。。。。。。。。。。
【詩篇100篇】o19 感謝の賛歌
psm100:1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
psm100:2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
psm100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
psm100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
psm100:5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。
。。。。。。。。。。
おはようございます。
今日は、僕の生活を変えた言葉の一つを紹介。
僕の心に留まったこの言葉なのです。
感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
僕らは、神様の子供。
神様所有の牧場の羊のような存在だ。
サタンの支配する世界で、僕らは失望するだろうけど・・・。
本来のあるべき、僕らの場所に戻る事がなければ
僕らは神様の温もりを感じることなく、サタンに打ちひしがれるだろう。
今僕らが居てる場所は、神様の手が届かない場所。
サタンの支配するところだもんね。
神様の支配する場所へ移動しなくちゃ。
そこへの鍵は、感謝・そして賛美だ。
肉体に制限される心・感情に支配されるけれども
僕らは与えられている一つ一つを感謝する事が出来る。
感謝は神様を知らない方でも、誰でも出来ることから、多くの成功哲学の本にも記されている事だ。
しかし、それは神様の支配する門までしか行くことが出来ない。
完全に神様の支配下に入る為には 賛美しかない。
賛美とは、神様の実際を述べる事。
全てを創られた方によって、全てはなり
僕らはその方によって守られ、支えられている事実を告白する事。
僕ら自身が神様の愛の対象であり
サタンの声に従って滅ぼされる事の無いよう、ジーザスは身代わりとして死なれた事。
多くの問題の中でもモーセさん達を海を真っ二つに分けて助けたように、
僕らの問題も同じように解決しようとしてくださっている事実を告白する事。
賛美って、本当は誰でも出来る事。
サタンの支配下で、僕らは過ごす必要なんて全く無い。
感情を超えて
僕らは今日も神様の実際を口で告白して、神様の大庭の温もりを感じることが出来る。
今日もきっと素敵な一日。
隠された素敵を捜しに今日も感謝を数え、神様の実際を告白していけますように。
祈ってます。
・・・・・・・・・・
http://meigata-bokushinoshosai.info/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs100
3節「知れ、主こそ神。主が、私たちを造られた。」(新改訳)
5節「主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。」
Keyword;「造る」 make
詩篇100篇には、下の図に見るように、神の民に呼びかける6つの動詞が登場します。命令のことばは7回(「入れ」が重複されているため)です。「(喜びの声を)上げよ」Make a joyful voice、「仕えよ」serve、「入れ」Enter(あるいはCome)、「知れ」Know、「(感謝のいけにえを)ささげよ」Give thanks、「ほめたたえよ」Bless
こうした礼拝用語を支えている恩寵に目を留める必要があります。命令は律法です。その律法を支え、内実のあるものにしていく神の恩寵がしっかりと語られています。
日本の聖書の訳ではそのところが明確に訳されていませんが、ヘブル語では、理由や根拠を表わす「キー」כִּיという接続詞が3節の「知れ」の後に、もう一箇所、5節の冒頭に置かれています。それによれば、神が如何なる方であるかという神の民の認識の度合いこそ、招きの行為を意味のあるものにすることができる構造になっています。
3節に「主が、私たちを造られた。私たちは主のもの」となっていますが、新改訳の脚注を見ると、「主が、私たちを造られた、私たちではない」という訳も可能であることを記しています。これは異なるヘブル語原典によるもので、いずれの訳も意味深いと思います。というのは、「主が、私たちを造られた」という事実によって私たちは神のもの(所有の民)となるわけですが、「私たちではない」とすることで、「造られた」のは私たちではなく、神であるということがより強調されるからです。「造られた」と訳されてる「アーサー」עָשָׂהは、存在としての創造も意味しますが、それに加えて、神と人とのかかわりの創造も含まれているように思います。つまり、神と人との関係が「羊飼い」と「羊の群れ」というかかわりとして造られたということです。
神は常に「良い方」'いつくしみ深い方)であり、ゆるぎない愛(恵み)と真実をもってかかわってくださるというこの詩篇の告白が神の民をしっかりと支えるとき、はじめてここにある呼びかけは力を持つことになると信じます。
聖霊の助けによって、主にある民としてのアイデンティティがいよいよ強くされていくように祈ります。
・・・・・・・・・・