へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy -25ページ目

へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

。。。。。。。。。。

 

【詩篇25篇】o19  ダビデによる


psm25:1  主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。

psm25:2  わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。

psm25:3  まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。ゆえもなく裏切る者は恥を見ます。

psm25:4 主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道 を私に教えてください。

psm25:5  あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。

psm25:6  主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。

psm25:7  私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。

psm25:8  主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。

psm25:9 主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。

psm25:10  主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。

psm25:11  主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。

psm25:12  主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。

psm25:13  その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。

psm25:14  主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。

psm25:15  私の目はいつも主に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。

psm25:16  私に御顔を向け私をあわれんでください 。私はただひとりで、悩んでいます。

psm25:17  私の心の苦しみが大きくなりました。どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。

psm25:18  私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください。

psm25:19  私の敵がどんなに多いかを見てください。彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいます。

psm25:20  私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。

psm25:21  誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。

psm25:22  神よ。イスラエルを、そのすべての苦しみから贖い出してください。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

昨日は子供を寝かしててそのまま寝てしまったユテコでございます。

疲れは蓄積されているのですね~。




では早速共に詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm25:9 主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。

psm25:12  主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。






何で?



神様は貧しい者だけ・・・って思ったことありませんデした?

少しだけこんな箇所抜粋



貧しい人は幸いか(1)―聖書余話

http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/mazusi.html

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「心の貧しい人」の訳について、東北の方言のケセン語訳聖書を出した気仙沼の山浦さんは、原語の「ホイ プトーホイ トーイ プネウマティ」というのは、「息がふにゃ、ふにゃ、ふにゃと弱いやつ」つまり、「鼻息の弱いやつ」としています。プネウマティは「霊」とか「心」に訳されていますが、原意は人の呼吸・息です。

普通、「鼻息が荒いやつ」というと力と自信に満ちあふれていて、多分懐にはお金がいっぱいうなっている人を言います。その反対の人は、鼻息が弱い人です。

山浦さんは、財力もなければ、社会的な地位もなく、希望もなければ、頼りもなく、もう本当にああ、どうしようと思っている、そういう「鼻息の弱い人」こそ神様の懐にしっかりと抱きしめられて、人間としての本当の幸せに一番近い人だといいます。

ですから「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである」の意味は、「頼りなぐ 望みなぐ 心細い人ァ幸せだ 神様の懐に抱がさんのァ その人達だというケセン語訳にしています。

・・・・・・・・・・


なんかそう思えませんか?



頼りなぐ 望みなぐ 心細い人ァ幸せだ 神様の懐に抱がさんのァ その人達だ



この気仙語訳パシッとくるんです。





貧しい事を知る事で、その人は主を恐れる人に変えられる。

そして


psm25:12  主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。




全て貧しさを知る事から、始まるように思えませんか?



それは、高ぶりが原因のようにも思えてくる。

高ぶっているように思えていなくても、誰の指示も受けずに自分の考えで!!って僕らは自分の考えを優先し続ける。

神様を信じてたって、僕らはいつもそんな思いに誘導されていることを知らされる。



サタンは凄いよ~。侮っちゃダメ。

だから、僕ら自身がいつも貧しい立場で神様を見上げているか確認する必要があるのかもしれないね。




もし、今、貧しさを知っているなら 『 最高の場所 』 にあなたは立っている。

少し高ぶっているのなら、自分の思いにを横に置いておいて、共に詩篇の言葉を発していきませんか?







心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?



僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.



・・・・・・・・・・

詩25篇(1) 「教える」


יָרָה  ヤーラー

・8節「主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。」
・12節「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」

Keyword; 「教える、示す」teach, instruct, 25:8, 12/27:11/32:8/45:4/86:11/119:33, 102

◆「教えられる」と訳されたヤーラーיָרָה(yarah)の本来の意味は大きく三つあります。ひとつは、「投げる」「投げ込む」「(矢を)射る」という意味、次に「雨(初めの雨)を降らせる」、そして「教える」「指示する」「方向付ける」「示す」という意味があります。旧約では46回、詩篇は8回です。

