へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy -45ページ目

へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

。。。。。。。。。。

 

【詩篇98篇】o19  賛歌


psm98:1  新しい歌 を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。

psm98:2  主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた

psm98:3  主はイスラエルの家 への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果て までもが、みな、われらの神の救いを見ている。

psm98:4  全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。

psm98:5  立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。

psm98:6  ラッパと角笛の音に合わせて、主である王の御前で喜び叫べ。

psm98:7  海と、それに満ちているもの。世界と、その中に住むものよ。鳴りとどろけ。

psm98:8  もろもろの川よ。手を打ち鳴らせ。山々も、こぞって主の御前で喜び歌え

psm98:9  確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。


 

。。。。。。。。。。


おはようございます。

GW後の仕事なじみました?やはり・・・負荷はかかりますね。


では、早速ダビデさんの詩篇を。

僕が今日心に留まったのはこの言葉。

新しい歌 を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。





奇しいわざ。

奇しいわざをなさったタイミングは、いつだと考えてみたらどうかとフと思わされた。



時を越えた神様からすれば、全てが 『 今 』。

僕ら時間に制約されている側からすれば、それは過去であり、将来であったり・・・であっても。ね。



僕らに問題があっても、

神様に祈る時、本当に僕らの幸せに繋がるならば、神様はその事を聞いて奇しいわざを成される。

奇しいわざは、僕らにとっては将来だけど、神様にとっては『 今 』。

既にその時に叶えてくれてるって事。



だったら。

だったら、問題が解決されていない今でさえも、既に『 将来 』解決させて貰ってるって事。





不思議な真実やよね。







だから、僕らは、

いつでも将来に祈りを利かれた神様に感謝をする事が出来る。


賛美も。




だから、僕らは問題に出会って解決されていない今でも

感謝をささげ、賛美をする事が出来る。




新しい賛美。

僕らにとっては、未だ見ぬ将来の賛美をも。ね。






僕らは、制限された肉体によって考え・思いにも制限が加えられている。

でも、

僕らは本当の命。神様から与えられた神様と繋がる『 (永遠の命)霊 』によって僕らは制限を解除される。

だから

ダビデさんの様に過去を・・・将来を感謝をし

問題のある今を感情を越えて、過ごす事を選ぶ事ができる。





僕らは選べる。

制限を感じる世界に生きながら、神様に僕らはつながる事が出来るから。




サタンの囁きを聴いてウロウロする必要はもうないかも・・・。

全てを超えて僕らと共に居てくれる神様が僕らを愛してくれているから。



大丈夫。





では、

今日も隠された素敵な出来事を数えて

また

見えない解決される神様の奇しいわざを感謝しながら過ごせますように。

。。。。。。。。。。

 

【詩篇97篇】o19


psm97:1  主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。

psm97:2  雲と暗やみが主を取り囲み、義とさばきが御座の基である。

psm97:3  火は御前に先立って行き主を取り囲む敵を焼き尽くす。

psm97:4  主のいなずまは世界を照らし、地は見て、おののく。

psm97:5  山々は主の御前に、ろうのように溶けた。全地の主の御前に。

psm97:6  天は主の義を告げ、すべての国々の民は主の栄光を見る。

psm97:7  偶像に仕える者むなしいもの誇りとする者 は、みな恥を見よう。すべての神々よ。主にひれ伏せ。

psm97:8  シオンは聞いて、喜び、ユダの娘たちも、こおどりしました。主よ。あなたのさばきのために。

psm97:9  まことに主よ。あなたは全地の上に、すぐれて高い方。すべての神々をはるかに抜いて、高きにおられます。

psm97:10  主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちの いのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。

psm97:11  光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。

psm97:12  正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。

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おはようございます。

ゴールデンウィークも終わり、今日からスタートされる方が多いと思いますがどうですか?

気合を入れて・・・って人多そうだよね。僕もその内の一人。


では、気合を入れるために、今日もダビデさんの詩篇を。。

僕の心に留まった言葉はコチラ。

psm97:11  光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。





正しい者ってだれだろう?

心の直ぐな人って誰だろう?



