へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy -24ページ目

へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

。。。。。。。。。。


【詩篇29篇】o19  ダビデの賛歌


psm29:1  力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。

psm29:2  御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。

psm29:3  主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴 を響かせる。主は、大水の上にいます。

psm29:4  主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。

psm29:5  主の声は、杉の木を引き裂く。まことに、主はレバノンの杉の木を打ち砕く。

psm29:6  主は、それらを、子牛のように、はねさせる。レバノンとシルヨンを若い野牛のように。

psm29:7  主の声は、火の炎を、ひらめかせる。

psm29:8  主の声は、荒野をゆすぶり、主は、カデシュの荒野を、ゆすぶられる。

psm29:9  主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする 。その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。

psm29:10  主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。

psm29:11 主は、ご自身の民 に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

お久しぶりです。

昨朝帰阪して、モウロウトスル中で仕事を終え、ようやく睡眠して復活しました。

皆さんどんなお休みを過ごされましたか?



今日も素敵に過ごせますように。

では早速ダビデさんの詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm29:10  主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。

psm29:11 主は、ご自身の民 に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。





全てを支配される神様が、

ご自身の民に力をお与えになられてる。



この世はサタンの支配下にあるが

その上で神様は支配される。



神様の支配を受けるには、サタンの支配でも必ず神様がされる!と信じる事が必要。



目に見える・体感させられるサタンの働きを受け入れる(信じる)のは簡単だ。

でも

目に見えない、バイブルにある約束を受け入れる(信じる)ことは正直難しい。





信じることによってその支配を受けることになるのなら・・・

僕らは何を信じるかを意識して過ごさなければならない。。



安易に目に見えるものを受け入れていませんか?

僕らは実はサタンに従ってる事が多いのかもしれませんね。





身体がシンドイ

世の中に疲れているのなら

真実に支配されている神様を益々選んで信じて過ごしたいですね~。




では、今日も何を選ぶのか?

しっかり意識して過ごしましょうね。





心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?



僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.




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詩29篇「(御座に)着く」 יָשַׁב ヤーシャヴ

〔カテゴリー統治〕

10節
「主は大洪水のときに御座に着かれた。主は、とこしえの王として御座に着いておられる。」

Keyword; 「着く、着座する」 sit, enthroned, rule, reign, dwell, seat,
2:4/9:4, 7, 11/22:3/29:10, 10/33:14/47:8/68:16/80:1/99:1/102:12/110:1/113:5, 8, 9/123:1/

  • ヤーシャヴיָשַׁב(yashav)は旧約全体で1,084回、詩篇でも61回という使用頻度の多い動詞です。原意は「座る」(to sit、sit down)で、そこからさまざまな意味が派生して用いられています。「住む」(to dwell)、「とどまる」(to remain, to abide)、「暮らす」(to live)、「王座に着く、御座に着く」(sit enthrond)、等。
  • このヤーシャヴיָשַׁב(yashav)は、人にも神にも使われますが、神に使われる場合には「座す、住む」ことが、神として最もふさわしいところにおられることを意味します。たとえば、有名な詩22篇4節に、「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(新改訳)、「イスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なる方です。」(口語訳)とあるように、聖なる神が座すところ、住まうところは「御座」あるいは、「王座」と呼ばれます。そこにおいて、神はすべてのものを統治し、愛をもって支配しておられます。と同時に、天におられる神は神に逆らって立つ者に対して、その無力さのゆえに、「笑っておられる―(全く問題とされないという意味で)」(詩2篇4節)のです。
  • 詩29篇10節の「主は大洪水のときに御座に着かれた」とは、神の裁きの権威を意味します。この権威は王としてのものであり、神による永遠の統治用語です。この動詞がなぜ恩寵用語かというならば、神は正義をもって全宇宙を支配されるゆえに、私たちは自分から報復の必要はないからです。神が正義をもってすべてを裁かれる時が来るからです。
  • 新約のエペソ人への手紙の重要なキーワードの一つは「座す」という動詞です。「座す」ことがなければ、「歩く」ことも「立つ」こともできません。神がキリストをよみがえらせた究極の目的は「天の所に座らせる」ことです。「神は全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」(エペソ1:20,21) とあるとおりです。
  • 神の右の座とは「勝利の場」であると同時に、「最も信頼されているあかしの場」です。このキリストとともに、私たちは、「生かされ」「よみがえらされ」「天の所に座らせて」くださったのです(同、2:6)。これは詩113篇5~9節の成就です。
  • 驚くべきことに、そこは天にあるすべての祝福の場所であり、神のすべての権威の基がある場所です。キリストが神の右に座すことによって、私たちにも「御座の祝福」が与えられているのです。このことを信じる者は幸いです。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs29

