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psm99:1 主は王である。国々の民は恐れおののけ。主は、ケルビムの 上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。
psm99:2 主はシオンにおいて、大いなる方。主はすべての国々の民の上に高くいます。
psm99:3 国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。
psm99:4 王の力は、さばきを愛する。あなたは公正を堅く立てられた。あなたは、ヤコブの中で、さばきと正義を行なわれた。
psm99:5 われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。
psm99:6 モーセとアロンは主の祭司の中に、サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。
psm99:7 主は、雲の柱から 、彼らに語られた。彼らは、主のさとしと、彼らに賜わったおきてとを守った。
psm99:8 われらの神、主。あなたは、彼らに答えられた。あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。
psm99:9 われらの神、主をあがめよ。その聖なる山 に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。
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おはようございます。
今日は大阪は雨っぽい。 まだだけど。
では、今日もダビデさんの詩篇を。
僕の心に留まった言葉はコレ。
psm99:6 モーセとアロンは主の祭司の中に、サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。
彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。
彼らとは、祭司であり、特別に選ばれた人たちだった。
神様は特別にこの方達と話をし、必要な知恵をもってイスラエルの民を愛し守られた。
この特別な人を選ばなくていい時がある時から与えられた。
それをしたのが、ジーザス。
ジーザスは、僕ら一人一人が直接神様との関係を持てるようにされた。
どのように・・・。
それは、あの十字架に架かって。
ここの箇所は十字架で亡くなられる時を記したところ。
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mar15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた 。
mar15:38 神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
mar15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長 は、イエスがこのように息を引き取られた のを見て、「この方はまことに神の子であった。」言った。
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「神殿の幕」からは、通常の人たちが入ってはならないとされていた場所。
それが、裂けた。
ジーザスが命を絶ったその時に。
それは、神の子であるジーザスが
肉体をもって、サタンの囁きによってズレる(罪を犯す)事の無かったジーザスが
僕ら肉体をもった一人一人の愛する全ての人が、神様との関係をもてるようになる為。
僕らは、全く怖れることなく
愛してくれる神様のもとに、直接近づけるようになった。
僕らは
モーセやアロン、サムエルさんと同じ神様に
直接お話が出来る。
ジーザスの身代わりの死によって
僕らのズレ(罪)の罰が無くなったから。
ジーザスが死なれたのはその為。
僕らが神様との関係をもう一度取り戻す為。
だから、神様はサタンの囁きに僕らが耳を傾けて欲しくないと願っている。
いつでも素敵な関係を神様が僕達と築いていたいと願ってるから。
神様は僕らを本気で愛している。
今日も問題の中でも、支えようとして共に居てくれる。
今日もそんな神様を感じながら過ごせますように。
隠された素敵を今日も一緒に捜しにでかけましょうね~。
いつもの注解はコチラから
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http://meigata-bokushinoshosai.info/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs99
8節「・・あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。」(新改訳)
Keyword;「赦す」 forgive, 25:18/32:1, 5/99:8
8節には対極的な動詞があります。それは「赦す」という動詞と、「報いる」という動詞です。一般的に「赦す」の反対は、「さばく」と考えますが、旧約聖書の「さばき」はシャーファトで神のすべての統治用語を括る語彙です。したがって、詩99篇8節では、「赦す」ナーサーנָשָׂא(nasa’)の反対語は、「さばく」ではなく、「罰する、罰を下す、仕返しする、報いる、復讐する」と訳される動詞ナーカムנָקַם(naqam)が使われています。面白いことに、どちらも頭文字がヌン(נ)で始まっています。
「赦す」と訳されたナーサーנָשָׂא(nasa’)は、本来、手や目を上げる(rise up, lift up)、重荷を負う(bear)、荷物を持ち運ぶ(carry)という意味ですが、ここでは神が人の罪の重荷を負う、取り去ることから、「赦す」と訳されています。「赦す」の類義語には、サーラハסָלַח(salach)がありますが、こちらはほぼ「赦す」forgiveです。25:11/103:3参照。
神である王としての統治において、イスラエルの民はこの「赦し」を何度も経験したことにより、「赦しの神」と告白しています。と同時に、「彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。」とあります。これはどういうことでしょうか。
かつて出エジプトしたイスラエルの会衆が金の子牛を造って拝んだ事件の後、再び、シナイ山に登ったモーセに神がこう語りました。「主、主はあわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち。咎とそむきの罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者、父の咎は子に、子の子に三代、四代に。」(出34:6)と。
その後、約束の地へ斥候として遣わされた者たちの報告によって、全会衆はモーセとアロンに対して「エジプトの地で死んでいたらよかったのに」「荒野で死んだ方がましだ」「エジプトに帰ろう」などと口ぐちにつぶやきました。そのため、会衆に悪く言いふらした者たちは疫病で死に、ほかの者たちは40年間の荒野の放浪生活を余儀なくされました。それは自分たちの神に対する背信の罪を負う旅であり、ヨシュアとカレブを除く第一世代はその荒野で死に果てました。これが神に対する反抗の「報い」です。民は、赦されたにもかかわらず、荒野の放浪という罰は下されたのです。罰は罰ですが、これはある意味で神の民としての「訓練・懲らしめ」でもあります。
「赦す」ことと「正当な罰を下すこと」は、イエス・キリストの十字架の死においてクライマックスを迎えます。御子はその十字架において、私たちが性懲りもなくしでかした罪を一身に背負い、その当然の報いである刑罰を受けると同時に、「赦し」もなされたのです。不可解なことですが、このことによって神ご自身が「聖」であることを明らかに示されたのでした。
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