へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy -44ページ目

へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

。。。。。。。。。。

 

【詩篇102篇】o19  悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの


psm102:1  主よ。私の祈り を聞いてください。私の叫びが、あなたに届きますように。

psm102:2  私が苦しんでいるときに、御顔を 私に隠さないでください。私に耳を傾けてください。私が呼ぶときに、早く私に答えてください。

psm102:3  私の日は煙の中に尽き果て、私の骨は炉のように燃えていますから。

psm102:4  私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました。

psm102:5  私の嘆く声で私の骨と皮はくっついてしまいました。

psm102:6  私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています。

psm102:7  私はやせ衰えて、屋根の上のひとりぼっち の鳥のようになりました。

psm102:8  私の敵は一日中私をそしり、私をあざける者 は私を名ざして毒づきます。

psm102:9  これはみな、私が、パンを食べるように灰を食べ、私の飲み物に涙を混ぜ合わせたからです。

psm102:10  それはあなたの憤りと怒りとのゆえに、あなたが私を持ち上げ、投げ出されたからです。

psm102:11  私の日は、伸びていく夕影のようです。私は、青菜のようにしおれています。

psm102:12  しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。

psm102:13  あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。

psm102:14  まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます。

psm102:15  こうして、国々は主の御名を恐れ、地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。

psm102:16  なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ、

psm102:17  窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。

psm102:18  次のことが、後の時代のために書きしるされ、新しく造られる民が主を賛美しますように。

psm102:19  主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に 目を注がれました。

psm102:20  捕われ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。

psm102:21  人々が、主の名をシオンで語り、エルサレムで主を賛美するために。

psm102:22  また、国々の民や、王国が共に集められるとき、主に仕えるために。

psm102:23  主は私の力を道の途中で弱くされ、私の日数を短くされました。

psm102:24  私は申しました。「わが神よ。私の日の半ばに私を取り去らないでください。あなたの年は代々に至ります。

psm102:25  あなたははるか以前に地の基を 据えられました。天も、あなたの御手のわざです。

psm102:26  これらのものは 滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。

psm102:27  しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。

psm102:28  あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」


 

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おはようございます。

連休明けの週が終わります。随分と鈍った身体で大変だった方も多かったかな?


では、早速。

今日、僕の心に届いた言葉はコレ。

psm102:16  なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ、

psm102:17  窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。




悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの

今日の箇所は本当に気落ちしてる方の嘆きの祈りみたい。



そんな時、こんな告白が出来るかどうかが大切だ。

僕らには、選択の自由が与えられている。

今の問題も祈って解決をされた方がおられると未来完了で祈れるかどうか?



未来完了形。

僕らは未来完了形で祈ることができる。

何故なのか?

それは、僕らは過ごしている『 今 』というタイミングでしか生きてはいないけれども、

僕らの祈りを聴かれる方は、過去も将来も『 今 』というタイミングで生きられる方だからだ。


具体的に云うと・・・

僕らが苦しみ悩んで嘆いて祈る祈りは、神様が僕らに必要だと思ったら、その瞬間神様は叶えられる。

僕らには将来というタイミングかもしれないけれども。。僕らにベストなタイミングで。



僕らがそう告白できる為には

神様が僕らの必要を満たされる方だという事実を受け入れる事が必要なのかも。


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luk11:9  わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

luk11:10  だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

luk11:11  あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。

luk11:12  卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。

luk11:13  してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

・・・・・・・・・・

ここで、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。と記しているのは

この聖霊という神様と僕らを繋げる鍵。



僕らはその神様に本気で愛されている。






感情的には拒否してしまう状況でも

僕らはこの事実を知ることで、時を越えた神様が祈った瞬間叶えられる方だと信じるとき

僕らの口から未来完了形の祈りが生まれてくる。



それは、神様を信じることを選択したから。





僕らは、心が満たされていない状況でも、神様の実際を告白できる。

制限された肉体で物事を判断する事を放棄すれば・・・。


大丈夫。

僕らに与えられる聖霊は、肉体に制限されるものではなく

そのまま神様の心に繋がる素敵な命だから。




今日も大変な時を過ごすでしょう。

でも、この嘆かれた作者のように僕らも神様が将来される実際を告白できる。

泣きながらでも・・・ね。




肉体で制限された世界から解放され

真実を体験しながら、過ごすことが出来るよう祈ってますね。



今日も素敵な一日。

隠された素敵を捜しに今日も一緒にでかけましょう。


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16節「なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ・・」 (新改訳)