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ごめんなさい。
夜中に出発して、夏休みに田舎にきてます。
あのオスプレイで話題の岩国が僕の故郷です。

今晩から
電波のつながらない場所に入るので少しお休み。。



申し訳ありませんが、16日までお休み。
勝手ですがσ(^_^;)
よろしくお願いいたします。



では
素敵な休日を過ごされますように。

。。。。。。。。。。。

 

【詩篇28篇】o19  ダビデによる


psm28:1  主よ。私はあなたに呼ばわります。私の岩よ。どうか私に耳を閉じないでください。私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。

psm28:2  私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるとき。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。

psm28:3  どうか、悪者どもや不法を行なう者どもといっしょに、私をかたづけないでください。彼らは隣人と 平和を語りながら、その心には悪がある のです。

psm28:4  彼らのすることと、彼らの行なう悪にしたがって、彼らに報いてください。その手のしわざにしたがって彼らに報い、その仕打ちに報復してください。

psm28:5  彼らは、主のなさることもその御手のわざをも悟らないので、主は、彼らを打ちこわし、建て直さない。

psm28:6  ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。

psm28:7 主は私の力、私の盾 。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。

psm28:8  主は、彼らの力。主は、その油そそがれた者 の、救いのとりで。

psm28:9  どうか、御民を救ってください 。あなたのものである民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください。

。。。。。。。。。。。


おはようございます。

いよいよ、今晩オスプレイの待つ実家岩国に旅立ちます。

3日間だけだけど・・・。

その為に今日もお仕事行ってきま~す。



では今日も共に詩篇を。

今日、僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm28:6  ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。

psm28:7 主は私の力、私の盾 。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。







ダビデさんはこう言ってるよね。



私の願いの声を聞かれた。

  ↓

私は助けられた。

  ↓

主に感謝しよう。





なんか、普通で考えると可笑しくない???

僕らの立場でみるならば



願いの声を発した。

   ↓

なんとか助けようと努力をして貰う。

   ↓

ようやく解決策がまとまり、実行することになる。

   ↓

時がようやく満ちて実行。

   ↓

解決策 大成功!

   ↓

感謝だわ~!の感情爆発!





どうでしょう・・・。


僕らは、人間だ。

肉体によって行動を制限され

時間によって制限された人間に過ぎない。



しかし

神様は、何にも制限されるものが無い。

しかも、時をも超越されている全ての支配者だ。





それを

ダビデさんは体感していた。

mar11:24  だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。




祈りってホンマ凄いものだ。



僕らはそんな祈りを神様から与えられている。

そりゃ~、中々初めはそう信じて祈ることが出来ないかもしれない。


だから

神様はダビデさんのこの祈りを通して僕らに心を合わせてごらんと詩篇を与えられた。





神様は僕らの祈りを叶えたい!!

僕らは真剣に僕らを愛してるんだから。




大丈夫。

僕らにどんな困難・試練が訪れてようとも・・・

僕らは負けることが無い。


だって神様が僕らの味方なんだもん。。絶対大丈夫!!




心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?



僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.




