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psm119:153 私の悩みを顧み、私を助け出してください。私はあなたのみおしえを忘れません。
psm119:154 私の言い分を取り上げ、私を贖ってください。みことばにしたがって、私を生かしてください。
psm119:155 救いは悪者から遠くかけ離れています。彼らがあなたのおきてを求めないからです。
psm119:156 あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください。
psm119:157 私を迫害する者と私の敵は多い。しかし私は、あなたのさとしから離れません。
psm119:158 私は裏切る者どもを見て、彼らを忌みきらい ました。彼らがあなたのみことばを守らないからです。
psm119:159 ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。主よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください。
psm119:160 みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。
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おはようございます。
今朝おきてホッとしました。
何故なら、今日は子供と友人と蛍を見にみのうの滝に行く事になってたから。
昨日までの雨が嘘みたい・・・。感謝!!
主の憐れみ・・だね。
では、さっそく共に詩篇を。
今日僕の心に留まった言葉はこんな言葉。
psm119:158 私は裏切る者どもを見て、彼らを忌みきらい ました。彼らがあなたのみことばを守らないからです。
あわれみ・・・キーワードだね。
だけど、その前に。。。何故、あわれみを受ける存在なのかを考えてみませんか?
ここで、詩篇の作者は裏切る者どもを忌み嫌うと語っている。
その理由は御言葉を守らないから。
なんかよくよく考えたら不思議な表現だよね。
守らないから嫌いや!!やって。
何故だろう?
何故だろう?
守るという事は、意識して其処に留まるという事だと考えたら
守らないってのは、違う事を意識して違う事に留まると決めた行為にも考えられるよね。
って事は?
そこに誘導する囁く声があるという事かも。
その囁く声の主は「裏切」りなんかに繋がるって事はサタンに間違いないでしょうね。
ただ、そのささやく声の主は自らを現さず、
一人一人自分の意思での決定してるかのように思わされてるから
要は、僕らは知らぬ間に騙されてるって事にもなる。
騙されてる。
騙されてる人は、騙されている事に気付かない。
それは、自分の決定を疑わないから。
神様は僕らの性質を知っている。
肉体によって制限された僕らは、サタンに騙されるだろう事を知っている。
そんな僕らを主は哀れまれる。
誘導されてる事にも気付けない僕らをいつも傍で一方的に助けたいと思っておられる。
psm119:158 私は裏切る者どもを見て、彼らを忌みきらい ました。彼らがあなたのみことばを守らないからです。
この言葉の云われる事。
なんか解るような気がするでしょ~。
神様の言葉に留まらないから、サタンの支配の中でその性質を持ち始める。
裏切りはひとつのサタンの性質。
撒いた種は必ず刈り取る事になる。サタンによって撒けばそこから与えるものを刈り取る事になる。
ソレは 『 死 』。
僕らは神様に出会うまで
騙されてた・・・事に気付きました??
神様の言葉をベースに物事を見る時初めて、僕らは騙されてるって事に気付く。
神様の言葉に留まって、用意された祝福を神様は受け取って欲しいと願われている。
僕らは気付いた。
気付かされたの方が正しいかも。
未だ騙されてる人たちを僕らはどう見る?
真実を知ることなく、サタンに騙され続ける人をどうみますか?
怒りをもって見下しますか・・・?
『 あわれみ 』
素敵な言葉ですね。
時間ある時、この解説を聞いてみてくださいね。
僕らはいつも神様の一方的の愛の中に包まれている。
今日も神様の愛の中で一歩一歩歩んでいきたいですね。
素敵な神様の愛に少しでも気付けますように。
では。
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- このブロックには、「私を生かしてください」(154,156,159節」と三度繰り返して主に嘆願しているのが目につきます。と同時に二つの告白があります。一つは、「あなたのあわれみは大きい」 (156節) 。もう一つは、「みことばのすべてはまことです。」 (160節)
- 特に、前者の告白を味わってみたいと思います。「主のあわれみは大きい」との告白です。「大きい」と訳されたラヴרַב(rav)は、「大きい」(改、フ)、「豊か」(岩波)、「深い」(関根)とも訳されています。限りなく偉大で、豊かさを秘めたという意味です。
- 「あなたのあわれみは大きい」との告白、つまり、私たちと主とのかかわりは、主のあわれみなしには保つことができないことを意味しています。弟子ペテロがイエスを裏切る前には、そのことを彼は知りませんでした。自信過剰で、自分はしっかりとしていると思っていましたが、サタンによってふるいにかけられました。そのとき、ペテロの背後でイエスハ彼のために信仰がなくなせないように祈っていました。サタンのふるいにかけられるということは、信仰がなくなってしまうような事態が予想されたのです。しかし主イエスハ彼のために祈りました。これが「主のあわれみ」です。
- 「主のあわれみ」はイスラエルの歴史に貫いていますし、私たちの生涯にも貫いています。「あわれみ」とは、同情、プラス行動です。福音書を読むと、イエス・キリストの行動の基調は「あわれみ」であることが分かります。「かわいそうに思う(正しくは、腸が痛むという意味)」という同情の後には、必ず、なんらかの行動が付随されています。
- 使徒パウロも、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪と罪過の中に死んでいた私たちをキリストと「ともに生かし」、「ともによみがえらせ」、「ともに天の所に座らせてくださった」と宣言しています。単なる同情で終わることなく、私たちのために行動によってその愛を示されました。まさに、行動で表わされた神の愛こそ、本当の「あわれみ」です。天の父があわれみ深いように、私たちもあわれみ深くあることが神のみこころです。私も、日々、神のみこころに従って生かされる者でありたいと祈ります。
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