へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy -34ページ目

へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

。。。。。。。。。。

 

【詩篇126篇】o19  都上りの歌


psm126:1  主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を 見ている者 のようであった。

psm126:2  そのとき、私たちの口は笑い で満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で 、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」

psm126:3  主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。

psm126:4  主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。

psm126:5  涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。

psm126:6  種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

昨日はため息ばかりに一日。

信頼してたと思っていたにも関わらず裏切られる気持ちになるのは残念で仕方が無い。

昨日僕はそんな失望の中に居た。

何の為に犠牲を払っていたのか・・・なんて思えてならない。

今も尚思いを切り替えられずに居る。



そんな中で今日この言葉が僕の心に留まった。

psm126:5  涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。

psm126:6  種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。





僕らに選択は委ねられている。

どんな種を撒くのか。

人は撒いた種は必ず刈り取る事になる。


そんな失望を与えられて、その相手に愛する必要はないのかもしれない。

しかし、ジーザスは7の7倍許せと云われ、神を愛し隣人を愛せと云われる。



どうしてそんな事が出来るのだろうか?





出来ない。

僕らにはそれが出来ないんだと思う。




だから、そんな時僕らは愛の貧しさを知る事になる。

貧しさを知る時、僕らはようやくプネウマを知り神様に愛せるように求める事ができる様になる。


それは何故か?

神様が僕らを通して愛したい人だから。

僕らと同様死んでまで愛している人の一人なんだから。



僕らが貧しさを知るとき

それは僕らの本当の祝福の始まり。。




神様は真の喜びで満たしたい。

問題は僕らを苦しめるだけのモノではない。




貧しさを正面から受け止め次のステップを踏んでいけたらイイデスネ。

今日も神様が備えられた素敵な一日。

隠されたそんな素敵を捜しに今日も一緒に出掛けましょうね。

喜び叫びながら刈り取る為に。。

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【詩篇125篇】o19  都上りの歌


psm125:1 主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。

psm125:2 山々がエルサレムを取り囲む ように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。

psm125:3  悪の杖が正しい者の地所の上にとどまることなく、正しい者が不正なことに、手を伸ばさないためである。

psm125:4  主よ。善良な人々や心の直ぐな人々に、いつくしみを施してください。

psm125:5  しかし、主は、曲がった道にそれる者どもを不法を行なう者どもとともに、連れ去られよう。イスラエルの上に平和があるように。

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おはようございます。

あたらしい1週間が始まりましたね。



色んなプレッシャーでシンドイ思いをしてる方も共に

先ずは詩篇からヤッてやりやしょう~!!

では、今日僕の心に留まった言葉を。

psm125:2 山々がエルサレムを取り囲む ように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。





取り囲むって一体どんな状態だろう?

円陣を組むような幹事なのだろうか?僕はそんなに感じた。


大きな山々に囲まれて圧倒されるような状況の中でも

その山々は僕らが敵から守られる為にそびえてると考えたら、凄くいい環境だよね。



円陣を組むように僕らを守るように囲んで包んで下さる神様。

それは、あらゆる敵から守りたいという一方的な思いから。


今日もサタンは色んな事から、神様が備えられてる祝福をズラそうとする。

「今日もアカンぞ~」「お前の能力では出来へんゾ~」とか?

「神がお前を守る?そんな空想話信じるんか?アホやの~」だとか?


僕らはそんなサタンの囁きを今日も聴くでしょう。

でも、見えない世界ではこの詩篇の作者の語られるように、

僕らはきっと神様の力強い腕に抱かれている。守られている。


だから、そんなサタンの囁きに耳を傾けずに

今日も詩篇の作者と共に心を合わせて言葉を発しませんか?




サタンに圧されながら過ごす必要はないんだから。

神様の力強い御手は、僕らを守る為にあるんだから。

大丈夫。

どんなに見える問題が大きかろうが・・・

どんなにその問題の解決が見えなかろうが・・・

全ての時を超えられた方は解決を知り、何よりも力強いその腕で問題を解決するに違いないんだから。

大丈夫。



不安はある。

でも、信じて発してみよう。

「大丈夫。だって神様が一緒に居てくれてるから」



今日も神様が備えられた一日。

サタンがその喜びを隠そうとしてるけど、捜して数えて喜びを掴んでいきましょうね。


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【詩篇124篇】o19  都上りの歌 。ダビデによる


psm124:1  「もしも主が私たちの味方 でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。

psm124:2  「もしも主が私たちの味方 でなかったなら、人々が私に逆らって立ち上がったとき、

psm124:3  そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、

psm124:4  そのとき、大水は私たちを押し流し、流れは私たちを越えて行ったであろう。

psm124:5  そのとき、荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」

psm124:6  ほむべきかな。主。主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。

psm124:7  私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは助け出された。

psm124:8  私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。

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おはようございます。

大飯原発再稼動反対デモを無視する国。NHK。

国は僕らを守るなんて思いは既に無くなってる人は多いのでは・・。

僕らの味方は居ない。

そんな失望感が45000人を動かしたに違いない。




さて、今日も早速共に詩篇を。

今日僕の心に留まった言葉はこれ。

psm124:1  「もしも主が私たちの味方 でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。




誰も味方になってくれないのならば、

僕らは失望の中に膝まづく事しか出来ないのかもしれない。



でも

圧倒的な力をもった神様が僕らの味方なら・・・。

僕らの希望は失望に終わる事が無い。

 

rom5:3  そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を 生み出し、

rom5:4  忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

rom5:5  この希望は失望に終わることがありません。




本当の神様に出会った人は恐れがなくなる。

それは、艱難さえも喜ぶ事が出来る程の神様の計画に信頼できるから。

そしてなにより

いつも神様の愛に包まれている事を知ってるからかもしれない。

 

