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【詩篇119篇】o19v(タウ)
psm119:169 私の叫びが御前に近づきますように。主よ。みことばのとおりに、私に悟りを与えてください。
psm119:170 私の切なる願いが御前に届きますように。みことばのとおりに私を救い出してください。
psm119:171 私のくちびるに賛美がわきあふれるようにしてください。あなたが私にみおきてを教えてくださるから。
psm119:172 私の舌はあなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せはことごとく正しいから。
psm119:173 あなたの御手が私の助けとなりますように。私はあなたの戒めを選びました。
psm119:174 私はあなたの救いを慕っています。主よ。あなたのみおしえは私の喜びです。
psm119:175 私のたましいが生き、あなたをほめたたえますように。そしてあなたのさばきが私の助けとなりますように。
psm119:176 私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません。
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おはようございます。メンテナンスだわ~。
会社での更新、皆が居ない隙にどうだろう?
チャレンジしてみますね。更新が遅くなってたらスイマセン。
今日僕の心に留まった言葉はコレ。
psm119:173 あなたの御手が私の助けとなりますように。私はあなたの戒めを選びました。
・・・そしてあなたのさばきが私の助けとなりますように。
戒めを選ぶ?
なんか変な感じもするこの言葉の本意はどこだろう?
後に続く、
あなたの裁きが私の助けとなりますように。。此処にあるのかもしれないね。
親は子供が欲しがるモノを全て与える事は無い。
それは子供を本気で愛しているから。
例えば、食べモノはアイスだけでオレはエエネン~!なんていう子が居たら
『 野菜も、ご飯も食べなきゃ ダメ~!! 』って云うよね。
それは、子供が自分の体のことを考える事が出来ないからかも。。ね。
僕らも一緒。
将来も全ての時を空間を超えて全能の神様は
僕らに必要なことを知っている。
・・・僕らはソレを知りえない。(それは制限された肉体で生かされているから)
だから、ソレを知っている人は、全てを知っている神様の戒めを聴きたい。
神様が備えられた自分の幸せ全てを受け止めたいから。
psm119:173 あなたの御手が私の助けとなりますように。私はあなたの戒めを選びました。
神様の「御手が私の助け」に なる!なる!!って解るもんね。
僕らはソレを体験する事が出来る。
この詩篇の作者のように、この戒めを選ぶことが出来る。
この言葉に心を合わせて声を発するだけで。
僕らは何かを選んでいる。
例えば今日のこの詩篇の言葉を発するという事を選ぶのか?
それとも、絶対今日は発しないぞ!って事を選ぶのか?
選択は僕らにある。
いつもベストな道を選ぶことが出来たらイイネ。
今日も神様が備えられた一日。
隠された素敵を今日も一緒に捜しに出かけましょうね。
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最後のブロックでは、173節にある「私はあなたの戒めを選びました。」に注目したいと思います。人が神を選ぶというのは、詩篇では13回見られますが、そのうちの2回が詩篇119篇にあるということが重要です。「選ぶ」、あるいは「選び取る」と訳されたヘブル語は「バーハル」
בָּחַרですが、「選ぶ」というのはきわめて主体的行為を表わします。それゆえ「選び」は、次節の174節の「あなたの救いを慕っています」「あなたのみおしえは私の喜びです。」とも連動します。それは、なんら強制的なものはなく、自発的、主体的告白であり、「愛する」と言う動詞と同義です。
119:30にも「わたしは真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。」とあります。人が何を選びとるかが重要です。聖書における神の民としての自立とは、神から選ばれて選ぶ、愛されて愛するという信仰的・主体的決断に基づく服従の選択意志を意味します。イエス・キリストは弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです。」(ヨハネ15章16節)と言われました。ヨハネの手紙では「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私の罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。この愛に対して、私たちがどのように応えるべきか問われているのです。
私たちの人生の様々な局面において(失敗の経験も含めて) 、神の先行的な選び(無条件の愛)に気づかされていくことが大切です。そこから新しい歩みの新芽が芽生えてくるからです。そこに身を置くならば、自分の存在を脅かす者に対しても決して恐れることはなく、むしろ、それが自分を成長されてくれた「愛すべき敵」とさえ思えるようになると信じます。
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