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psm97:1 主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。
psm97:2 雲と暗やみが主を取り囲み、義とさばきが御座の基である。
psm97:3 火は御前に先立って行き主を取り囲む敵を焼き尽くす。
psm97:4 主のいなずまは世界を照らし、地は見て、おののく。
psm97:5 山々は主の御前に、ろうのように溶けた。全地の主の御前に。
psm97:6 天は主の義を告げ、すべての国々の民は主の栄光を見る。
psm97:7 偶像に仕える者 、むなしいもの を誇りとする者 は、みな恥を見よう。すべての神々よ。主にひれ伏せ。
psm97:8 シオンは聞いて、喜び、ユダの娘たちも、こおどりしました。主よ。あなたのさばきのために。
psm97:9 まことに主よ。あなたは全地の上に、すぐれて高い方。すべての神々をはるかに抜いて、高きにおられます。
psm97:10 主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちの いのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。
psm97:11 光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。
psm97:12 正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。
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おはようございます。
ゴールデンウィークも終わり、今日からスタートされる方が多いと思いますがどうですか?
気合を入れて・・・って人多そうだよね。僕もその内の一人。
では、気合を入れるために、今日もダビデさんの詩篇を。。
僕の心に留まった言葉はコチラ。
psm97:11 光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。
正しい者ってだれだろう?
心の直ぐな人って誰だろう?
どうも、この二つの言葉が引っかかる。
それは、どう考えても僕自身とは程遠いからだ。
バイブルには正しい人なんて居ないとも記されている。
全ての人が罪(ズレ)人だって。
罪=悪い事
って僕らはそんなイメージを持つ。けど、本来はそうじゃない。
罪=ズレてる
って意味が正しい。
だから、駅に向かって線路が敷いてあるんだけど
その線路がほんの一センチだけ右にズレたとしても、数十キロ離れれば駅からは程遠くなってしまう。
サタンはほんの少しづつ僕らをズラす。
バイブルで記されている正しさ、心が直ぐだとは、ズレない事を示しているようだ。
光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。
そう考えたら、
ズレない線路に乗せて貰えばいい。
ズレない線路とはジーザスであり、バイブルの言葉。
そこに光が、喜びが溢れているに違いない。
僕らはいつでもズレる存在だ。
いくら頑張っても肉体に制限されてる僕らはいつの間にか騙されちゃうものだ。
だから、気づく事が大切。
僕らは気づく事が出来る。
気づいた時、僕らは何を選ぶのか?
ズレない線路に乗り換えないと、神様が僕らに備えられた喜びには触れる事が出来なくなる。
気づく事。
本当は気付かされているのかもしれない。
もう、コッチに戻っておいでって・・・。神様にね。
では、
今日も神様が備えられた素敵な一日。
隠された素敵な出来事を数える為に一緒にでかけましょうね。
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11節「神に従う人のためには光を 心のまっすぐな人のためには喜びを種蒔いてくださる。」(新共同訳)
11節「光は、正しい者のために種のように蒔かれている。喜びは心の直ぐな人のために。」(新改訳)
Keyword;「(種を)蒔く」 sow, 97:11/107:37/126:5
光や喜びを種のように「蒔く」と訳されたザーラーזָרַע(zara`)は、旧約で56回、詩篇では3回のみです。そのうちのひとつ詩126篇5節では「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」とあります。ここでの「種」とは、神のみことば(トーラー)を意味します。しかも主語は神ではなく人です。神の民はバビロン捕囚という憂き目を経験しながらも、彼らはそこで神のことばにしっかりと向き合い、その確かさ、豊かさ、恩寵を見出したのでした。そしてそれがやがて詩篇1篇2節にあるように、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずざむ」というライフ・スタイルを生み出しました。彼らは自ら蒔いたものを刈り取ったのです。その間、70年という歳月が流れました。
ちなみに、名詞形のゼラーזֶרַע(zara`)は、「子孫」を意味します。旧約230回、詩篇では18回です(ただし126篇6節のみ「種入れ」と訳されています)。
さて、この詩97篇11節は神の国(神の支配、神の統治)が到来する終末に向けた預言的な表現です。光と喜びが、種のように蒔かれているとはどういうことか。王である神の支配をやがて完全な形で現わされる時がまさに刈り入れの時だとすれば、すでにその種は蒔かれていたということになります。どこに、だれのために蒔かれているのかといえば、それは「正しい者」たちの心にです。詩篇97篇のことばで換言するならば、「シオン」「ユダの娘たち」「主を愛する者たち」「聖徒たち」「心の直ぐな人」たちてす。いうなれば、神に贖われた者たちの心の中に蒔かれています。
ここでいう「光」(オールאוֹר)とは、光源としての光ではなく、おそらく、神との交わりとしてのいのちの光を意味すると思います。あるいは啓示の光、悟りの光、愛の光とも言えます。それが神に贖われた者のうちに種のように蒔かれているのです。
一方の「喜び」(サーマハשָׂמָח)も、感情的な喜びというよりは、イエスのいう「わたしの喜び」であり、この世の喜びではありません。また弟子たちに「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われたように、いつも神に覚えられているという存在論的な意味での喜びを意味していると思います。
イエスの語った「種蒔く人のたとえ話」で、良い地に落ちた「種」はやがて30倍、60倍、百倍の実を結ぶと言われたように、まことの王がその主権を完全に顕にする時、私たちの思いをはるかに超えた刈り入りの時、収穫の時が来ることを待ち望みたいと思います。
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