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詩28篇「携え行く」 נָשָׂא ナーサー

〔カテゴリー育成〕

9c節「どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携え行ってください。」(新改訳)

Keyword; 「携え行く、担う、養い育てる、支える」carry, bear, upholding, support,
25:1/32:1/32:5/85:3/99:8

  • へブル語のナーサーנָשָׂא(nasa’)は、本来、「上げる、運ぶ」という意味です。その主体が人間である場合「(手を、目を、頭を、声を、心を)上げる、lift up」という礼拝用語として使われます。しかし、このナーサーの主体が神となる場合には、担う、荷う、負う、運ぶ、携える、ふところにいだく、かかえる、支える、赦す、と言った意味になります。また、神の顔を上げることは、「御顔を照らす」という意味になります。
  • このような恩寵は、詩28篇9節で主なる神を「彼らの羊飼いとなって」と表現しているように、「羊飼い」のイメージにぴったりです。イザヤ書40章11節に「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」とありますが、ナーサーנָשָׂאを「ふところに抱き」(新改訳、新共同訳)と訳しています。口語訳では「ふところに入れて携え行く」、LB訳では「抱いて導く」と訳しています。
  • 申命記1:31でも「荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、【主】が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。」とあります。親が子どもを抱きかかえて養い育てるように、神はご自身の民を抱くように導き、養い育んで下さる方です。子どもの養育法に「抱っこ法」というのがあります。これは単なるスキンシップではなく、身体、感情、言葉を一体化させた相互方向的コミュニケーションです。一見当たり前のような「抱っこ」は、親密な母子関係を築く上できわめて重要なかかわり方であり、そのルーツこそ神のナーサーנָשָׂא、つまり、神の「抱っこ法」なのだと信じます。
  • また、このナーサーנָשָׂא(nasa’)には「赦す」(forgive)と意味もあります。それは神ご自身が私たちの人間の罪の重荷を代わりに担ってくださるというところからきているようです。主イエスが「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」との偉大な招きは、当然、罪の重荷で苦しんでいる人のために、イエスが代ってそれを担ってくださることで、その人を赦して解放させるという恩寵です。それによって人のたましいははじめて安息を得ることができるからです。
  • ちなみに、ナーサーנָשָׂאが、罪を「取り去る」「背きの罪を赦す」という意味で用いられている詩篇は25:18(取り去る)、32:1, 5, 85:3, 99:8の5箇所に見られます。へブル語では「赦し」を意味する類義語が他にも3つあります。
    ①サーラハסָלַח(salach)―詩25:11/103:3、
    ②カーファルכָּפַר(kaphar)―詩63:3/78:38/79:9(本来は「贖う」という意味)、
    ③ナーカ―נָקָה(naqah)-詩19:12, 13(本来は「罪を免れる」という意味)―です。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs28

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【詩篇27篇】o19  ダビデによる


psm27:1 主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

psm27:2  悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

psm27:3  たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。

psm27:4  私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。

psm27:5  それは、主が、悩みの日に私を隠れ場 に隠し、その幕屋のひそかな所 に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。

psm27:6  今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。

psm27:7  聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。

psm27:8  あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を 私は慕い求めます。

psm27:9  どうか、御顔を 私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助け です。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。

psm27:10  私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。

psm27:11 主よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道 に導いてください。

psm27:12  私を、私の仇の意のままに、させないでください。偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。

psm27:13  ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。――

psm27:14 待ち望め。主を。雄々しくあれ 。心を強くせよ。待ち望め。主を。  

。。。。。。。。。。


おはようございます。

昨日は子供を寝かせた後でオリンピック応援しようと思いながら

寝てしまいました。。。



ま~それも僕の身体の為に必要だった。

神様感謝!!って事で

今日も共に詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm27:5  それは、主が、悩みの日に私を隠れ場 に隠し、その幕屋のひそかな所 に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。

 

psm27:14 待ち望め。主を。雄々しくあれ 。心を強くせよ。待ち望め。主を。  








私を上げてくださるからだ。

僕が本当に見習うべきだと思う言葉はコレ。





注意深く見たら

ダビデさんは未来完了形の言葉をよく使っている。



それは何故だろう?

神様がそうされるという事を知ってるから。

小さな神様との 「祈り」 という会話をしつつ

叶えられる神様を体感しているから。なんでしょうね。



僕らはそんな体験しているだろうか?