Keyword;「建てる、築く、再建する」build, build up,
51:18/69:35/78:9/89:2, 4/1-2:16, 118:22, 122:3, 127:1,1/147:2

「建てる」と訳されたバーナーבָּנָה(banah)は、旧約で379回、詩篇では12回使われています。このことばが聖書で初めて登場するのは創世記2章22節。「神が人から取ったあばら骨によってひとりの女に造り上げ(בָּנָה)」というところに使われています。これは神が人という存在を建て上げるためにしたことでした。つまり、男と女がその深い交わりを通して、神と人とのかかわりのいのちを繁栄させるためです。人はここに初めて「ふさわしい助け手」が与えられたのです。神は、神と人、人と人とのかかわりを建て上げることのできるお方です。


聖書には二つの「建て上げ」の系譜があります。一つは、カインが自分の犯した罪のゆえに主の前から去って、エデンの東ノデに住みつき、町を建てます(創4:17)。そして、自分で自分を建て上げようとする文明が始まっていきます。そして、「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名を上げよう。」(同、11:4)と呼びかけます。しかし、それに対して神は彼らのことばを混乱させてそれを阻止します。人間の力で建て上げていこうとする傾向は、神の民となるべく選ばれた者たちに対してもその誘惑が絶えずありました。たとえば、なかなか子どもが与えられなかったアブラハムの妻サラは自分の女奴隷ハガルによって、「私は子どもの母になれる(בָּנָה)」と考え、ハガルのところに入るように夫に勧めました(創16:2)。同じことをヤコブの最愛の妻ラケルもします(創30:3~8)。


もうひとつの系譜は、神によってすべてを建て上げていこうとする流れです。神がノアの時代、すべてをリセットすべく洪水を起こした後に、ノアは祭壇を築きます。この祭壇を「築く」という動詞にバーナーבָּנָהが使われています。祭壇を「築く」ことは、神を神として、神によって再建されるために自分のすべてを差し出すという礼拝行為です。この流れは、アブラハム(12:7, 8)、イサク(26:25)、ヤコブ(35:7)と引き継がれ、モーセへと引き継がれていきます。しかし神の民の歴史は祭壇を築くことをやめたことにより、自分のたちのよりどころであったシオンの町(エルサレム)を失いました。今や、神の民はバビロンにおいて悲痛なほどの試練の中から、再度、神がシオンを再建されることを確信するようになったのです。


神の家、主の家の再建は神の独占行為です。神の民の将来が保証されるのはただ神のみであるという信仰の光が灯されたのでした。それゆえ、この信仰は「後の時代のため」(後世の世代のため)に「書きしるされ」なければならなかったのです(詩篇102:18)。


「まことに神が・・・エルサレムの町々を建てられる。」(詩篇69:35)、「主はエルサレムを建て、イスラエルの追い散らされた者を集める」(詩篇147:2)、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」(詩篇127:1)・・も同じ思想をもった詩篇と言えます。


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さっき、見終わったんだけど僕のFacebookで記したもの。
http://www.facebook.com/#!/morita.makoto.3

嫌じゃなければ、是非友人申請お願いしますね~。



こんばんわ。
今テレビでは風の谷のナウシカ。
何故?今このタイミングで流れているのだろうか?テレビ局の中にも澄んだ心の人がいてるのかと独りで想像を膨らませながら見ている。人はどれ程無知なのだろうか?自らの小ささを理解する事も出来ずに。
この曲を聴いてみて。僕らが大切にすべきものが聴こえてくるかも。

http://www.yo.rim.or.jp/~tomte/puppet/onelove.htm

訳詩抜粋:
... 人には愛があり、心も備わっています
みんなで一緒にそれを感じましょう
子どもが泣いているのを聞いてください
愛と思いやりを教えられます
そして感謝して神様を称えましょう