どうも、この二つの言葉が引っかかる。

それは、どう考えても僕自身とは程遠いからだ。




バイブルには正しい人なんて居ないとも記されている。

全ての人が罪(ズレ)人だって。


罪=悪い事

って僕らはそんなイメージを持つ。けど、本来はそうじゃない。

罪=ズレてる

って意味が正しい。



だから、駅に向かって線路が敷いてあるんだけど

その線路がほんの一センチだけ右にズレたとしても、数十キロ離れれば駅からは程遠くなってしまう。

サタンはほんの少しづつ僕らをズラす。

バイブルで記されている正しさ、心が直ぐだとは、ズレない事を示しているようだ。

光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。



そう考えたら、

ズレない線路に乗せて貰えばいい。


ズレない線路とはジーザスであり、バイブルの言葉。

そこに光が、喜びが溢れているに違いない。






僕らはいつでもズレる存在だ。

いくら頑張っても肉体に制限されてる僕らはいつの間にか騙されちゃうものだ。

だから、気づく事が大切。

僕らは気づく事が出来る。



気づいた時、僕らは何を選ぶのか?

ズレない線路に乗り換えないと、神様が僕らに備えられた喜びには触れる事が出来なくなる。



気づく事。




本当は気付かされているのかもしれない。

もう、コッチに戻っておいでって・・・。神様にね。





では、

今日も神様が備えられた素敵な一日。

隠された素敵な出来事を数える為に一緒にでかけましょうね。




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11節「神に従う人のためには光を 心のまっすぐな人のためには喜びを種蒔いてくださる。」(新共同訳)
11節「光は、正しい者のために種のように蒔かれている。喜びは心の直ぐな人のために。」(新改訳)

Keyword;「(種を)蒔く」 sow, 97:11/107:37/126:5

光や喜びを種のように「蒔く」と訳されたザーラーזָרַע(zara`)は、旧約で56回、詩篇では3回のみです。そのうちのひとつ詩126篇5節では「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」とあります。ここでの「種」とは、神のみことば(トーラー)を意味します。しかも主語は神ではなく人です。神の民はバビロン捕囚という憂き目を経験しながらも、彼らはそこで神のことばにしっかりと向き合い、その確かさ、豊かさ、恩寵を見出したのでした。そしてそれがやがて詩篇1篇2節にあるように、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずざむ」というライフ・スタイルを生み出しました。彼らは自ら蒔いたものを刈り取ったのです。その間、70年という歳月が流れました。

ちなみに、名詞形のゼラーזֶרַע(zara`)は、「子孫」を意味します。旧約230回、詩篇では18回です(ただし126篇6節のみ「種入れ」と訳されています)。

さて、この詩97篇11節は神の国(神の支配、神の統治)が到来する終末に向けた預言的な表現です。光と喜びが、種のように蒔かれているとはどういうことか。王である神の支配をやがて完全な形で現わされる時がまさに刈り入れの時だとすれば、すでにその種は蒔かれていたということになります。どこに、だれのために蒔かれているのかといえば、それは「正しい者」たちの心にです。詩篇97篇のことばで換言するならば、「シオン」「ユダの娘たち」「主を愛する者たち」「聖徒たち」「心の直ぐな人」たちてす。いうなれば、神に贖われた者たちの心の中に蒔かれています。

ここでいう「光」(オールאוֹר)とは、光源としての光ではなく、おそらく、神との交わりとしてのいのちの光を意味すると思います。あるいは啓示の光、悟りの光、愛の光とも言えます。それが神に贖われた者のうちに種のように蒔かれているのです。

一方の「喜び」(サーマハשָׂמָח)も、感情的な喜びというよりは、イエスのいう「わたしの喜び」であり、この世の喜びではありません。また弟子たちに「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われたように、いつも神に覚えられているという存在論的な意味での喜びを意味していると思います。

イエスの語った「種蒔く人のたとえ話」で、良い地に落ちた「種」はやがて30倍、60倍、百倍の実を結ぶと言われたように、まことの王がその主権を完全に顕にする時、私たちの思いをはるかに超えた刈り入りの時、収穫の時が来ることを待ち望みたいと思います。


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【詩篇96篇】o19


psm96:1  新しい歌 を主に歌え。全地よ。主に歌え。

psm96:2  主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

psm96:3  主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。

psm96:4  まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。

psm96:5  まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。

psm96:6  尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。

psm96:7  国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。

psm96:8  御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、主の大庭にはいれ。

psm96:9  聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。全地よ。主の御前に、おののけ。

psm96:10  国々の中で言え。「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」

psm96:11  天は喜び、地は 、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。

psm96:12  野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。

psm96:13  確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。

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おはようございます。

昨日、一昨日は少しサボってました。ゴメンなさい。


ゴールデンウィークいかがお過ごしですか?