1jhn4:16  私たちは、私たちに対する神の愛 を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちに おり、神もその人のうちにおられます。

1jhn4:17  このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さ を持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあって キリストと同じような者であるからです。

1jhn4:18  愛には恐れ がありません。全き愛 は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰 が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

1jhn4:19  私たちは愛しています。神がまず私たちを愛し てくださったからです。





先ずは

神様に近づく事なのかも。。

神様の愛を体感する事になれば、その意味が解っちゃうんだから。



ど~したら近づける?

礼拝の原語は「プロスクネオ」この意味は近づいてキスをするという意味。

子供が親の膝にのっかってキスをせがむような愛の関係。

僕らはそんな思いで神様に近づく事を神様は求めてるって事。



って具体的にはどうすんの??

先ずは見えない神様を日々意識して、そして声を掛ける事から始まるのかもしれない。


今日もこの作者と共に僕らは近づく事が出来る。

この詩篇を自分の言葉として発する事で。

共に今週も詩篇の作者と共に言葉を発しながら過ごしていきましょうね~。

では。

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http://homepage3.nifty.com/IUCC/amos//mi2.html#mikata

争いあう双方のうち、自分が属している方(の仲間)。本来の表記は【御方】。また【味方】【身方】は当て字であるが、今は「味方」が一般的である(国語辞典)。合い争うこの世 において、【敵味方】 は重要であるが、人間同士の場合、【裏切り】 と言うことが起こる。ですから、【本当の味方】 か、が重要となる。聖書に、全能の神、主イエスご自身が「味方」としてご自分を提示してくださっていることは、私たちにとって大きな慰めである。

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【詩篇123篇】o19  都上りの歌


psm123:1  あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座 に着いておられる方よ。

psm123:2  ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。

psm123:3  私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。

psm123:4  私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。

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おはようございます。

今日は土曜ですが、普通にお仕事。

お仕事の人共に、頑張りましょうね。


では早速共に詩篇を。

今日僕の此処とに留まったのはこんな言葉。

psm123:3  私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。





『 あわれんでください。 』



言った事あります?

もし云うとしたら、どんな状況でこの言葉を発すると思います?


ど~しようも無い時。

自分の無力さを知り、身近な人への期待をも裏切られ

本当に誰の助けも出来ない時では?





実は僕は

本当に神様を体験し始める時は、僕はこの言葉を発し始める時だと思っている。


何故だろう?

ジーザスは心の貧しい人は幸いである」と云われた。

此処に秘密が隠されている気がしてならない。


先ずは読んでみて。。

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http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/mazusi.html


貧しい人は幸いか(1)―聖書余話

「貧しい人は幸いである」。ルカ福音書の620節にあるこのイエス様のみ言葉を、皆さんはどうお思いですか。貧乏であることが、本当に幸福なのでしょうか。貧乏な人が幸福であるなどありえない。富が神の祝福であり、貧乏は不運で、なりたくないというのが、私たちの本音ではないでしょうか。聖書に書いてあるから信じるよりほかないが、正直わからないというのが、誰しも持つ疑問です。

マタイ福音書では、その疑問からでしょうか、「心の貧しい人は幸いである」(マタイ53)と変えています。しかし、心が狭く惨めな状態が幸いのでしょうか。疑問です。

色々な解釈がなされていて、フランシスコ会訳は「自分の貧しさを知る人は幸いである」と訳し、本当は「神によりすがる人々は幸い」の意味なのですが、誤解されています。直訳では「霊において貧しい人は幸い」だそうですが、自分が貧しく謙虚であると思っている人こそ傲慢で鼻持ちなりません。

「心の貧しい人」の訳について、東北の方言のケセン語訳聖書を出した気仙沼の山浦さんは、原語の「ホイ プトーホイ トーイ プネウマティ」というのは、「息がふにゃ、ふにゃ、ふにゃと弱いやつ」つまり、「鼻息の弱いやつ」としています。プネウマティは「霊」とか「心」に訳されていますが、原意は人の呼吸・息です。

普通、「鼻息が荒いやつ」というと力と自信に満ちあふれていて、多分懐にはお金がいっぱいうなっている人を言います。その反対の人は、鼻息が弱い人です。

山浦さんは、財力もなければ、社会的な地位もなく、希望もなければ、頼りもなく、もう本当にああ、どうしようと思っている、そういう「鼻息の弱い人」こそ神様の懐にしっかりと抱きしめられて、人間としての本当の幸せに一番近い人だといいます。