自分の嫌なところを言いましょう
すべてをさらけ出してください
そこに愛と思いやりが訪れます
自分のためだけに人を傷つけることはないでしょう

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【詩篇101篇】o19  ダビデの賛歌


psm101:1  私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。

psm101:2  私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。

psm101:3  私の目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みます。それは私にまといつきません。

psm101:4  曲がった心は私から離れて行きます。私は悪を知ろうともしません。

psm101:5  陰で自分の隣人を そしる者 を、私は滅ぼします。高ぶる目と誇る心の者に、私は耐えられません。

psm101:6  私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。

psm101:7  欺く者は、私の家の中には住みえず、偽りを語る者は、私の目の前に堅く立つことができません。

psm101:8  朝ごとに、私は国の中の悪者をことごとく滅ぼします。それは主の都から、不法を行なう者をことごとく断ち切るためです。


 

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おはようございます。

5月最終の日曜には蛍狩りをほぼ決定しましたユテコです。

今回は和歌山の蛍の里?だったかな?結構不確かですが、ご興味のある方はメールを。。



では、早速ダビデさんの詩篇を。

今日、僕の心に留まった言葉はコチラ。

psm101:8  朝ごとに、私は国の中の悪者をことごとく滅ぼします。それは主の都から、不法を行なう者をことごとく断ち切るためです。




ま~ダビデさんは素晴らしい!!

僕らは、そうダビデさんを身近でない存在にしがちではないだろうか?

確かに此処で記されているダビデさんの思いは、今の僕らにはないかもしれない。



でも、この『 不法を行う者 』 をことごどく断ち切るという言葉をこう変えてみてはどうだろう?


『 サタン 』。




このブログを読まれている方は、忍耐強いと思わされる。

何故なら、通常教会ではあまり語られない サタン という名を連発するからね。

僕がサタンの存在を明確にし始めたのはこんな箇所から。


 

eps6:12  私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。



そして、

1cor9:26  ・・・・・ 空を打つような拳闘もしてはいません。



僕らの闘いは血肉のものではないと語られている。

空を打つような闘いもダメだよって云われている。





僕らはどちらの云う事にも、耳を傾ける事が出来ないようになっているのかもよ。


何故なら

僕らは直ぐに自分自身を責め、なんとかしなきゃと頑張る!!んだから。




その行動・思いは、正しいのだろうか?

もしかしたら、サタンに騙されているのかもしれない。



僕らはサタンの支配下にあり

僕らの肉体には、サタンの遺伝子が組み込まれたように引きずられるんだから。



でも、僕らの戦いは血肉ではない。





サタンは闘いを、自分自身にむけないよう

その責任はお前の肉体にある!心にある!お前の身体が原因!

そんな囁きによって僕らの心を誘導する。



空を打つような拳闘もしてはいません。




僕らは空を打つようにしむけられている。

制限された肉体には、見えることがないもんね。





僕らはダビデさんの様に戦うことが出来る。

心の中に囁くサタンへ僕らは目を向ける事が出来る。

自分に与えられた肉体や心に向けて責める事は止めてみませんか?




僕らの戦いは僕らの心に囁いてくる奴なのかも。

でも、戦いは肉体を持ったサタンの支配下の僕らだけでは無理。

だから、神様の領域に入って戦う備えをしないと・・・。

この話はまた今度。



では、今日も素敵な一日に

隠された素敵を探しに今日もでかけましょう。


では。

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【詩篇100篇】o19  感謝の賛歌


psm100:1  全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。

psm100:2  喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。

psm100:3  知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。

psm100:4  感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。

psm100:5  主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。


 

