へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy -35ページ目

へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

。。。。。。。。。。

 

【詩篇121篇】o19  都上りの歌


psm121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助け は、どこから来るのだろうか。

psm121:2  私の助け は、天地を造られた 主から来る

psm121:3  主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。

psm121:4  見よ。イスラエルを守る方 は、まどろむこともなく、眠ることもない。

psm121:5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰

psm121:6  昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。

psm121:7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

psm121:8 主は、あなたを、行く にも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。


 

。。。。。。。。。。


おはようございます。

今日はまた極端に気温が下がりましたね。

体調十分気をつけていきましょうね。



では早速ともに詩篇を。

僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm121:7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

psm121:8 主は、あなたを、行く にも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。


 




僕らをどうしても守りたい。

神様は本気で僕らが大好きで大好きでたまらない。



だから

心配しないで。。




今日僕らが行く時にも変える時にも

神様は一緒に居て力強い御手で僕らを守ると約束している。


それも

まどろむ(眠ったりする)事なく・・・ね。




どんだけ

大変な状況でも大丈夫。

目を上げて神様~って叫んでみよう。

言葉に発するという事は、信じて行動に移すという一つのアクションだから。


神様はそれを喜ばれる。

例え小さな声でも。。。ね。




今日、声を発してみませんか。

小さな声でも 良いんだから。。

僕らの小さな小さなアクション!!を喜んで支えてくださるんだから。ね。



今日も神様が用意された素敵な一日。

隠された素敵を捜しに今日も一緒にでかけましょうね。

。。。。。。。。。。

 

【詩篇120篇】o19  都上りの歌


psm120:1  苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた。

psm120:2  主よ。私を偽りのくちびる、欺きの舌から、救い出してください。

psm120:3  欺きの舌よ。おまえに何が与えられ、おまえに何が加えられるのか。

psm120:4  勇士の鋭い矢、それに、えにしだの熱い炭火だ。

psm120:5  ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。

psm120:6  私は、久しく、平和を憎む者とともに住んでいた。

psm120:7  私は平和を――、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

昨日の台風は大変だったですね。

早速詩篇をともに。



今日僕の心の留まったのは、こんな言葉。

psm120:1  苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた。



よく記されている言葉ですが、再度おさらい。

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http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E7%A4%BC%E6%8B%9D%E7%94%A8%E8%AA%9EPs4

  • カーラーקָרָא(qara’)は「呼ぶ」「呼び求める」、呼びかけるだけでなく「訴える、叫ぶ、会う、向き合う、告げる、出会う、出迎える、となえる、名づける、招く、召す、召し集める、召し寄せる・・」などの意味があります。誰に向って訴えるのか、誰に向って叫ぶのか、誰に向って呼び求めるのか、そこが重要なポイントです。「私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」・・この「主」との呼応関係こそ、永遠のいのちと言われるものです。
    このカーラーקָרָא(qara')は、旧約で733回、そのうち詩篇では57回使われています。

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んで、こんな言葉も

psm120:2  主よ。私を偽りのくちびる、欺きの舌から、救い出してください。

psm120:3  欺きの舌よ。おまえに何が与えられ、おまえに何が加えられるのか。




なんか変だよね。



やっぱり何か変。。。




でも、

少し経験があるような・・・。自分がしたくないと思ってるのにヤッちゃう事って。

・・・ね。

言っちゃダメだと思いながらも自分を守る為に嘘をついたり・・・。そんな記憶ない?