◆ヤーラーיָרָה(yarah)から派生したことば(名詞)として次のようなものがあります。
①ヨーレーיוֹרֶה(yoreh)・・10月の終わり頃から12月の初め頃に降る「初めの雨」。
②モーレーמוֹרֶה(moreh)・ 教師 teacher.
③トーラーתּוֹרָה(torah)・・律法 law

◆詩25篇8, 12節では、教える内容がいずれも「道」デレクדֶרֶך(derek)で単数です。ここで意味する「道」とは、主がなされた救いのみわざとその理解、また、主と神の民とのあるべきかかわりを示すすべての領域における事柄(トーラー)を含んでいます。主なる神はそれをモーセに教え(啓示)、モーセは民たちに教えました。また、祭司や預言者、やがては律法の教師たち、および、家長たちにとっても「教え、導く」ことはきわめて重要な職務でした。神の民にとって「主の道」を学ぶことは、自分たちのアイデンティティをもって生きるために必要不可欠なものでした。それゆえ、神の民はいつでも教えられやすい従順な心が求められました。

◆日本でも「○○道」という生き方につながる精神修養の道があります。スポーツの領域では剣道、柔道、武道、弓道、かかわりの世界では茶道、華道、香道、書道・・など。それぞれの道をきわめるには、師範の教えを受け、学ぶという多くの時間と修練を要しました。このことは、神の民イスラエルが聖なる民としての「道」を歩むためにも同様でした。

◆詩25篇8, 12節には、罪人に対しても、主を恐れる者に対しても、主がそのいつくしみのゆえに「道」を教えられると述べられています。イザヤ書30章にはやがて終りの日に、神自ら最高の教師として姿を表わすことが預言されています。「・・あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。あなたが右に行くにも、左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」と(20~22節)。

◆事実、イエス・キリストがその最高の教師として遣わされました。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはできません。」(14:6)と。イエスご自身が「道」ですが、その教えの源泉は御父であられたことも忘れてはならない事実です。

http://tastehebr.exblog.jp/8702236/

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詩25篇(2)「教える」 לָמַד  ラーマド

〔カテゴリー育成〕

9節「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。」

Keyword; 「教える」teach, learn 18:34/25:4, 5, 9/34:11/51:13/60:7/71:17/94:10, 12/106:35/119:7, 12, 26, 64, 66, 68, 71, 73, 99, 108, 124, 135, 171/132:12/143:10/144:1

  • 「教えることは学ぶこと、学ぶことは教えること」と言われるように、へブル語のラーマド
    לָמַד(lamad)は、この二つの意味(teaching & learning)が結びついた動詞です。旧約では86回、詩篇では最も多く27回使われています。特に、詩119篇7, 71, 73節で「学ぶ」という意味で訳されています。71節は有名なみことばです。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
  • 一つの詩篇の中に「教える」の同義語である「ヤーラー」יָרָה(yarah) と「ラーマド」לָמַד
    (lamad)を用いているのは詩25篇と詩119篇のみです。詩篇の次に「ラーマド」לָמַד(lamad)が用いられているのは申命記で17回。しかも不思議なことに、トーラーと言われるモーセ五書の中で申命記にしか出てこない動詞です。ということは、申命記は徹底的に「教えの書」だと言えます。(4:1, 5, 10, 14/5:1, 31/6:1/11:19/14:23/17:19/18:9/20:8/31:12, 13, 19, 22)
  • 申命記17章では、王に対しても、神の教えを学ぶことの大切さが訴えられています。「王がその王座に着くようになったなら、・・自分のために、このみおしえ(トーラー)を書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行うことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。」(18~20)
  • イスラエルの歴史において、「主のみおしえ」と「主の道」を徹底的に学ぶようになったのはバビロン捕囚以降でした。その辱しめの経験を通して、自分たちのアイデンティティは、神から与えられた律法(トーラー)にあることを悟り、詩1篇にもあるように、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(瞑想する)」ようになったのです。
  • 「主は、貧しい者にご自身の道を教えられる。」(25:9)とあるように、神の民である者がいつの時代においても主の教えを真剣に学び、主の道を自分の生活の規範として生きることを望んでおられます。それゆえ、使徒パウロは愛弟子のテモテに対して、「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分をささげるよう、務め励みなさい。」(Ⅱテモテ2章15節)と書き送っています。
  • また、「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のたるに有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(同、3章1~17節)