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おはようございます。

今日は、僕の生活を変えた言葉の一つを紹介。

僕の心に留まったこの言葉なのです。

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。




僕らは、神様の子供。

神様所有の牧場の羊のような存在だ。



サタンの支配する世界で、僕らは失望するだろうけど・・・。



本来のあるべき、僕らの場所に戻る事がなければ

僕らは神様の温もりを感じることなく、サタンに打ちひしがれるだろう。




今僕らが居てる場所は、神様の手が届かない場所。

サタンの支配するところだもんね。



神様の支配する場所へ移動しなくちゃ。

そこへの鍵は、感謝・そして賛美だ。



肉体に制限される心・感情に支配されるけれども

僕らは与えられている一つ一つを感謝する事が出来る。


感謝は神様を知らない方でも、誰でも出来ることから、多くの成功哲学の本にも記されている事だ。

しかし、それは神様の支配する門までしか行くことが出来ない。



完全に神様の支配下に入る為には 賛美しかない。

賛美とは、神様の実際を述べる事。




全てを創られた方によって、全てはなり

僕らはその方によって守られ、支えられている事実を告白する事。



僕ら自身が神様の愛の対象であり

サタンの声に従って滅ぼされる事の無いよう、ジーザスは身代わりとして死なれた事。



多くの問題の中でもモーセさん達を海を真っ二つに分けて助けたように、

僕らの問題も同じように解決しようとしてくださっている事実を告白する事。





賛美って、本当は誰でも出来る事。

サタンの支配下で、僕らは過ごす必要なんて全く無い。


感情を超えて

僕らは今日も神様の実際を口で告白して、神様の大庭の温もりを感じることが出来る。





今日もきっと素敵な一日。

隠された素敵を捜しに今日も感謝を数え、神様の実際を告白していけますように。


祈ってます。




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3節「知れ、主こそ神。主が、私たちを造られた。」(新改訳)
5節「主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。」

Keyword;「造る」 make

詩篇100篇には、下の図に見るように、神の民に呼びかける6つの動詞が登場します。命令のことばは7回(「入れ」が重複されているため)です。「(喜びの声を)上げよ」Make a joyful voice、「仕えよ」serve、「入れ」Enter(あるいはCome)、「知れ」Know、「(感謝のいけにえを)ささげよ」Give thanks、「ほめたたえよ」Bless

こうした礼拝用語を支えている恩寵に目を留める必要があります。命令は律法です。その律法を支え、内実のあるものにしていく神の恩寵がしっかりと語られています。

日本の聖書の訳ではそのところが明確に訳されていませんが、ヘブル語では、理由や根拠を表わす「キー」כִּיという接続詞が3節の「知れ」の後に、もう一箇所、5節の冒頭に置かれています。それによれば、神が如何なる方であるかという神の民の認識の度合いこそ、招きの行為を意味のあるものにすることができる構造になっています。

3節に「主が、私たちを造られた。私たちは主のもの」となっていますが、新改訳の脚注を見ると、「主が、私たちを造られた、私たちではない」という訳も可能であることを記しています。これは異なるヘブル語原典によるもので、いずれの訳も意味深いと思います。というのは、「主が、私たちを造られた」という事実によって私たちは神のもの(所有の民)となるわけですが、「私たちではない」とすることで、「造られた」のは私たちではなく、神であるということがより強調されるからです。「造られた」と訳されてる「アーサー」עָשָׂהは、存在としての創造も意味しますが、それに加えて、神と人とのかかわりの創造も含まれているように思います。つまり、神と人との関係が「羊飼い」と「羊の群れ」というかかわりとして造られたということです。

神は常に「良い方」'いつくしみ深い方)であり、ゆるぎない愛(恵み)と真実をもってかかわってくださるというこの詩篇の告白が神の民をしっかりと支えるとき、はじめてここにある呼びかけは力を持つことになると信じます。

聖霊の助けによって、主にある民としてのアイデンティティがいよいよ強くされていくように祈ります。

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【詩篇99篇】o19


psm99:1  主は王である。国々の民は恐れおののけ。主は、ケルビムの 上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。

psm99:2  主はシオンにおいて、大いなる方。主はすべての国々の民の上に高くいます。

psm99:3  国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。

psm99:4  王の力は、さばきを愛する。あなたは公正を堅く立てられた。あなたは、ヤコブの中で、さばきと正義を行なわれた。

psm99:5  われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。

psm99:6  モーセとアロンは主の祭司の中に、サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。

psm99:7  主は、雲の柱から 、彼らに語られた。彼らは、主のさとしと、彼らに賜わったおきてとを守った。

psm99:8  われらの神、主。あなたは、彼らに答えられた。あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。

psm99:9  われらの神、主をあがめよ。その聖なる山 に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。


 

