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【詩篇123篇】o19
都上りの歌
psm123:1
あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座
に着いておられる方よ。
psm123:2
ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。
psm123:3
私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。
psm123:4
私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。
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おはようございます。
今日は土曜ですが、普通にお仕事。
お仕事の人共に、頑張りましょうね。
では早速共に詩篇を。
今日僕の此処とに留まったのはこんな言葉。
psm123:3
私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。
『 あわれんでください。 』
言った事あります?
もし云うとしたら、どんな状況でこの言葉を発すると思います?
ど~しようも無い時。
自分の無力さを知り、身近な人への期待をも裏切られ
本当に誰の助けも出来ない時では?
実は僕は
本当に神様を体験し始める時は、僕はこの言葉を発し始める時だと思っている。
何故だろう?
ジーザスは「心の貧しい人は幸いである」と云われた。
此処に秘密が隠されている気がしてならない。
先ずは読んでみて。。
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http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/mazusi.html
貧しい人は幸いか(1)―聖書余話
「貧しい人は幸いである」。ルカ福音書の6章20節にあるこのイエス様のみ言葉を、皆さんはどうお思いですか。貧乏であることが、本当に幸福なのでしょうか。貧乏な人が幸福であるなどありえない。富が神の祝福であり、貧乏は不運で、なりたくないというのが、私たちの本音ではないでしょうか。聖書に書いてあるから信じるよりほかないが、正直わからないというのが、誰しも持つ疑問です。
マタイ福音書では、その疑問からでしょうか、「心の貧しい人は幸いである」(マタイ5・3)と変えています。しかし、心が狭く惨めな状態が幸いのでしょうか。疑問です。
色々な解釈がなされていて、フランシスコ会訳は「自分の貧しさを知る人は幸いである」と訳し、本当は「神によりすがる人々は幸い」の意味なのですが、誤解されています。直訳では「霊において貧しい人は幸い」だそうですが、自分が貧しく謙虚であると思っている人こそ傲慢で鼻持ちなりません。
「心の貧しい人」の訳について、東北の方言のケセン語訳聖書を出した気仙沼の山浦さんは、原語の「ホイ プトーホイ トーイ プネウマティ」というのは、「息がふにゃ、ふにゃ、ふにゃと弱いやつ」つまり、「鼻息の弱いやつ」としています。プネウマティは「霊」とか「心」に訳されていますが、原意は人の呼吸・息です。
普通、「鼻息が荒いやつ」というと力と自信に満ちあふれていて、多分懐にはお金がいっぱいうなっている人を言います。その反対の人は、鼻息が弱い人です。
山浦さんは、財力もなければ、社会的な地位もなく、希望もなければ、頼りもなく、もう本当にああ、どうしようと思っている、そういう「鼻息の弱い人」こそ神様の懐にしっかりと抱きしめられて、人間としての本当の幸せに一番近い人だといいます。
ですから「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである」の意味は、「頼りなぐ 望みなぐ 心細い人ァ幸せだ 神様の懐に抱がさんのァ その人達だ」というケセン語訳にしています。
この山浦さん訳のケセン語の方言訳が、東北人の私の気持ちには一番ぴったりするような気がしますが、皆さんどうでしょうか。貧しい人―-弱い人、ハンディのある人を憐れみ、救うというのが、私たちの神さまの特徴だからです。
「心の貧しさ」はこのように、謙虚な人や、或いは気の弱い人などと解釈されていますが、釜が崎の本田神父さんはまた違います。
『心』と記されたプネウマのヘブライ語の聖書的な用法から言えば、もっと深いところから捕らえた人間丸ごとを意味しているから、「心底貧しい人たち」と訳しています。
また、「幸いである」と訳されているもともとの意味は「祝福されている」ということで、ヘブライ語の原意は「まっすぐ突き進みなさい」という行動を促す励ましの言葉だといいます。虐げられた現状からの立ち上がりを促す意味なので「神からの力がある」と訳すべきだといっています。幸いであるから、貧しいままでよい、という意味では決してないのです。「貧しい人は幸いである」を誤訳して、「社会的弱者に沈黙を押し付けてきた」とさえ、本田師は言っています。
ですから「心の貧しい人は幸いである」の本田訳は「心底貧しい人たちには、神からの力がある。天の国はその人たちのものである。」と、富も権力も名誉も何もかも無い(失った)裸の者こそ、神の励ましがある、と言って、ルカ福音書の思想をより徹底化しています。しかし、本当に貧しい人には「神からの力」すなわち、恵みがあるのでしょうか。
何故そうなのでしょうか。次回はそこを考えて見ます。
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僕らはそんな状態を味わった事があるだろうか?
周りを見渡してみる。
それらのどれをとっても実は神様が居られなければ存在しないモンだらけにも関わらず
僕らは自分自身で勝ち取ったモノだと勘違いをし続けているのかもしれない。
僕らは心臓の一つをも自分で動かす事も出来ない存在だ。
生かされている全てを与えられている事も知ろうとセズに生きているのが現実なのかもしれない。
本当はそれ高慢なのかも・・・ね。
でも、僕らには誰でも神様に求める事の出来る機会が与えられる。
『 心の貧し 』 さを感じることの出来る時だ。
この心の貧しさを味わう時、
このタイミングに神様に声を上げることが出来ればイイのかも。。。
此処で大切なのは、素直な心。
そのまんまの心が大切なのかもしれない。
神様からしたら、僕ら一人一人は本当に大切な子供達なんだから。
素直な声を待っている。
今か今かと耳を傾け待っている。
『 あわれんでください。 』
心の貧しさは、僕らの力に繋がる言葉。
揺ぎ無い『 愛 』に繋がる時。
今日も神様が備えられた一日。
貧しさも感じる時も多いだろうけど、そのタイミングこそ素敵な出会いを支える環境だから。
素敵を捜しに今日も一緒にでかけましょうね。