悲しいかな僕にはこんな経験は山ほどある。。




僕らは自分の意志でコントロールできない身体と一体だ。

勿論身体だけではなく心もろくに管理できる立派な人は少ない。


パウロが言われた言葉を思い出す。

rom7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むこと を行なっているからです。





僕らは管理し得ない体と心をもっているという事実を確認できなければ

この詩篇の作者の言葉を発する事は出来ないよね。



自分の弱さを知ることで

本当の助けとなる方と出会えることが出来る。



弱さを知ることから、始まることが多いような気もしますね~。




今日も自分自身の弱さを知りながら

僕らの本当の支えとなって下さる方を呼んでみませんか?詩篇の作者と共に。


では。

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【詩篇119篇】o19v(タウ)
psm119:169 私の叫びが御前に近づきますように。主よ。みことばのとおりに、私に悟りを与えてください。
psm119:170 私の切なる願いが御前に届きますように。みことばのとおりに私を救い出してください。
psm119:171 私のくちびるに賛美がわきあふれるようにしてください。あなたが私にみおきてを教えてくださるから。
psm119:172 私の舌はあなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せはことごとく正しいから。
psm119:173 あなたの御手が私の助けとなりますように。私はあなたの戒めを選びました。
psm119:174 私はあなたの救いを慕っています。主よ。あなたのみおしえは私の喜びです。
psm119:175 私のたましいが生き、あなたをほめたたえますように。そしてあなたのさばきが私の助けとなりますように。
psm119:176 私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません。
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おはようございます。メンテナンスだわ~。
会社での更新、皆が居ない隙にどうだろう?
チャレンジしてみますね。更新が遅くなってたらスイマセン。

今日僕の心に留まった言葉はコレ。
psm119:173 あなたの御手が私の助けとなりますように。私はあなたの戒めを選びました。
・・・そしてあなたのさばきが私の助けとなりますように。




戒めを選ぶ?
なんか変な感じもするこの言葉の本意はどこだろう?

後に続く、
あなたの裁きが私の助けとなりますように。。此処にあるのかもしれないね。



親は子供が欲しがるモノを全て与える事は無い。
それは子供を本気で愛しているから。

例えば、食べモノはアイスだけでオレはエエネン~!なんていう子が居たら
『 野菜も、ご飯も食べなきゃ ダメ~!! 』って云うよね。
それは、子供が自分の体のことを考える事が出来ないからかも。。ね。



僕らも一緒。
将来も全ての時を空間を超えて全能の神様は
僕らに必要なことを知っている。

・・・僕らはソレを知りえない。(それは制限された肉体で生かされているから)
だから、ソレを知っている人は、全てを知っている神様の戒めを聴きたい。
神様が備えられた自分の幸せ全てを受け止めたいから。



psm119:173 あなたの御手が私の助けとなりますように。私はあなたの戒めを選びました。




神様の「御手が私の助け」に なる!なる!!って解るもんね。



僕らはソレを体験する事が出来る。
この詩篇の作者のように、この戒めを選ぶことが出来る。

この言葉に心を合わせて声を発するだけで。




僕らは何かを選んでいる。
例えば今日のこの詩篇の言葉を発するという事を選ぶのか?
それとも、絶対今日は発しないぞ!って事を選ぶのか?


選択は僕らにある。


いつもベストな道を選ぶことが出来たらイイネ。
今日も神様が備えられた一日。
隠された素敵を今日も一緒に捜しに出かけましょうね。


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http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E7%9E%91%E6%83%B3%281%29%E3%80%8C%E9%81%B8%E6%8A%9E%E3%80%8D
最後のブロックでは、173節にある「私はあなたの戒めを選びました。」に注目したいと思います。人が神を選ぶというのは、詩篇では13回見られますが、そのうちの2回が詩篇119篇にあるということが重要です。「選ぶ」、あるいは「選び取る」と訳されたヘブル語は「バーハル」
בָּחַרですが、「選ぶ」というのはきわめて主体的行為を表わします。それゆえ「選び」は、次節の174節の「あなたの救いを慕っています」「あなたのみおしえは私の喜びです。」とも連動します。それは、なんら強制的なものはなく、自発的、主体的告白であり、「愛する」と言う動詞と同義です。
119:30にも「わたしは真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。」とあります。人が何を選びとるかが重要です。聖書における神の民としての自立とは、神から選ばれて選ぶ、愛されて愛するという信仰的・主体的決断に基づく服従の選択意志を意味します。イエス・キリストは弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです。」(ヨハネ15章16節)と言われました。ヨハネの手紙では「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私の罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。この愛に対して、私たちがどのように応えるべきか問われているのです。
私たちの人生の様々な局面において(失敗の経験も含めて) 、神の先行的な選び(無条件の愛)に気づかされていくことが大切です。そこから新しい歩みの新芽が芽生えてくるからです。そこに身を置くならば、自分の存在を脅かす者に対しても決して恐れることはなく、むしろ、それが自分を成長されてくれた「愛すべき敵」とさえ思えるようになると信じます。