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おはようございます。

今日は大阪は雨っぽい。 まだだけど。



では、今日もダビデさんの詩篇を。

僕の心に留まった言葉はコレ。

psm99:6  モーセとアロンは主の祭司の中に、サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。




彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。

彼らとは、祭司であり、特別に選ばれた人たちだった。

神様は特別にこの方達と話をし、必要な知恵をもってイスラエルの民を愛し守られた。



この特別な人を選ばなくていい時がある時から与えられた。

それをしたのが、ジーザス。



ジーザスは、僕ら一人一人が直接神様との関係を持てるようにされた。

どのように・・・。

それは、あの十字架に架かって。



ここの箇所は十字架で亡くなられる時を記したところ。

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mar15:37  それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた

mar15:38  神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。

mar15:39  イエスの正面に立っていた百人隊長 は、イエスがこのように息を引き取られた のを見て、「この方はまことに神の子であった。」言った。

・・・・・・・・・・



神殿の幕」からは、通常の人たちが入ってはならないとされていた場所。

それが、裂けた。

ジーザスが命を絶ったその時に。



それは、神の子であるジーザスが

肉体をもって、サタンの囁きによってズレる(罪を犯す)事の無かったジーザスが

僕ら肉体をもった一人一人の愛する全ての人が、神様との関係をもてるようになる為。




僕らは、全く怖れることなく

愛してくれる神様のもとに、直接近づけるようになった。



僕らは

モーセやアロン、サムエルさんと同じ神様に

直接お話が出来る。




ジーザスの身代わりの死によって

僕らのズレ(罪)の罰が無くなったから。



ジーザスが死なれたのはその為。

僕らが神様との関係をもう一度取り戻す為。




だから、神様はサタンの囁きに僕らが耳を傾けて欲しくないと願っている。

いつでも素敵な関係を神様が僕達と築いていたいと願ってるから。


神様は僕らを本気で愛している。

今日も問題の中でも、支えようとして共に居てくれる。





今日もそんな神様を感じながら過ごせますように。

隠された素敵を今日も一緒に捜しにでかけましょうね~。





いつもの注解はコチラから

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8節「・・あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。」(新改訳)

Keyword;「赦す」 forgive, 25:18/32:1, 5/99:8

8節には対極的な動詞があります。それは「赦す」という動詞と、「報いる」という動詞です。一般的に「赦す」の反対は、「さばく」と考えますが、旧約聖書の「さばき」はシャーファトで神のすべての統治用語を括る語彙です。したがって、詩99篇8節では、「赦す」ナーサーנָשָׂא(nasa’)の反対語は、「さばく」ではなく、「罰する、罰を下す、仕返しする、報いる、復讐する」と訳される動詞ナーカムנָקַם(naqam)が使われています。面白いことに、どちらも頭文字がヌン(נ)で始まっています。

「赦す」と訳されたナーサーנָשָׂא(nasa’)は、本来、手や目を上げる(rise up, lift up)、重荷を負う(bear)、荷物を持ち運ぶ(carry)という意味ですが、ここでは神が人の罪の重荷を負う、取り去ることから、「赦す」と訳されています。「赦す」の類義語には、サーラハסָלַח(salach)がありますが、こちらはほぼ「赦す」forgiveです。25:11/103:3参照。

神である王としての統治において、イスラエルの民はこの「赦し」を何度も経験したことにより、「赦しの神」と告白しています。と同時に、「彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。」とあります。これはどういうことでしょうか。

かつて出エジプトしたイスラエルの会衆が金の子牛を造って拝んだ事件の後、再び、シナイ山に登ったモーセに神がこう語りました。「主、主はあわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち。咎とそむきの罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者、父の咎は子に、子の子に三代、四代に。」(出34:6)と。

その後、約束の地へ斥候として遣わされた者たちの報告によって、全会衆はモーセとアロンに対して「エジプトの地で死んでいたらよかったのに」「荒野で死んだ方がましだ」「エジプトに帰ろう」などと口ぐちにつぶやきました。そのため、会衆に悪く言いふらした者たちは疫病で死に、ほかの者たちは40年間の荒野の放浪生活を余儀なくされました。それは自分たちの神に対する背信の罪を負う旅であり、ヨシュアとカレブを除く第一世代はその荒野で死に果てました。これが神に対する反抗の「報い」です。民は、赦されたにもかかわらず、荒野の放浪という罰は下されたのです。罰は罰ですが、これはある意味で神の民としての「訓練・懲らしめ」でもあります。

「赦す」ことと「正当な罰を下すこと」は、イエス・キリストの十字架の死においてクライマックスを迎えます。御子はその十字架において、私たちが性懲りもなくしでかした罪を一身に背負い、その当然の報いである刑罰を受けると同時に、「赦し」もなされたのです。不可解なことですが、このことによって神ご自身が「聖」であることを明らかに示されたのでした。

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