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs25%282%29

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【詩篇24篇】o19  ダビデの賛歌


psm24:1  地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のもの である。

psm24:2  まことに主は、海に地の基を 据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。

psm24:3  だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。

psm24:4  手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいこと に向けず、欺き誓わなかった人。

psm24:5  その人は主から祝福を受け 、その救いの神から義を受ける。

psm24:6  これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求め る人々、ヤコブである。セラ

psm24:7  門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。

psm24:8  栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。

psm24:9  門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。

psm24:10  その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。セラ

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おはようございます。

なんと・・・卓球団体 銀メダルですね。おめでとー!!

サッカーも負けちゃったけど、三位決定戦応援してるぞ~!



ってな事で早速共に詩篇を。

今日僕の心に留まった言葉はこんな言葉。

psm24:7  門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。





はいって来られる。

全知全能の神様が僕ら一人一人に関心を示し、入りたいと願っておられるという言葉。



凄くない!?



ホンマに。








今日の説明文解り易いので・・・。

  • ヨハネの黙示録3章20節に、主イエスが「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼の所にはいって、彼とともに食事をし、彼も私とともに食事をする。」と語っておられます。ユダヤにおいて、「食事をともにする」ということは最も親しいかかわりを表わします。イエスは自分を裏切った弟子たちのために、朝食(炭火で焼いた魚とパン)を備えて岸辺で待っておられました。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」ヨハネの福音書21章参照。それはイエスが弟子たちのすべての罪を赦して、かかわりを持とうとして歓迎しておられる姿です。





  • こんな僕に。


    こんな適当な奴なのに??









    あるたたとえ話を思い出した。


    ・・・・・


    学校だったのかな?教会だったのかな?

    講師の人が、生徒にお札を見せてこんな事を言った。


    『 この1ドル札は、いくらの価値がありますか? 』


    『 当然、1ドルだ 』という返答の声が上がった。




    ならば・・・

    『 何度も踏んづけながら、こうしてコウシテやったら、どう幾らになる? 』

    なんて再度質問。


    また

    『 当然、1ドルだ 』という返答の声が上がった。





    ほんなら・・・

    『 手でグチャグチャに丸めて、シワクチャにしてみたらどーや? 』


    また

    『 当然、1ドルだ 』という返答の声が上がった。



    ・・・・・



    僕らは知らなければならない。

    僕らの価値は僕らには判断出来ないものだと云う事を。。




    僕らは特別に

    神様に、一人一人を 『 高価で尊 』 く 創られたんだから。






    自分で私はダメ!!だなんて言っちゃダメ。。

    だって

    僕らは栄光の王がはいって来たいと願ってる程の人なんだから。


    僕らに会う為に、神様は今ここに居られるんだから。




    自分の小さな頭で考えようとしないで。

    僕らの頭を創られた神様は、僕らの頭では計ることが出来るわけが無い。

    神様の手の業は、信じられないほど素晴らしい筈なんだから。










    僕らは特別なんだ。


    だから、今日もダビデさんの言葉に心を合わせて発していきませんか?






    心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
    だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?



    僕らは今日も大丈夫!!


    神様・・

    eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

    eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

    eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


    ジーザス(イェス様)の名前で
    a-men.