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【詩篇119篇】o19u(シン)


psm119:161  君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。

psm119:162  私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。

psm119:163  私は偽りを憎み、忌みきらい 、あなたのみおしえを愛しています。

psm119:164  あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。

psm119:165  あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。

psm119:166  私はあなたの救いを待ち望んでいます。主よ。私はあなたの仰せを行なっています。

psm119:167  私のたましいはあなたのさとしを守っています。しかも、限りなくそれを愛しています。

psm119:168  私はあなたの戒めと、さとしとを守っています。私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。  

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おはようございます。

昨日はミノウの滝まで蛍を見に行きました。

僅かですが、滝のしぶきを浴びながら数匹小さく光る蛍を見ることが出来てよかったです。

参加できなかった人も多かったので、次にまた機会を作って楽しめたらと思ってます。



では、さっそく共に詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm119:166  私はあなたの救いを待ち望んでいます。主よ。私はあなたの仰せを行なっています。





待ち望んでいます。

待つ事は本当に忍耐の要ること。

待たずに、自分でする力があるのならヤッチャう方が早いかも。


自分でソレをすることが出来ないと知ったなら・・?

待つしかないよね。。



今日の待つっていう意味は少し思っているのよりも意味合いが違うかも。

説明文を抜粋するとここで使われている言葉はこんな感じ。

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神の大切な時、神の働きの、その時が来た時にどうするかを考えなが開始の時にすでにどれだけ準備して待っていたかが問われます。ただ口をあけて、まだかまだかと待っているのではなく備えて待っている。これがサーヴァルשָׂבַרと言えます。

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知ってるんだよね。

神様のタイミングで事は行われている事を知っている。

見えない将来だけど、先人達が神様とのやりとりをされてる事を見聞きして

必ず神様は必要に応えられる方だという事を既に知り、信じてるみたい。。




僕らには問題を解決する力もないのかもしれない。

でも、僕らはその問題を解決される力のある方を知っていて

詩篇の作者と共にその言葉を理解して、その言葉を信じて同じ言葉を発する事が出来る。


それは

詩篇の作者と同じ神様が今、僕らを愛してくれてる事を知っているから。

体感はする事が出来ていないくても大丈夫。

すぐそれに気付く時が来るから。

待ち望んでみませんか。


今日も色んな問題があるでしょう。

でも、その問題は解決できる方に声を掛ける事を選択する事で解決するのかもしれない。

自分の力に頼らず、上を見上げて声を発してみませんか?

そして一緒に待ち望む事が出来たらイイネ。


大丈夫。

僕らを愛しておられる方は、時をも空間をも越えられた全知全能の神様だから。



今日も

期待しつつ、備えられた素敵を数えにでかけてみましょうね。


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119:114「私は、あなたのみことばを待ち望みます。」(יָחַל)
119:166「私はあなたの救いを待ち望んでいます。」(שָׂבַר)

  • 詩篇119篇における「待つ」という語彙の意味合いを思い巡らしたいと思います。「待つ」にもいろいろな待ち方があります。ウキウキ・ドキドキ・ワクワクしながら待つこともあれば、重圧と苦しみの中にじっと耐えながら待つこともあります。明日が見えずとも信頼することで待つこともあります。あるいは熱心に待つこともあれば、沈着で周到な準備をしながら待つこともあります。
  • 詩篇119篇には二つの「待つ」を表わす動詞があります。

(1) ヤーハル יָחַל(yachal)

  • 一番多く使われている動詞はヤーハルです。これは信頼しながら静かに待つことを表わす動詞です。119篇では6回(43, 49, 74, 81, 114, 147)使われています。新改訳も新共同訳も共に「待ち望む」と訳しています。英語(NIV)訳では、put my hope (直訳は「希望を置く」)と訳されています。この動詞は、将来になされる神の善を信じて、今日を生き抜く力を持たせる「待ち望み」を意味します。たとえ前が見えずとも、現実はより厳しいものであろうとも、神の善を信じ抜く力です。バルバロ訳では「慕う」と訳しています。「慕って絶え入るばかり」(119:81)という表現もあるように、熱心に待っているので、疲れ果ててしまうこともあるようです。

(2) サーヴァルשָׂבַר(savar)