僕がしているお祈り

楽しんで、ミス無く仕事ができますように。

怒られないように ・・・ 

ほんで

・・・  タブレットPC 欲しいです。


なんてお祈りも。。



メチャ幼稚でしょ。







でも、それでいいの。



だって

僕は神様の子どもなんだから。





だから、欲しいモノをそのままお祈りするし

例えば、

僕にはお金が無いから


①凄くいいタブレットがタダで貰えますように。

②1万円以下でいい奴が手に入るように。



なんてお祈りをする。






神様は僕の生活をいつも豊かにしたい。

もし、このタブレットPCを通して僕の生活が豊かになるのなら

必ず、神様は与えてくださる。



勿論

僕にお金が無いことを知っている。

だから、

第一希望にタダでもらえる様にいのってる。





そして

神様は与えられた。







それは、とても些細なことなのかも

特別なことなのかも。。




でも、

自分の心にある思いを大切に

神様にお祈りすることがとっても大切だと思う。




この小さな事を大切にできる

それが

ダビデさんの素敵な習慣。



僕らもそんな習慣手にいれませんか?





心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?



僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.


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詩27篇「隠す、かくまう」צָפַן ツァーファン סָתַּר サーッタル)

〔カテゴリー愛顧〕

5節
「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠しצָפַן、その幕屋のひそかな所に私をかくまいסָתַּר、岩の上に上げてくださるからだ。」

Keyword; 「隠す、潜ませる、かくまう」 keep safe, hide,  
 ①ツァーファンצָפַן・・31:20/83:3/etc.
 ②サーッタルסָתַּר・・31:20/91:1/etc.

  • 「隠し」と訳されたツァーファンצָפַן(tsaphan)も「かくまい」と訳されたサーッタルסָתַּר(sattar)も同じ意味をもった動詞です。ツァーファンצָפַן(tsaphan)を「隠す」と訳しているのは、新改訳とフランシスコ会訳で「かくまう」と訳しているのは、岩波訳、関根訳。口語訳と新共同訳では「潜ませる」と訳しています。一方の新改訳、フランシスコ会訳で「かくまう」と訳されたサーッタルסָתַּר(sattar)は、岩波訳、関根訳、口語訳、新共同訳では「隠す」と訳していることからも分かります。
  • 偉大な主の器となった人はそれぞれ隠遁への召しがあります。たとえば、使徒パウロは主との出会いの後、3年間アラビアでの隠遁とバルナバに見出されるまでの生まれ故郷での10余年間の隠遁生活。現代の女性預言者バジレア・シュリンク(マリア福音姉妹会)の聖堂建設後の隠遁生活があげられます。隠遁は決して無駄な時ではなく、主の御顔を慕い求めさせ、主の麗しさを仰ぎ見させる主の御計らいなのです。彼らは隠遁生活を余儀なくされたことを通して、より深い神とのかかわりのいのちを汲み出す者とさせられたのです。
  • 神によって「隠される」こと、「かくまわれる」ことは大きな恩寵です。なぜなら、神がひそかに隠れ場を備えてくれなければ、神とのかかわりを集中させることができないからです。そして、「岩の上に」、また、「私を取り巻く敵の上に高く上げられる」こともなかったでしょう。主との深い親密な場所に隠されることによって、はじめて「ただひとつのこと」(One Thing)に集中でき、「主の麗しさを仰ぎ見、・・思いにふける」ことができるのです。
  • 「主の麗しさを仰ぎ見る」とは、主のすばらしさ、美しさを一心に思うことを意味します。また、「思いにふける」とは、深く静まって神の臨在に心の目を集中することを意味し、これが教会の伝統で重んじられる「観想」(contemplation)の原点です。
  • 「主の麗しさを仰ぎ見る」(4節)と同義の「主の御顔を慕い求める」(8節)という表現は、「神の恵みの光が降り注ぐ場に自分を置くことを意味します。」(高橋秀典-解説)。どんなに激しい苦しみや痛みの中でも、神に自分の気持ちを注ぎ出しながら、「主のことば、主の愛、主ご自身の中にとどまり続ける」(ヨハネ15章)ことです。それはなによりも、愛する人との時間を大切にし、その人の心のことばに真剣に耳を傾ける愛のあかしと言えます。今日の教会の霊性において、隠遁の意義を、再度、見直す必要があると信じます。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs27