お休みを取れない方も多いと思いますが、休息はやはり必要ですね。



今日、僕の心に留まった言葉はコレ。

psm96:8  御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、主の大庭にはいれ。




でましたね。僕がいつも気になる言葉。『 主の大庭 』

それにしても、ささげ物ってなんだろう?


ささげ物は『コルバン』と云われ

近づく 」「近づける」「近づかせる 」と言う意味がある。ささげものは「主に対して」だけであることが強調されていることから、「神と民との交わり 」を表わしている。との事だ。


確か、礼拝も『プロ・スクネオ』という言葉で

意味は:近づいて・キスをする。っていう意味だと知って驚いた記憶がある。

子供を呼んで、キスをしてって云ってる親のようなイメージが初めて湧いてきた。不思議だった。




ささげ物って、なんや神様もオイラ達に徴収を課すんのかい?

って思ってたことがあった。

でも、この解説を見る限りでは全くそんな事は感じられない。




近くにおいでな!って・・・招かれているだけのような気がしてならない。



皆さんはどう感じられますか?

神様が近づいてって云われる『主の大庭』を体感されてはどうでしょう?



僕らは神様の支配のエリアに入るのか?

それともサタンの支配しているエリアに留まるのか選択が委ねられている。


あえて

サタンを選ぶ人は居ないだろうと思うけど、現状に留まるって事はソレを選択してるって事だと気付く必要がある。






神様は今日も『近づいて』 『主の門』に入っておいでと招かれている。




後は、僕らの決断だ。







今日も神様が用意された素敵な一日。

隠された素敵な事を数えながら、今日も一緒にでかけましょうね。




いつもの参照サイトはコチラ。

http://meigata-bokushinoshosai.info/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs96

3節「確かに、地をさばく(שָׁפַט)ために来られる。主は、義をもって世界をさばき(שָׁפַט)、その真実をもって国々の民をさばかれる(שָׁפַט)。」(新改訳)


王の詩篇と言われる93~99篇の一連の詩篇の中に貫いている思想は、王である主の職務が「さばく」ということです。王の統治が正しいさばきによってなされることは、私たちにとって恩寵なのです。しかも、公正をもって、義をもって、真実をもって、そして愛をもって。

  • 最初の詩93篇では、
    特に、王である主の風格が宣言されているのが特徴ですが、同時に、「王の御座はいにしえから堅く立ち」 (2節)、その御座は「さばき」の御座であることが、続く詩篇の中で明らかにされていきます。

  • 詩94篇2節では、
    ①「地をさばく(שָׁפַט)方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。」
    ①「全地の裁き手として立ち上がり」(新共同訳)
    と嘆願の祈りがなされています。
  • また、19節では、
    ②「さばき(מִשְׁפָּט)は再び義に戻り、心の直ぐな人はみな、これに従うでしょう。」
    ②「正しい裁きは再び確立し、心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう。」(新共同訳)

  • 詩95篇では、さばきを表わす語彙はありませんが、荒野の40年間、贖われた民の第一世代が「心の迷う民、わたしの道を知ろうとしない民」に対して、怒って誓ったことば「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」が記されています。

  • 詩96篇10節後半の
    ①「主は公正をもって国々の民をさばく(דִּין)。」(新改訳)
    同篇の13節
    ②「確かに、地をさばく(שָׁפַט)ために来られる。主は、義をもって世界をさばき(שָׁפַט)、その真実をもって国々の民をさばかれる(שָׁפַט)。」(新改訳)
    詩篇96篇では、特に、主が、地を(諸国の民を)さばくために「来られる」ということが強調されている。

  • 詩97篇
    ①2節後半
    「義とさばき(מִשְׁפָּט)が御座の基である。」(新改訳)
    「正しい裁きが王座の基をなす」(新共同訳)
    ②同節、8節
    「シオンは聞いて、喜び、ユダの娘たちも、こおどりしました。主よ。あなたのさばき(מִשְׁפָּט)のために。」

