待ち望む。。。 | へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

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僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

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【詩篇119篇】o19u(シン)


psm119:161  君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。

psm119:162  私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。

psm119:163  私は偽りを憎み、忌みきらい 、あなたのみおしえを愛しています。

psm119:164  あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。

psm119:165  あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。

psm119:166  私はあなたの救いを待ち望んでいます。主よ。私はあなたの仰せを行なっています。

psm119:167  私のたましいはあなたのさとしを守っています。しかも、限りなくそれを愛しています。

psm119:168  私はあなたの戒めと、さとしとを守っています。私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。  

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おはようございます。

昨日はミノウの滝まで蛍を見に行きました。

僅かですが、滝のしぶきを浴びながら数匹小さく光る蛍を見ることが出来てよかったです。

参加できなかった人も多かったので、次にまた機会を作って楽しめたらと思ってます。



では、さっそく共に詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm119:166  私はあなたの救いを待ち望んでいます。主よ。私はあなたの仰せを行なっています。





待ち望んでいます。

待つ事は本当に忍耐の要ること。

待たずに、自分でする力があるのならヤッチャう方が早いかも。


自分でソレをすることが出来ないと知ったなら・・?

待つしかないよね。。



今日の待つっていう意味は少し思っているのよりも意味合いが違うかも。

説明文を抜粋するとここで使われている言葉はこんな感じ。

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神の大切な時、神の働きの、その時が来た時にどうするかを考えなが開始の時にすでにどれだけ準備して待っていたかが問われます。ただ口をあけて、まだかまだかと待っているのではなく備えて待っている。これがサーヴァルשָׂבַרと言えます。

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知ってるんだよね。

神様のタイミングで事は行われている事を知っている。

見えない将来だけど、先人達が神様とのやりとりをされてる事を見聞きして

必ず神様は必要に応えられる方だという事を既に知り、信じてるみたい。。




僕らには問題を解決する力もないのかもしれない。

でも、僕らはその問題を解決される力のある方を知っていて

詩篇の作者と共にその言葉を理解して、その言葉を信じて同じ言葉を発する事が出来る。


それは

詩篇の作者と同じ神様が今、僕らを愛してくれてる事を知っているから。

体感はする事が出来ていないくても大丈夫。

すぐそれに気付く時が来るから。

待ち望んでみませんか。


今日も色んな問題があるでしょう。

でも、その問題は解決できる方に声を掛ける事を選択する事で解決するのかもしれない。

自分の力に頼らず、上を見上げて声を発してみませんか?

そして一緒に待ち望む事が出来たらイイネ。


大丈夫。

僕らを愛しておられる方は、時をも空間をも越えられた全知全能の神様だから。



今日も

期待しつつ、備えられた素敵を数えにでかけてみましょうね。


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119:114「私は、あなたのみことばを待ち望みます。」(יָחַל)
119:166「私はあなたの救いを待ち望んでいます。」(שָׂבַר)

  • 詩篇119篇における「待つ」という語彙の意味合いを思い巡らしたいと思います。「待つ」にもいろいろな待ち方があります。ウキウキ・ドキドキ・ワクワクしながら待つこともあれば、重圧と苦しみの中にじっと耐えながら待つこともあります。明日が見えずとも信頼することで待つこともあります。あるいは熱心に待つこともあれば、沈着で周到な準備をしながら待つこともあります。
  • 詩篇119篇には二つの「待つ」を表わす動詞があります。

(1) ヤーハル יָחַל(yachal)

  • 一番多く使われている動詞はヤーハルです。これは信頼しながら静かに待つことを表わす動詞です。119篇では6回(43, 49, 74, 81, 114, 147)使われています。新改訳も新共同訳も共に「待ち望む」と訳しています。英語(NIV)訳では、put my hope (直訳は「希望を置く」)と訳されています。この動詞は、将来になされる神の善を信じて、今日を生き抜く力を持たせる「待ち望み」を意味します。たとえ前が見えずとも、現実はより厳しいものであろうとも、神の善を信じ抜く力です。バルバロ訳では「慕う」と訳しています。「慕って絶え入るばかり」(119:81)という表現もあるように、熱心に待っているので、疲れ果ててしまうこともあるようです。

(2) サーヴァルשָׂבַר(savar)

  • もう一つの「待つ」を表わす動詞は1回しか出てきません。119:166の「私はあなたの救いを待ち望んでいます。」がそうです。ここの「待ち望む」はサーヴァルが使われています。旧約全体でもわすが8回で、詩篇では3回(104:27/119:166/145:15)です。このサーヴァルשָׂבַרには、「詳しく見る、詳細に調べる」という意味もあります。この意味と「待ち望む」とはどう結びつくのでしょうか。
  • ネヘミヤが荒れ果てたままになっているエルサレムの城壁の再建のために、エルサレムに行った時、すぐ行動を起こしませんでした。ネヘミヤは崩れた城壁をじっくり調べ、再建のための周到なプランを立てました。つまり、どこからどういうふうにはじめていくか、どういう方法で、といったプランです。だれにも相談することなく、だれにも言うこともなく、彼はひとりで準備に取り掛かりました。それから彼は人々に呼びかけ、訴え、動機づけしてから、共に立ち上がりました。と同時に、それを阻もうとする敵も一緒に立ち上がりました。しかし、敵は、周到な準備をしてスタートさせたネヘミヤの計画を阻止することはできませんでした。この隠された「待ち構え」こそ、崩れた城壁の再建を成功させました。
  • このように、サーヴァルשָׂבַרはあることをなす前の周到な準備をもって待っている意味合いと考えることができると思います。花婿を迎える10人の娘たちのたとえ話をイエスは話されました。娘たちはみなともしびを持ちながら花婿が来るのを待っていました。その花婿は突然夜にやって来ました。そのとき、ともしびの油を準備して待っていたのは10人のうちの5人しかいませんでした。あとの5人はともしびを持ってはいましたが、肝心の油を用意していなかったのです。
  • 神の大切な時、神の働きの、その時が来た時にどうするかを考えなが開始の時にすでにどれだけ準備して待っていたかが問われます。ただ口をあけて、まだかまだかと待っているのではなくら備えて待っている。これがサーヴァルשָׂבַרと言えます。
  • 詩篇119篇の作者は、1回限りですが、この動詞を使って、救いを待ち望んでいたのです。やがてバビロンから解放されたとき、神の民の再建事業がはじまりますが、すでにその準備はなされていたのです。モーセの五書を中心としたトーラーライフスタイルはすでに準備されていたのです。またシナゴーグでの聖書の朗読と説き明かしを中心とした新しい礼拝も準備されていたのです。神殿礼拝とは異なるこのシナゴーグ礼拝は今日の教会においても大きな影響を与えているのです。
  • 私たちも神の新しい計画に備えて、周到な準備をしながら待つことのできるあの5人の娘のように、賢くありたいものです。

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