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【詩篇24篇】o19 ダビデの賛歌
psm24:1 地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のもの である。
psm24:2 まことに主は、海に地の基を 据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。
psm24:3 だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。
psm24:4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいこと に向けず、欺き誓わなかった人。
psm24:5 その人は主から祝福を受け 、その救いの神から義を受ける。
psm24:6 これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求め る人々、ヤコブである。セラ
psm24:7 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。
psm24:8 栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
psm24:9 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。
psm24:10 その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。セラ
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おはようございます。
なんと・・・卓球団体 銀メダルですね。おめでとー!!
サッカーも負けちゃったけど、三位決定戦応援してるぞ~!
ってな事で早速共に詩篇を。
今日僕の心に留まった言葉はこんな言葉。
psm24:7 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。
はいって来られる。
全知全能の神様が僕ら一人一人に関心を示し、入りたいと願っておられるという言葉。
凄くない!?
ホンマに。
今日の説明文解り易いので・・・。
こんな僕に。
こんな適当な奴なのに??
あるたたとえ話を思い出した。
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学校だったのかな?教会だったのかな?
講師の人が、生徒にお札を見せてこんな事を言った。
『 この1ドル札は、いくらの価値がありますか? 』
『 当然、1ドルだ 』という返答の声が上がった。
ならば・・・
『 何度も踏んづけながら、こうしてコウシテやったら、どう幾らになる? 』
なんて再度質問。
また
『 当然、1ドルだ 』という返答の声が上がった。
ほんなら・・・
『 手でグチャグチャに丸めて、シワクチャにしてみたらどーや? 』
また
『 当然、1ドルだ 』という返答の声が上がった。
・・・・・
僕らは知らなければならない。
僕らの価値は僕らには判断出来ないものだと云う事を。。
僕らは特別に
神様に、一人一人を 『 高価で尊 』 く 創られたんだから。
自分で私はダメ!!だなんて言っちゃダメ。。
だって
僕らは栄光の王がはいって来たいと願ってる程の人なんだから。
僕らに会う為に、神様は今ここに居られるんだから。
自分の小さな頭で考えようとしないで。
僕らの頭を創られた神様は、僕らの頭では計ることが出来るわけが無い。
神様の手の業は、信じられないほど素晴らしい筈なんだから。
僕らは特別なんだ。
だから、今日もダビデさんの言葉に心を合わせて発していきませんか?
心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?
僕らは今日も大丈夫!!
神様・・
eps1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、私に与えてくださいますように。
eps1:18 また、私の心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
eps1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私が知ることができますように。
ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.
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詩24篇「入って来る」 בּוֹא ボー
〔カテゴリー統治〕
7節
「門よ。おまえのかしらを上げよ。永遠の扉よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。」
Keyword; 「入る」 come in
- 神の恩寵は、神が私たちとかかわるかかわり方にあります。それは、決して強制的ではなく、あくまでも、私たちの自発性が重んじられるという点においてみられる恩寵です。まさに、自由意思にこそ人間の尊厳性があります。
- 「門よ。おまえのかしらを上げよ。永遠の扉よ。上がれ。」という表現は、私たちが神に対して自らの心を開くようにとの命令(うながし)です。もし、私たちの心を開くならば、栄光に輝く王が私たちのうちに入ってきてくださり、深くかかわってくださいます。
- 詩100篇では、主を礼拝する者に向かって、「来たれבּוֹא(bo')、入れבּוֹא(bo')」と命じていますが、詩24篇では、王である神が人の心の中に入るために、「門よ、おまえのこうべを上げよ(lift up)」と促しています。モファット訳では、Welcome the glorious King!
- ヨハネの黙示録3章20節に、主イエスが「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼の所にはいって、彼とともに食事をし、彼も私とともに食事をする。」と語っておられます。ユダヤにおいて、「食事をともにする」ということは最も親しいかかわりを表わします。イエスは自分を裏切った弟子たちのために、朝食(炭火で焼いた魚とパン)を備えて岸辺で待っておられました。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」ヨハネの福音書21章参照。それはイエスが弟子たちのすべての罪を赦して、かかわりを持とうとして歓迎しておられる姿です。
- 「来る」、「入る」も同じくボーבּוֹא(bo')で表わされますが、礼拝用語にもなれば、恩寵用語にもなります。そして深いかかわりを表わす動詞です。つまり、神が私たちと深くかかわることを「神が私のところに入る」と表現しています。
- ところで、詩24篇の構造を概観してみると、1~2節は、全世界のその中に住む(存在する)ものは主のものであるという宣言です。またすべてのものはかかわりをもって存在しています。かかわりになしに存在しえるものはなにひとありません。海―地―川、すべてがつながっています。そのような世界を創造された主の前に立ち得るのかはだれがという問いが3~6節です。
- 結論を言うならば、ヤコブという人物でくくられる神を求める者の一族、主の御顔を慕い求める人々です。しかし、その者たちでさえも、彼らが神に対して、心の「門」、心の「扉」を開くことなくしては、決して神とて入ることーすなわち親しいかかわりを持つことーができないのです。ですから、「門よ。おまえのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ」と命じられています。
- ちなみに、この詩24篇では、「上げる」ナサーנָשָׂא(nasa')という動詞が6回(4, 5, 7, 7, 9, 9)も使われています。すべて神に対する人間側の行為を表わす動詞です。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs24
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