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【詩篇25篇】o19 ダビデによる
psm25:1 主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。
psm25:2 わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。
psm25:3 まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。ゆえもなく裏切る者は恥を見ます。
psm25:4 ★ 主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道 を私に教えてください。
psm25:5 あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。
psm25:6 主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。
psm25:7 私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。
psm25:8 主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。
psm25:9 ★ 主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。
psm25:10 主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。
psm25:11 主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。
psm25:12 主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。
psm25:13 その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。
psm25:14 主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。
psm25:15 私の目はいつも主に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。
psm25:16 私に御顔を向け 、私をあわれんでください 。私はただひとりで、悩んでいます。
psm25:17 私の心の苦しみが大きくなりました。どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。
psm25:18 私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください。
psm25:19 私の敵がどんなに多いかを見てください。彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいます。
psm25:20 私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。
psm25:21 誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。
psm25:22 神よ。イスラエルを、そのすべての苦しみから贖い出してください。
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おはようございます。
昨日は子供を寝かしててそのまま寝てしまったユテコでございます。
疲れは蓄積されているのですね~。
では早速共に詩篇を。
今日僕の心に留まったのはこんな言葉。
psm25:9 ★ 主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。
psm25:12 主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。
何で?
神様は貧しい者だけ・・・って思ったことありませんデした?
少しだけこんな箇所抜粋
貧しい人は幸いか(1)―聖書余話
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/mazusi.html
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「心の貧しい人」の訳について、東北の方言のケセン語訳聖書を出した気仙沼の山浦さんは、原語の「ホイ プトーホイ トーイ プネウマティ」というのは、「息がふにゃ、ふにゃ、ふにゃと弱いやつ」つまり、「鼻息の弱いやつ」としています。プネウマティは「霊」とか「心」に訳されていますが、原意は人の呼吸・息です。
普通、「鼻息が荒いやつ」というと力と自信に満ちあふれていて、多分懐にはお金がいっぱいうなっている人を言います。その反対の人は、鼻息が弱い人です。
山浦さんは、財力もなければ、社会的な地位もなく、希望もなければ、頼りもなく、もう本当にああ、どうしようと思っている、そういう「鼻息の弱い人」こそ神様の懐にしっかりと抱きしめられて、人間としての本当の幸せに一番近い人だといいます。
ですから「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである」の意味は、「頼りなぐ 望みなぐ 心細い人ァ幸せだ 神様の懐に抱がさんのァ その人達だ」というケセン語訳にしています。
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なんかそう思えませんか?
頼りなぐ 望みなぐ 心細い人ァ幸せだ 神様の懐に抱がさんのァ その人達だ」
この気仙語訳パシッとくるんです。
貧しい事を知る事で、その人は主を恐れる人に変えられる。
そして
psm25:12 主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。
全て貧しさを知る事から、始まるように思えませんか?
それは、高ぶりが原因のようにも思えてくる。
高ぶっているように思えていなくても、誰の指示も受けずに自分の考えで!!って僕らは自分の考えを優先し続ける。
神様を信じてたって、僕らはいつもそんな思いに誘導されていることを知らされる。
サタンは凄いよ~。侮っちゃダメ。
だから、僕ら自身がいつも貧しい立場で神様を見上げているか確認する必要があるのかもしれないね。
もし、今、貧しさを知っているなら 『 最高の場所 』 にあなたは立っている。
少し高ぶっているのなら、自分の思いにを横に置いておいて、共に詩篇の言葉を発していきませんか?
心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?
僕らは今日も大丈夫!!
神様・・
eps1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、私に与えてくださいますように。
eps1:18 また、私の心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
eps1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私が知ることができますように。
ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.
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詩25篇(1) 「教える」 |
・8節「主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。」
・12節「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」
Keyword; 「教える、示す」teach, instruct, 25:8, 12/27:11/32:8/45:4/86:11/119:33, 102
◆「教えられる」と訳されたヤーラーיָרָה(yarah)の本来の意味は大きく三つあります。ひとつは、「投げる」「投げ込む」「(矢を)射る」という意味、次に「雨(初めの雨)を降らせる」、そして「教える」「指示する」「方向付ける」「示す」という意味があります。旧約では46回、詩篇は8回です。
◆ヤーラーיָרָה(yarah)から派生したことば(名詞)として次のようなものがあります。
①ヨーレーיוֹרֶה(yoreh)・・10月の終わり頃から12月の初め頃に降る「初めの雨」。
②モーレーמוֹרֶה(moreh)・ 教師 teacher.