ですから「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである」の意味は、「頼りなぐ 望みなぐ 心細い人ァ幸せだ 神様の懐に抱がさんのァ その人達だというケセン語訳にしています。

この山浦さん訳のケセン語の方言訳が、東北人の私の気持ちには一番ぴったりするような気がしますが、皆さんどうでしょうか。貧しい人―-弱い人、ハンディのある人を憐れみ、救うというのが、私たちの神さまの特徴だからです。

「心の貧しさ」はこのように、謙虚な人や、或いは気の弱い人などと解釈されていますが、釜が崎の本田神父さんはまた違います。

『心』と記されたプネウマのヘブライ語の聖書的な用法から言えば、もっと深いところから捕らえた人間丸ごとを意味しているから、「心底貧しい人たち」と訳しています。

また、「幸いである」と訳されているもともとの意味は「祝福されている」ということで、ヘブライ語の原意は「まっすぐ突き進みなさい」という行動を促す励ましの言葉だといいます。虐げられた現状からの立ち上がりを促す意味なので「神からの力がある」と訳すべきだといっています。幸いであるから、貧しいままでよい、という意味では決してないのです。「貧しい人は幸いである」を誤訳して、「社会的弱者に沈黙を押し付けてきた」とさえ、本田師は言っています。

ですから「心の貧しい人は幸いである」の本田訳は「心底貧しい人たちには、神からの力がある。天の国はその人たちのものである。」と、富も権力も名誉も何もかも無い(失った)裸の者こそ、神の励ましがある、と言って、ルカ福音書の思想をより徹底化しています。しかし、本当に貧しい人には「神からの力」すなわち、恵みがあるのでしょうか。

何故そうなのでしょうか。次回はそこを考えて見ます。


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僕らはそんな状態を味わった事があるだろうか?


周りを見渡してみる。

それらのどれをとっても実は神様が居られなければ存在しないモンだらけにも関わらず

僕らは自分自身で勝ち取ったモノだと勘違いをし続けているのかもしれない。



僕らは心臓の一つをも自分で動かす事も出来ない存在だ。

生かされている全てを与えられている事も知ろうとセズに生きているのが現実なのかもしれない。

本当はそれ高慢なのかも・・・ね。



でも、僕らには誰でも神様に求める事の出来る機会が与えられる。

『 心の貧し 』 さを感じることの出来る時だ。



この心の貧しさを味わう時、

このタイミングに神様に声を上げることが出来ればイイのかも。。。


此処で大切なのは、素直な心。

そのまんまの心が大切なのかもしれない。

神様からしたら、僕ら一人一人は本当に大切な子供達なんだから。

素直な声を待っている。


今か今かと耳を傾け待っている。




『 あわれんでください。 』

心の貧しさは、僕らの力に繋がる言葉。

揺ぎ無い『 愛 』に繋がる時。




今日も神様が備えられた一日。

貧しさも感じる時も多いだろうけど、そのタイミングこそ素敵な出会いを支える環境だから。

素敵を捜しに今日も一緒にでかけましょうね。


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【詩篇122篇】o19  都上りの歌 。ダビデによる


psm122:1  人々が私に、「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。

psm122:2  エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。

psm122:3  エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。

psm122:4  そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するために。

psm122:5  そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。

psm122:6  エルサレムの平和のために祈れ 。「おまえを愛する人々が栄えるように。

psm122:7  おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」

psm122:8  私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」

psm122:9  私たちの神、主の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。


 

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おはようございます。

昨日は寒かったですね・・・。しかし寒暖の差は応えますね。



では早速共に詩篇を。

今日僕の心に届いた言葉はコレ。

psm122:1  人々が私に、「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。




『 主の家 』 とは?

神様の完全に支配される処。

本当はいつも人は其処で過ごすはずだった世界。

神様が全て良しと云われた神様の創造された世界。



じゃ~、その家じゃない処って何処だろう?

それはサタンの支配。




サタンの支配の中では多くの問題があるのは当然だ。

アダムとエバはサタンの言葉を信じ、僕ら人は完全にズレたサタンの支配に移された。

そんな中には本当の喜びは無いよね~。



psm122:1  人々が私に、「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。


解るでしょ~。

そりゃ~そーじゃん。ね。

本来僕らの為に備えられた家なんだから。。





今日僕らは、身体はサタンの支配の中に居るけれども

霊の世界では、いつでも僕らは主の家に入る事が出来る。

それは

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。




主の大庭に入る事ができる。

そこでの喜びは、入ってみなきゃ解らない。


大庭入ってみる?

この主の家の喜びはいつも僕らの傍にあるんだから。


大丈夫。

今日も詩篇の作者と共に

僕らはその主の家を味わう事が出来る。



直ぐに・・・

って訳じゃない場合もあるけど。でも、神様が必ず与えられる喜びを味わえるんだから。


今日も神様が備えられた一日。

隠された素敵を捜しに今日も出かけましょうね~。