  • もう一つの「待つ」を表わす動詞は1回しか出てきません。119:166の「私はあなたの救いを待ち望んでいます。」がそうです。ここの「待ち望む」はサーヴァルが使われています。旧約全体でもわすが8回で、詩篇では3回(104:27/119:166/145:15)です。このサーヴァルשָׂבַרには、「詳しく見る、詳細に調べる」という意味もあります。この意味と「待ち望む」とはどう結びつくのでしょうか。
  • ネヘミヤが荒れ果てたままになっているエルサレムの城壁の再建のために、エルサレムに行った時、すぐ行動を起こしませんでした。ネヘミヤは崩れた城壁をじっくり調べ、再建のための周到なプランを立てました。つまり、どこからどういうふうにはじめていくか、どういう方法で、といったプランです。だれにも相談することなく、だれにも言うこともなく、彼はひとりで準備に取り掛かりました。それから彼は人々に呼びかけ、訴え、動機づけしてから、共に立ち上がりました。と同時に、それを阻もうとする敵も一緒に立ち上がりました。しかし、敵は、周到な準備をしてスタートさせたネヘミヤの計画を阻止することはできませんでした。この隠された「待ち構え」こそ、崩れた城壁の再建を成功させました。
  • このように、サーヴァルשָׂבַרはあることをなす前の周到な準備をもって待っている意味合いと考えることができると思います。花婿を迎える10人の娘たちのたとえ話をイエスは話されました。娘たちはみなともしびを持ちながら花婿が来るのを待っていました。その花婿は突然夜にやって来ました。そのとき、ともしびの油を準備して待っていたのは10人のうちの5人しかいませんでした。あとの5人はともしびを持ってはいましたが、肝心の油を用意していなかったのです。
  • 神の大切な時、神の働きの、その時が来た時にどうするかを考えなが開始の時にすでにどれだけ準備して待っていたかが問われます。ただ口をあけて、まだかまだかと待っているのではなくら備えて待っている。これがサーヴァルשָׂבַרと言えます。
  • 詩篇119篇の作者は、1回限りですが、この動詞を使って、救いを待ち望んでいたのです。やがてバビロンから解放されたとき、神の民の再建事業がはじまりますが、すでにその準備はなされていたのです。モーセの五書を中心としたトーラーライフスタイルはすでに準備されていたのです。またシナゴーグでの聖書の朗読と説き明かしを中心とした新しい礼拝も準備されていたのです。神殿礼拝とは異なるこのシナゴーグ礼拝は今日の教会においても大きな影響を与えているのです。
  • 私たちも神の新しい計画に備えて、周到な準備をしながら待つことのできるあの5人の娘のように、賢くありたいものです。

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【詩篇119篇】o19t(レシ)


psm119:153  私の悩みを顧み、私を助け出してください。私はあなたのみおしえを忘れません。

psm119:154  私の言い分を取り上げ、私を贖ってください。みことばにしたがって、私を生かしてください。

psm119:155  救いは悪者から遠くかけ離れています。彼らがあなたのおきてを求めないからです。

psm119:156  あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください。

psm119:157  私を迫害する者と私の敵は多い。しかし私は、あなたのさとしから離れません。

psm119:158  私は裏切る者どもを見て、彼らを忌みきらい ました。彼らがあなたのみことばを守らないからです。

psm119:159  ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。主よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください。

psm119:160  みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。


 

。。。。。。。。。。。


おはようございます。

今朝おきてホッとしました。

何故なら、今日は子供と友人と蛍を見にみのうの滝に行く事になってたから。

昨日までの雨が嘘みたい・・・。感謝!!

主の憐れみ・・だね。



では、さっそく共に詩篇を。

今日僕の心に留まった言葉はこんな言葉。

psm119:158  私は裏切る者どもを見て、彼らを忌みきらい ました。彼らがあなたのみことばを守らないからです。




あわれみ・・・キーワードだね。

だけど、その前に。。。何故、あわれみを受ける存在なのかを考えてみませんか?


ここで、詩篇の作者は裏切る者どもを忌み嫌うと語っている。

その理由は御言葉を守らないから。



なんかよくよく考えたら不思議な表現だよね。

守らないから嫌いや!!やって。


何故だろう?