③トーラーתּוֹרָה(torah)・・律法 law
◆詩25篇8, 12節では、教える内容がいずれも「道」デレクדֶרֶך(derek)で単数です。ここで意味する「道」とは、主がなされた救いのみわざとその理解、また、主と神の民とのあるべきかかわりを示すすべての領域における事柄(トーラー)を含んでいます。主なる神はそれをモーセに教え(啓示)、モーセは民たちに教えました。また、祭司や預言者、やがては律法の教師たち、および、家長たちにとっても「教え、導く」ことはきわめて重要な職務でした。神の民にとって「主の道」を学ぶことは、自分たちのアイデンティティをもって生きるために必要不可欠なものでした。それゆえ、神の民はいつでも教えられやすい従順な心が求められました。
◆日本でも「○○道」という生き方につながる精神修養の道があります。スポーツの領域では剣道、柔道、武道、弓道、かかわりの世界では茶道、華道、香道、書道・・など。それぞれの道をきわめるには、師範の教えを受け、学ぶという多くの時間と修練を要しました。このことは、神の民イスラエルが聖なる民としての「道」を歩むためにも同様でした。
◆詩25篇8, 12節には、罪人に対しても、主を恐れる者に対しても、主がそのいつくしみのゆえに「道」を教えられると述べられています。イザヤ書30章にはやがて終りの日に、神自ら最高の教師として姿を表わすことが預言されています。「・・あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。あなたが右に行くにも、左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」と(20~22節)。
◆事実、イエス・キリストがその最高の教師として遣わされました。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはできません。」(14:6)と。イエスご自身が「道」ですが、その教えの源泉は御父であられたことも忘れてはならない事実です。
http://tastehebr.exblog.jp/8702236/
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詩25篇(2)「教える」 לָמַד ラーマド
〔カテゴリー育成〕
9節「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。」
Keyword; 「教える」teach, learn 18:34/25:4, 5, 9/34:11/51:13/60:7/71:17/94:10, 12/106:35/119:7, 12, 26, 64, 66, 68, 71, 73, 99, 108, 124, 135, 171/132:12/143:10/144:1
- 「教えることは学ぶこと、学ぶことは教えること」と言われるように、へブル語のラーマド
לָמַד(lamad)は、この二つの意味(teaching & learning)が結びついた動詞です。旧約では86回、詩篇では最も多く27回使われています。特に、詩119篇7, 71, 73節で「学ぶ」という意味で訳されています。71節は有名なみことばです。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
- 一つの詩篇の中に「教える」の同義語である「ヤーラー」יָרָה(yarah) と「ラーマド」לָמַד
(lamad)を用いているのは詩25篇と詩119篇のみです。詩篇の次に「ラーマド」לָמַד(lamad)が用いられているのは申命記で17回。しかも不思議なことに、トーラーと言われるモーセ五書の中で申命記にしか出てこない動詞です。ということは、申命記は徹底的に「教えの書」だと言えます。(4:1, 5, 10, 14/5:1, 31/6:1/11:19/14:23/17:19/18:9/20:8/31:12, 13, 19, 22)
- 申命記17章では、王に対しても、神の教えを学ぶことの大切さが訴えられています。「王がその王座に着くようになったなら、・・自分のために、このみおしえ(トーラー)を書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行うことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。」(18~20)
- イスラエルの歴史において、「主のみおしえ」と「主の道」を徹底的に学ぶようになったのはバビロン捕囚以降でした。その辱しめの経験を通して、自分たちのアイデンティティは、神から与えられた律法(トーラー)にあることを悟り、詩1篇にもあるように、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(瞑想する)」ようになったのです。
- 「主は、貧しい者にご自身の道を教えられる。」(25:9)とあるように、神の民である者がいつの時代においても主の教えを真剣に学び、主の道を自分の生活の規範として生きることを望んでおられます。それゆえ、使徒パウロは愛弟子のテモテに対して、「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分をささげるよう、務め励みなさい。」(Ⅱテモテ2章15節)と書き送っています。
- また、「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のたるに有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(同、3章1~17節)
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs25%282%29
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