  • 詩98篇
    9節「確かに、主はさばき(שָׁפַט)のために来られる。主は義をもって世界をさばき(שָׁפַט)、公正をもって国々の民を、さばかれる(שָׁפַט)。」

  • 詩99篇
    4節「王の力は、さばき(מִשְׁפָּט)を愛する。・・あなたは、ヤコブの中で、さばき(מִשְׁפָּט)と正義を行われた。」

このように、王としての職務は正しく、公平に、真実をもって「さばく」ことにあります。
ソロモンがギブオンで王として即位したとき、主は夢の中で彼に現われ「あなたになにを与えようか。願え。」と仰せられました。ソロモンは「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」と言いました。この願い事は主の御心にかなったと記されています。

ソロモンに与えられたさばきの知恵は、ふたりの遊女の訴えをさばいた話(列王記第一、3章16~27節)―「どちらが本当の母親か」ーによく描かれています。





讚美歌 291番

主に任せよ汝が身を
主は喜び助けまさん
しのびて春を待て
雪はとけて花は咲かん
あらしにもやみにも
ただ任せよ汝が身を

主に任せよ汝が身を
主は喜び助けまさん
なやみは強くとも
み恵みには勝つを得じ
まことなる主の手に
ただ任せよ汝が身を


何にも云えませんが。。祈ってます。

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【詩篇95篇】o19


psm95:1  さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。

psm95:2  感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。

psm95:3  主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。

psm95:4  地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。

psm95:5  海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。

psm95:6  来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。

psm95:7  主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら

psm95:8  メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなに してはならない。

psm95:9  あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。

psm95:10  わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい 、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。《と。

psm95:11  それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。《と。


 

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5節「海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。」
6節「来たれ。・・私たちを造られた方。」

Keyword;「造る」  do, make,

  • ヘブル語では「創造する、造る」ということばにバーラーבָּרָא(bara')があります。創世記の1章1節の「初めに、神が天と地を創造した。」で使われています。バーラーבָּרָא(bara')は全く存在しないところから有を生じさせる動詞です。しかし、詩95篇で使われている三つの「造られた」という動詞はすべてアーサーעָשָׂה(`asah)です。
  • この動詞も神の創造の行為として使われます。たとえば、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった」(創1:31)、「主は天と地を造られた方である」(詩115:1)など。また、私たちに対する様々な行為を現わす動詞、たとえば、「神である主は、アダムとエバ妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創3:21)、「エジプトで大いなることをなさった方」(詩106:21)、「主の右の手は力ある働きをする」(詩118:15~16)、「主はその望むところをことごとく行われる」(詩115:3)などに使われています。
  • このアーサーעָשָׂהが私たちのためになされるとき、それは恩寵用語となります。かつて私はあることで信仰の危機を感じたことがありました。自分の惨めさのゆえに希望を持てないで苦しんでいた時がありました。そんな時、ある歌を歌いながら神の慰めの力を感じたのです。その歌とは以下のように力強い神への告白を歌っているものでした。
  • 主は道を日々造られる  何もないように思えるときでも 
    主は御手で 御許で支え 新しい明日を 主は道を造られる
    天と地が滅び失せても  主のみことば 滅びず
    荒野に道を 砂漠に川を 今日も造られる 

    (Don Moen “God Will Make A Way”)

  • はからずも、この歌詞にも「造られた」ということばがあります。英語でGod will make a wayです。主が造られたのは「荒野における道」「砂漠における川」です。そして今もその神の恩寵の行為は継続しているのです。この歌の出典はおそらくイザヤ書43:19からのもと思われます。「見よ。わたしは新しいことをする(עָשָׂה)。今、それが起ころうとしている。」と宣言されて、「荒野に道を、荒地に川を設ける」と約束されています。
  • 神の恩寵的な創造の行為は、私たちに希望を与えます。それゆえ神を待ち望むことができるのです。詩95篇は礼拝とはいかなることであるかを私たちに教えている詩篇です。そこにある「主が・・を造られた」という宣言は、神が、単に、自然界や私たちを造られたという静的なイメージではなく、常に、私たちとかかわり、みこころを実現させていくところの神の創造的・恩寵的行為をなされる「行動の神」であるとの告白なのです。