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    詩24篇「入って来る」 בּוֹא ボー

    〔カテゴリー統治〕

    7節
    「門よ。おまえのかしらを上げよ。永遠の扉よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。」

    Keyword; 「入る」 come in

    • 神の恩寵は、神が私たちとかかわるかかわり方にあります。それは、決して強制的ではなく、あくまでも、私たちの自発性が重んじられるという点においてみられる恩寵です。まさに、自由意思にこそ人間の尊厳性があります。
    • 「門よ。おまえのかしらを上げよ。永遠の扉よ。上がれ。」という表現は、私たちが神に対して自らの心を開くようにとの命令(うながし)です。もし、私たちの心を開くならば、栄光に輝く王が私たちのうちに入ってきてくださり、深くかかわってくださいます。
    • 詩100篇では、主を礼拝する者に向かって、「来たれבּוֹא(bo')、入れבּוֹא(bo')」と命じていますが、詩24篇では、王である神が人の心の中に入るために、「門よ、おまえのこうべを上げよ(lift up)」と促しています。モファット訳では、Welcome the glorious King!
    • ヨハネの黙示録3章20節に、主イエスが「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼の所にはいって、彼とともに食事をし、彼も私とともに食事をする。」と語っておられます。ユダヤにおいて、「食事をともにする」ということは最も親しいかかわりを表わします。イエスは自分を裏切った弟子たちのために、朝食(炭火で焼いた魚とパン)を備えて岸辺で待っておられました。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」ヨハネの福音書21章参照。それはイエスが弟子たちのすべての罪を赦して、かかわりを持とうとして歓迎しておられる姿です。
    • 「来る」、「入る」も同じくボーבּוֹא(bo')で表わされますが、礼拝用語にもなれば、恩寵用語にもなります。そして深いかかわりを表わす動詞です。つまり、神が私たちと深くかかわることを「神が私のところに入る」と表現しています。
    • ところで、詩24篇の構造を概観してみると、1~2節は、全世界のその中に住む(存在する)ものは主のものであるという宣言です。またすべてのものはかかわりをもって存在しています。かかわりになしに存在しえるものはなにひとありません。海―地―川、すべてがつながっています。そのような世界を創造された主の前に立ち得るのかはだれがという問いが3~6節です。
    • 結論を言うならば、ヤコブという人物でくくられる神を求める者の一族、主の御顔を慕い求める人々です。しかし、その者たちでさえも、彼らが神に対して、心の「門」、心の「扉」を開くことなくしては、決して神とて入ることーすなわち親しいかかわりを持つことーができないのです。ですから、「門よ。おまえのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ」と命じられています。
    • ちなみに、この詩24篇では、「上げる」ナサーנָשָׂא(nasa')という動詞が6回(4, 5, 7, 7, 9, 9)も使われています。すべて神に対する人間側の行為を表わす動詞です。

    http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs24

    ・・・・・・・・・

    。。。。。。。。。。

    【詩篇23篇】o19  ダビデの賛歌


    psm23:1 主は私の羊飼い 。私は、乏しいことがありません。

    psm23:2 主は私を緑の牧場 に伏させ、いこいの水のほとり に伴われます。

    psm23:3  主は私のたましいを生き返らせ、御吊のために、私を義の道に導かれます。

    psm23:4 たとい、死の陰 の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰め です。

    psm23:5  私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

    psm23:6  まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。


     

    。。。。。。。。。。


    おはようございます。

    昨日なでしこを応援してて寝ぼう・・・。


    なので早速共に詩篇を。

    今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

    psm23:1 主は私の羊飼い 。私は、乏しいことがありません。







    これは、僕のカナリのお気に入りの言葉。

    暗記して

    いつも言葉を発していた。



    何故だろう?





    それは

    僕の目には貧しすぎて、乏しすぎた状況が続き

    希望がほぼ失われつつあったからだ。




    目に見えるものを受け入れることで

    神様が用意されている真実を見ることが出来なくなる可能性が高くなるから。




    神様が用意されているモノが目の前にあっても

    真実を見る目を失望によって失えば、それを受け取れなくなると知ったから。





    是非

    暗記して、失望してまう時、ガンガン呟きませんか?




    心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
    だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?



    僕らは今日も大丈夫!!


    神様・・

    eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

    eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

    eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


    ジーザス(イェス様)の名前で
    a-men.



