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【詩篇124篇】o19 都上りの歌 。ダビデによる
psm124:1 「もしも主が私たちの味方 でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。
psm124:2 「もしも主が私たちの味方 でなかったなら、人々が私に逆らって立ち上がったとき、
psm124:3 そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、
psm124:4 そのとき、大水は私たちを押し流し、流れは私たちを越えて行ったであろう。
psm124:5 そのとき、荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」
psm124:6 ほむべきかな。主。主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。
psm124:7 私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは助け出された。
psm124:8 私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。
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おはようございます。
大飯原発再稼動反対デモを無視する国。NHK。
国は僕らを守るなんて思いは既に無くなってる人は多いのでは・・。
僕らの味方は居ない。
そんな失望感が45000人を動かしたに違いない。
さて、今日も早速共に詩篇を。
今日僕の心に留まった言葉はこれ。
psm124:1 「もしも主が私たちの味方 でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。
誰も味方になってくれないのならば、
僕らは失望の中に膝まづく事しか出来ないのかもしれない。
でも
圧倒的な力をもった神様が僕らの味方なら・・・。
僕らの希望は失望に終わる事が無い。
rom5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を 生み出し、
rom5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
rom5:5 この希望は失望に終わることがありません。
本当の神様に出会った人は恐れがなくなる。
それは、艱難さえも喜ぶ事が出来る程の神様の計画に信頼できるから。
そしてなにより
いつも神様の愛に包まれている事を知ってるからかもしれない。
1jhn4:16 私たちは、私たちに対する神の愛 を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちに おり、神もその人のうちにおられます。
1jhn4:17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さ を持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあって キリストと同じような者であるからです。
1jhn4:18 愛には恐れ がありません。全き愛 は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰 が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
1jhn4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛し てくださったからです。
先ずは
神様に近づく事なのかも。。
神様の愛を体感する事になれば、その意味が解っちゃうんだから。
ど~したら近づける?
礼拝の原語は「プロスクネオ」この意味は近づいてキスをするという意味。
子供が親の膝にのっかってキスをせがむような愛の関係。
僕らはそんな思いで神様に近づく事を神様は求めてるって事。
って具体的にはどうすんの??
先ずは見えない神様を日々意識して、そして声を掛ける事から始まるのかもしれない。
今日もこの作者と共に僕らは近づく事が出来る。
この詩篇を自分の言葉として発する事で。
共に今週も詩篇の作者と共に言葉を発しながら過ごしていきましょうね~。
では。
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http://homepage3.nifty.com/IUCC/amos//mi2.html#mikata
争いあう双方のうち、自分が属している方(の仲間)。本来の表記は【御方】。また【味方】【身方】は当て字であるが、今は「味方」が一般的である(国語辞典)。合い争うこの世 において、【敵味方】 は重要であるが、人間同士の場合、【裏切り】 と言うことが起こる。ですから、【本当の味方】 か、が重要となる。聖書に、全能の神、主イエスご自身が「味方」としてご自分を提示してくださっていることは、私たちにとって大きな慰めである。
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