何故だろう?





守るという事は、意識して其処に留まるという事だと考えたら

守らないってのは、違う事を意識して違う事に留まると決めた行為にも考えられるよね。


って事は?

そこに誘導する囁く声があるという事かも。

その囁く声の主は「裏切」りなんかに繋がるって事はサタンに間違いないでしょうね。



ただ、そのささやく声の主は自らを現さず、

一人一人自分の意思での決定してるかのように思わされてるから

要は、僕らは知らぬ間に騙されてるって事にもなる。





騙されてる。

騙されてる人は、騙されている事に気付かない。

それは、自分の決定を疑わないから。



神様は僕らの性質を知っている。

肉体によって制限された僕らは、サタンに騙されるだろう事を知っている。

そんな僕らを主は哀れまれる。

誘導されてる事にも気付けない僕らをいつも傍で一方的に助けたいと思っておられる。



psm119:158  私は裏切る者どもを見て、彼らを忌みきらい ました。彼らがあなたのみことばを守らないからです。





この言葉の云われる事。

なんか解るような気がするでしょ~。


神様の言葉に留まらないから、サタンの支配の中でその性質を持ち始める。

裏切りはひとつのサタンの性質。

撒いた種は必ず刈り取る事になる。サタンによって撒けばそこから与えるものを刈り取る事になる。

ソレは 『 死 』。



僕らは神様に出会うまで

騙されてた・・・事に気付きました??


神様の言葉をベースに物事を見る時初めて、僕らは騙されてるって事に気付く。

神様の言葉に留まって、用意された祝福を神様は受け取って欲しいと願われている。




僕らは気付いた。

気付かされたの方が正しいかも。



未だ騙されてる人たちを僕らはどう見る?

真実を知ることなく、サタンに騙され続ける人をどうみますか?

怒りをもって見下しますか・・・?




『 あわれみ 』

素敵な言葉ですね。



時間ある時、この解説を聞いてみてくださいね。




僕らはいつも神様の一方的の愛の中に包まれている。





今日も神様の愛の中で一歩一歩歩んでいきたいですね。

素敵な神様の愛に少しでも気付けますように。



では。


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  • このブロックには、「私を生かしてください」(154,156,159節」と三度繰り返して主に嘆願しているのが目につきます。と同時に二つの告白があります。一つは、「あなたのあわれみは大きい」 (156節) 。もう一つは、「みことばのすべてはまことです。」 (160節)
  • 特に、前者の告白を味わってみたいと思います。「主のあわれみは大きい」との告白です。「大きい」と訳されたラヴרַב(rav)は、「大きい」(改、フ)、「豊か」(岩波)、「深い」(関根)とも訳されています。限りなく偉大で、豊かさを秘めたという意味です。
  • 「あなたのあわれみは大きい」との告白、つまり、私たちと主とのかかわりは、主のあわれみなしには保つことができないことを意味しています。弟子ペテロがイエスを裏切る前には、そのことを彼は知りませんでした。自信過剰で、自分はしっかりとしていると思っていましたが、サタンによってふるいにかけられました。そのとき、ペテロの背後でイエスハ彼のために信仰がなくなせないように祈っていました。サタンのふるいにかけられるということは、信仰がなくなってしまうような事態が予想されたのです。しかし主イエスハ彼のために祈りました。これが「主のあわれみ」です。
  • 「主のあわれみ」はイスラエルの歴史に貫いていますし、私たちの生涯にも貫いています。「あわれみ」とは、同情、プラス行動です。福音書を読むと、イエス・キリストの行動の基調は「あわれみ」であることが分かります。「かわいそうに思う(正しくは、腸が痛むという意味)」という同情の後には、必ず、なんらかの行動が付随されています。
  • 使徒パウロも、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪と罪過の中に死んでいた私たちをキリストと「ともに生かし」、「ともによみがえらせ」、「ともに天の所に座らせてくださった」と宣言しています。単なる同情で終わることなく、私たちのために行動によってその愛を示されました。まさに、行動で表わされた神の愛こそ、本当の「あわれみ」です。天の父があわれみ深いように、私たちもあわれみ深くあることが神のみこころです。私も、日々、神のみこころに従って生かされる者でありたいと祈ります。

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