    ・・・・・・・・・・・

    詩23篇「伏させる」 רָבַץ ラーヴァツ

    〔カテゴリー育成〕

    2節「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」(新改訳)
    2節「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い」(新共同訳)

    Keyword; 「臥させる、休ませる」 make lie down, lay down 23:2/104:22

    • 「主は私を緑の牧場に伏させ」の「伏させる」という動詞は、「横たわる」「臥す」を意味するラーヴァツרָבַץ(ravats)の未完了、使役・能動態が使われ、「臥させて休ませる」という意味です。旧約では30回、詩篇では2回(23:2, 104:22)しか使われていません。
    • 羊がお腹いっぱい草を食べたあと、柔らかな草を食べて満腹した羊が、満足そうに、ゆったりと休んでいる姿をイメージさせます。まさにここのテーマは「休息」、ないしは「安息」です。
    • ゆとりのない忙しい生活、万年疲労の生活の行き着くところはどこでしょう。必ずいつかは倒れます。張りつめた弓の糸をゆるめるように、緊張を解く時が必要です。良い羊飼いとかかわることで、私たちに必要な休息が与えられるのです。主イエスは言われました。「すべて疲れた人、重荷をもっている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と約束しておられます。
    • 音楽の流れにも休符があります。ときには、「ゲネラル・ポーズ」といって一瞬の完全休止があります。その一瞬の完全終止は、音楽の流れに、より緊迫感と流れに新鮮さを与えます。私たちの生活にもそのような休息がなければなりません。
    • いつもなにかをしていないと不安になってしまうワーカーホリック。それは休みたくても休めない現代の心の病です。詩篇の中には、真の休息、ゆとり、安眠の祝福を与えられた者たちがいます。ちなみに、イエス・キリスト自身がそうでしたし、
    • 詩3篇、詩4篇もその恵みを味わった人がおります。「私は身を横たえて(伏して)、眠る。私はまた目をさます。主が支えてくださるから。」(3:5) 「あなたは、私の苦しみのときに、ゆとり(くつろぎ)を与えてくださいました。」(4:1) 「平安のうちに私は身を横たえ、すぐに眠りにつきます。主よ。あたなだけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(4:8)・・ここでの「身を横たえる、伏して」のへブル語動詞はシャーハヴשָׁכַב(shaphab)が使われています。
    • ある意味で、人生の最大の課題は、どのようにして身を横たえて休息し、また眠ることができるかということです。身を横たえることはだれでもできます。しかし問題は、安らかに眠れるかどうかです。詩篇の作者は、「私の羊飼いである主は、私を緑の牧場に伏させてくださる」方であると告白しています。現代のだれもが、心の安心、安定、安息を求めています。主にある安息の祝福は私たちの生涯をかけるほどの価値があると信じます。

    http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs23

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    【詩篇22篇】o19  指揮者のために。「暁の雌鹿《の調べに合わせて。ダビデの賛歌


    psm22:1  わが神、わが神 。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

    psm22:2  わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。

    psm22:3  けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

    psm22:4  私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。

    psm22:5  彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。

    psm22:6  しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。

    psm22:7  私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。

    psm22:8  「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」

    psm22:9  しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。

    psm22:10  生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。

    psm22:11  どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。

    psm22:12  数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。

    psm22:13  彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。

    psm22:14  私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。

    psm22:15  私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上 に置かれます。

    psm22:16  犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。

    psm22:17  私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。

    psm22:18  彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。

    psm22:19  主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。

    psm22:20  私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。

    psm22:21  私を救ってください 。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。

    psm22:22  私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。

    psm22:23  主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。

    psm22:24  まことに、主は悩む者 の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠され もしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。

    psm22:25  大会衆の中での私の賛美はあなたから出たものです。私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果た します。

    psm22:26  悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々 は、主を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。

    psm22:27  地の果て果て もみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。

    psm22:28  まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治め ておられる。

    psm22:29  地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。

    psm22:30  子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。

    psm22:31  彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。

    。。。。。。。。。。


    おはようございます。

    暑い日が続きますね。お盆前の1週間。

    少し身体はバテますが、踏ん張ってまいりましょう。



    では早速共に詩篇を。

    今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

    psm22:21  私を救ってください 。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。





    いつもイイ状況のままだという事はない。

    大変な時期をみんな通ることがある。

    それは、この世がサタンが支配しているから起こること。



    だから、あのダビデさんも

    こんなにも自分を卑下というか、こんな言葉を発している。

    psm22:6  しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。





    虫けら・・・。








    僕もそう感じられた時期を通ったことがある。

    しかし、その時期はホンマに大変!!