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【詩篇26篇】o19  ダビデによる


psm26:1  私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み 、よろめくことなく、主に信頼したことを。

psm26:2  主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

psm26:3  あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。

psm26:4  私は、不信実な人とともにすわらず、偽善者とともに行きません。

psm26:5  私は、悪を行なう者の集まりを憎み、悪者とともにすわりません。

psm26:6  主よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。

psm26:7  感謝 の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを余すことなく、語り告げましょう。

psm26:8  主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。

psm26:9  どうか私のたましいを罪人とともに、また、私のいのちを血を流す人々とともに、取り集めないでください。

psm26:10  彼らの両手には放らつがあり、彼らの右の手はわいろで満ちています。

psm26:11  しかし、私は、誠実に歩み ます。どうか私を贖い出し、私をあわれんでください

psm26:12  私の足は平らな所に立っています。私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

寝不足です。

スイマセンが・・・今日はこのまま。。

ゴメンなさい。

そんな日もあります。



でも、きっと大丈夫。

弁護してくださる神様が居られる・・・なんてね。

psm26:1  私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み 、よろめくことなく、主に信頼したことを。





心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?



僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.



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詩26篇「弁護する」 שָׁפַט シャーファト

〔カテゴリー防衛〕

1節
「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを」

Keyword; 「弁護する、さばく」 7:8/10:18/26:1/35:2/72:4/82:3

  • 「弁護する」というシャーファトשָׁפַט(shaphat)は法廷用語です。「裁く」がもともとの意味ですが、正しく裁くことで私を弁護してほしいという祈りがこの詩篇の冒頭にあります。なぜなら、作者はこれまで「よろめくことなく、主に信頼し」、「誠実に歩んできた」からと、確信をもって述べています。
  • 1節の「私は誠実に歩んだ(完了形)」、3節の「私はあなたの真理のうちを歩み続けました(完了形)、11節の「私は誠実に歩みます(未完了形)」が目立ちます。特に11節では、これまでも歩み続けてきたし、これからもそのように歩み続けていくという強い意志が述べられています。
  • 三つの節には、いずれも、原文直訳では「・・の中に(で)」を表わすヴェבְ(ve)が使われています。英語ではinに当たる前置詞です。
    ①場所を表わす意味、
    ②そのものとのかかわりを表わす意味、
    ③そのかかわりが一層強くなって依存関係を表わす意味
    があります。
  • ここでは②と③の意味です。新改訳では「誠実に」と訳されていますが、新共同訳では「完全な道の中に」と訳しています。「・・の中に歩む」ということは、神とのかかわりにおける密接な信頼関係をもって自発的に歩んできたことを意味します。英語で、I believe in とかI trust in と表現されるのも同様の意味合いを持っていると思います。作者は「誠実に」「あなたの真理(真実)のうちを」歩んできたし、これからもそのような歩みをしていこうとしているので、主に対して「私を弁護してください」と強く訴えているのが1節冒頭の祈りです。
  • 法廷において必要なのは有能な弁護者です。使徒パウロはロマ書8章で次のように述べています。
    「神が私たちの味方であるならだれが私たちに敵対できるでしょう。・・神に選ばれた人々を訴える者はだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座につき、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。・なにものも、私たちの主キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」(31~38節)
  • 私たちが、どんなに「誠実に歩む」と言ったとしても、主の恵み(ヘセド)と真実(エメス)に支えられることなしには歩むことさえできない者です。神が私を義と認めてくださっている中で、自分の味方となってどこまでも弁護してくれる存在がいる中で、私たちははじめて「誠実に歩む」ことができるのだ、と気づかされることが大切なのだと信じます。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs26

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