へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy -23ページ目

へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

。。。。。。。。。。

 

psm33:1 正しい者 たち。主にあって、喜び歌え賛美 は心の直ぐな人たちにふさわしい。

psm33:2  立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。

psm33:3  新しい歌 を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。

psm33:4  まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。

psm33:5  主は正義と公正を愛される。地は 主の恵みに満ちている。

psm33:6  主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。

psm33:7  主は海の水をせきのように集め、深い水を倉に収められる。

psm33:8  全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。

psm33:9  まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。

psm33:10  主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画 をむなしくされる。→詩篇2:2

psm33:11  主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は 代々に至る。

psm33:12  幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選び になった、その民は。

psm33:13  主は天から目を注ぎ 、人の子らを残らずご覧になる。

psm33:14  御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。

psm33:15  主は、彼らの心を それぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方 

psm33:16  王は軍勢 の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。

psm33:17  軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。

psm33:18 見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者 に。

psm33:19  彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。

psm33:20  私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。

psm33:21  まことに私たちの心は主を喜ぶ 。私たちは、聖なる御名に信頼している。

psm33:22  主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望んだときに。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

人生色々なことがおこりますよね。昨晩も我が家では色んな事がおこりました。

でも、きっと神様は問題を知っていて・・・

その問題を解決しようと既に力のある手で支えてくれてる。



こう信じれるのは自分でも素敵だと思う。

信じれるのは信じさせてもらえてるから。だもんね。



では早速今日も共に詩篇を。

僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm33:16  王は軍勢 の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。

psm33:17  軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。

psm33:18 見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者 に。





素敵ですね~。



何があっても僕らは大丈夫。


だって

神様が僕らの味方なんだから。。。







心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?




僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.




・・・・・・・・・・

詩33篇「目を注ぐ」נָבַטナーバト、רָאָהラーアー、שָׁגָהシャーガー、בִּיןビーン

〔カテゴリー愛顧〕

13節「主は天から目を注ぎנָבַט、人の子らを残らずご覧になる。רָאָה
14節「御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。 שָׁגָה
15節「主は、彼らの心をそれぞれみ造り、彼らのわざのすべてを読み取るבִּין方。」

Keyword; 「主のまなざしー目を注ぐ、見る、眺めるー」

  • この詩33篇の後半には、「主のまなざし」に関する動詞の類義語が使われています。18節にも「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。」とあります。しかし、原文では「注がれる」という動詞はなく、主の目は「・・の上に」という前置詞エルאֶלがあるだけです。「注がれる」と訳しているのは新改訳のみで、他の訳では「・・の上に(ある)」(口、文、典、バ、フ)、もしくは、「・・に向けられる」(岩、関)と訳しています。18節は明らかに主の目は「主を恐れる者、主の恵みを待ち望む者」にフォーカスされているにもかかわらず、それを表わす動詞がないのは、おそらく、13節と14節に、4つの主のまなざしを表わす動詞が使われているからかもしれません。いずれにしても、さまざまな類義語を用いながら、主の目がどこに(誰に)向けられているかが示され、その中でも主のまなざしの焦点が、特に18節の「主を恐れる者、主の恵みを待ち望む者」に向けられていることが強調されているように思います。
  • この詩33篇は詩32篇とつながっています。というのは詩32篇の最後の節(11節)と詩33篇の最初の節が似たような表現(同じ思想)を有しているからです。
    「正しい者たち、主にあって喜び楽しめ。すべての心の直ぐな者たちよ。喜びの声を上げよ。」
    「正しい者たち。主にあって喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。」
  • ここでは「正しい者」と「心の直ぐな人」とは同義であることが分かります。さらには、「正しい者」「心の直ぐな人」「主を恐れる者」「主の恵みを待ち望む者」が同義であることが分かります。このように、詩篇の特徴である同義的並行法の重要性は類義語を通して、ひいては聖書を聖書によって理解するというへブル人特有の知恵のようです。
  • 主のまなざしを表わす類義語
    (1)ナーバトנָבַט(navat)
    「目を注ぐ」(改、典)「眺める」(岩)「見おろす」(関、フ、バ)「伺う」(文)「見渡す」(共)と訳され全体を鳥瞰するまなざしと言えます。旧約69回、詩17回。
    (2)ラーアーרָאָה (ra’ah)
    「ご覧になる」(改、典、共)「見る」(岩、関、フ、文)「眺める」(バ)と訳され、意味するところはナーバトとほとんど変わりません。
    (3)シャーガーשָׁגָה(shagah)
    「目を注ぐ」(改、典、岩)「目を留める」(共)「かえりみる」(関)と訳され、旧約では3回、詩篇ではここのみに使われている動詞で鳥瞰的なまなざしです。
    (4)ビーンבִּין(biyn)
    本来、「識別・認識・理解・注意する」という動詞ですが、すべての行為の背後にある心の思いを「見分ける、見抜く、調べる」という洞察のまなざしです。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs33