    誰をも信頼できず、将来も見えず

    どないしたらいいかも解らない状況のなか膝を抱える事しか出来なかった。



    そんな中、

    ダビデさん よくこんな言葉発することができましたよね。

    あなたは私に答えてくださいます。






    答えが与えられる前から・・・。

    それは何故か?



    神様の約束は絶対に破られることが無い~!!

    堅く信じることが出来てたからに違いないですね。




    あなたは私に答えてくださいます。







    僕らが今、どんな状況におかれていても大丈夫。

    それは

    サタンが神様からの約束を僕らに受けさせたくないから

    僕らの将来を見る目を曇らせて、無いかのようにしているだけだから・・。



    負けないで!!


    事実はどんな事があっても変わらない。

    大丈夫。




    神様の約束が将来ない筈がない。

    だって

    本気で僕らを愛された神様は、ジーザスが死んでまでも僕らを愛されているんだから。

    バイブルはその神様の僕らへの約束の言葉なんだから。


    わたしは、決してあなたを 離れずあなたを捨てない。




    騙されないで・・。

    しっかり踏ん張ってやりましょう。


    でも

    今、踏ん張る力がなくても大丈夫。


    僕がその為に祈るから。

    あなたを本気で愛される神様と一緒に。 ネ。






    心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
    だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?



    僕らは今日も大丈夫!!


    神様・・

    eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

    eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

    eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。

    ジーザス(イェス様)の名前で
    a-men.


    ・・・・・・・・・・

    詩22篇「答える」 עָנָה アーナー

    〔カテゴリー愛顧〕

    21節「あなたは私に答えてくださいます。」(新改訳)
    21節「わたしに答えてください。」(新共同訳)
    21節「あなたは私にお答えになった。」(岩波訳)

    Keyword; 「答える」 answer,
    3:4/4:1/13:3/17:6/18:41/20:1, 6, 9/22:2, 21/27:7/34:4/35:18/55:2/60:5/65:5/69:13, 16, 17/
    81:7/86:1, 7/91:15/99:6, 8/102:2/108:6/118:5, 21/119:26, 42,145/120:1/138:3/143:1, 7

    • 詩22篇21節の「あなたは私に答えてくださいます」というこの1節だけを取って見るならば、特別なバースとは思えませんが、詩22篇の全体を見たときに、このバースから内容が一転し、「嘆き」から「賛美」に変わる転換点となっていることに気づきます。
    • 「答える」と訳されたアーナーעָנָה(`anah)は、旧約で313回、詩篇では36回使われていますが、そのほとんどがanswerです。21節をいろいろな訳で見てみると、
      ①新改訳では、「答えてくださいます」という確信で訳されています。
      ②新共同訳では、「答えてください」と嘆願で訳されています。
      ③岩波訳、関根訳では、「答えてくださった」と完了形で訳しています。
      ④口語訳、フランシスコ会訳はこの部分を訳していません。
      ⑤月本訳では、「あなたはわたしに応えてくださった。」と完了形で訳しています。
    • 原文では、アニターニעֲנִיתָנִיとなっていて、この解釈をめぐってさまざまな訳がなされているようです。新共同訳は完了形の動詞を嘆願の意味に訳していますが、他の訳では完了形のままに「答えてくださった」と訳しています。新改訳では「答えてくださいます」という確信の意味に訳しています。へブル語では、確かに実現することは、たとえそれが今実際には実現していなくても完了形(確信の完了形)で表わされます。ですから、ここではまだ目に見えるような形では答えられていないにもかかわらず、信仰によってその答えがすでに与えられたことを意味します。そのことによって、作者の嘆きが賛美に変わっているのです。これは信仰による勝利ともいうべきもので、きわめで重要です。
    • ちなみに、アーナーעָנָה(`anah)は、「悩む」(107:17/116:10/119:107)「苦しむ」(119:67) の同音異義です。

    http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs22

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