皆さま、今日もお疲れ様です。✨ 

「嫌な人とは距離を置けばいい」「自分らしくいればいい」

 そんなキラキラした呪文が、1ミリも通用しない閉鎖空間で、今日も必死に息を吸っていらっしゃる皆さまへ。

 

自分と真逆の人との出会い。 

それは珍しいことでも何でもなく、学校、職場、地域……どこにでも転がっている「事故」のようなものです。

本来なら、道ですれ違うだけの人。 あるいは、たまたま隣のレーンを歩いているだけの人。 

そのはずなのに、なぜ私たちはこれほどまでに消耗し、一喜一憂してしまうのでしょうか。

自分と真逆の人に出会うのは、珍しいことじゃない

自分と真逆の人との出会い。

正直、そんなに珍しいことじゃない。

学校にもいる。
職場にもいる。
地域にも、どこにでもいる。

 

同じジャンルに感じられる人がいるように、真逆の人も、必ずいる。

だから・・・?

本来なら、「だから何?」で終わる話のはずだ。

すれ違っただけの人

その人は、たまたま自分が進んでいる道ですれ違っただけの人。

少しの間、隣を歩く距離まで近づいただけの人。

 

その人からの評価や言葉に
一喜一憂したところで、どうしようもない。

その場を離れたら、もう二度と会わない。

・・・本来は、そういう関係だ。

  🏃‍♂️ 図書館で走るボルトを、無視できますか?

でも、現実は違う。

簡単に離れられない。
簡単に縁を切れない。

 

同じ学校。
同じ職場。
同じ地域。

 

価値観が合わなくても、
距離感がどうしようもなくズレていても、
居場所を変えることは出来ない。

相手も、どこにも行かない。

だからこそ、人間関係は人を消耗させる。

 

「他人の評価なんて気にしなければいい」 そう言うのは簡単です。

でも、「図書館」という静寂を求められる場所で、ボルトが全力疾走していたら?

どれだけ鬱陶しくても、どれだけ理解不能でも、そこに居る以上、無視なんてできません。 

 

風を切る音、足音、その圧倒的な違和感。 

同じ場所に留まらなければならない以上、私たちはその「異物」の存在を五感で受け止めざるを得ないのです。

 

そして、もっと残酷な真実に気づいてしまうこともあります。 

「私自身もまた、誰かにとってのボサボサ頭のアインシュタインではないか?」と。

 

  鏡としての他者、逃げ場のない視線

 

誰かがアインシュタインの容姿を笑っているとき、自分もまた、その場の空気に合わせて一緒に笑ってしまう。 

あるいは、誰かの視線を通してしか、自分の輪郭を確認できない。

 

人は、他人の目に映る自分を見る事しか出来ない。

 

だからこそ、古今東西の先人たちは、一人で完結する「自己完結した価値」を見出せなかったのかもしれません。

私たちは、他人の物差しで測られることを嫌いながらも、その物差しがなければ自分が何者であるかさえ分からなくなってしまう。

なんて皮肉な設計ミスなんでしょうね。

 

  🌏 離れられないから、苦悩は「文化」になる

 

「居場所を変える」ことが簡単にできれば、人間関係の悩みなんてこの世から消えてなくなります。 

でも、変えられない。相手もどこにも行かない。 

だからこそ、私たちは消耗し、すり減り、その摩擦の中で「自分」という歪な形を削り出していく。

「自分と真逆の誰か」と、同じ空間で、違う物差しを突きつけ合いながら、それでも共存し続ける。 

それは、もはや「修行」という名のエンターテインメントなのかもしれません。

  答えの出ない、明るい絶望を

 

結局のところ、他人の物差しを完全に捨てることなんて不可能です。 

私たちは、他人の視線という名の「光」を浴びなければ、自分の影すら見ることができないのですから。

 

「あぁ、今日もボルトが隣で走っているな」 

「私は私で、アインシュタインの寝癖を指摘されているな」

そうやって、互いに全く噛み合わない物差しを持ち寄って、狭い部屋で窮屈に笑い合う。 

その滑稽さと、どうしようもなさを、せめて「面白いドラマ」を観るような、冷めた視線で眺めてみませんか?

 

答えが出ないこと、解決しないこと。 

 

それ自体が、私たちが今日も「社会」という名の、逃げ場のない迷路を生き抜いている証拠なのですから。✨

 

  他人の目に映る自分しか見えない現実

 

結局、私たちは
他人の目に映る自分を見ることしか出来ない
現実を生きているのかもしれない。

 

完全な自己完結なんて、この世界では成立しない。

だから先人たちは、
「自己完結した人間の価値」
見出だせなかったのだろう。

人は、関係の中でしか測られない存在だったから。

 シンプルフレーズ

人間関係が苦しいのは、相手がいるからじゃない。
離れられない場所に、一緒に居続けるからだ。