えると、
少しだけ
呼吸がしやすくなりませんか?

 

答えは、
まだ出さなくていい。

こうして
「なぜだろう?」と
考え続けられる余地があること自体が、

あなたがもう、
「ダメ」なんて枠には収まりきっていない証拠なのですから。

 

もしよろしければ、教えてください。

あなたが今、無意識に自分を測ってしまっている
「誰かの物差し」は、
どんな形をしていますか?

その物差しを、一緒にポイ捨てして、代わりに
自分専用の、適当で心地よい定規をデザインしていきましょう。