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おはよーございます。


今日も暑いですが、負けずに踏ん張っていきやしょーね。遅くなりましたが勝手にワーシップタイムをおおくりしますね。



今日のテーマは『 献身 』
なんや難しいテーマみたいに感じるけど、本当はどんな意味なんだろう?
(今回は自分が気付かされた事を中心に記させて貰ってます)

このバイブルの箇所は、パウロさんがローマ人に対して書いた手紙ですが、11章までが教理。12章から、実際の生活の適応についてを記されている。その最初にこのテーマが取り扱われてる。



『献身』とは神様が求めている霊的な礼拝。そもそも、礼拝と言う意味は何だろう?
礼拝とはプロスクネオというギリシャ語であらわされている。このプロスクネオという言葉はプロとスクネオの2つの言葉によって成り立っている。


「プロ」とは 「近づく」

「スクネオ」とは 「キスをする」


神様は近づいてキスをして・・って大好きな子供達への願いの様にも聞こえてきますね。




。。。。。。。。。。


rom12:1★そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。


rom12:2★この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
。。。。。。。。。。



「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」


それには、コレが必要だと。


「この世と調子を合わせてはいけません。」



「この世」は何に支配されているのか?
それは、
この世を支配しているさサタン。

此処で言われているのは、サタンを受け入れちゃダメだよって事。



サタンは心において妥協させる事で
誰もがその神様からの祝福を受けられないようにさせる事を絶えず考えている。
それは、サタンがそれを選ばせないようにいろんな映像を見せ、いろんな情報によって、僕らの選択の判断を歪めちゃうから。



神様は何を言いたいのか?



それは
僕(神様)の祝福をサタンに妨げられずに受けて欲しいって事じゃないかと思えてくるね。



もう一つココでポイントがある。


んなら、
どーしたらエエネンって事。


「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」



ココでのポイントは
『わきまえ知るために』と
『心の一新によって自分を変え』る事。


『心の一新』とは、
心を全く新たにしてという事。
今までの考え方ではなく『新し』くという事。


『わきまえ知る』には、『心の一新』が必要不可欠となる。


わきまえ知る事は僕らに出来る事なのだろうか?

否だ。

わきまえ知る事が出来るのは、神様から与えられた「知恵と掲示の御霊」でなければ知り得ない。


こんな箇所もある。
。。。。。。。。。。


eps1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

eps1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
。。。。。。。。。。


僕らはその御霊によって目が開かれ、真理をわきまえ知らされていく。
心の一新とは、自らの力によらず、御霊によって知る事を意味してるんですね。


・・・・・


2cor3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

2cor3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

2cor3:18★私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
・・・・・



御霊によって知り得て

御霊によって変えられていく。





なんか・・
献身、献身って難しくいってるけどホンマは単純な愛のメッセージやねんね。


神様は霊だから
そりゃ霊でなきゃ知り得ないもんね。


自分の力により頼んでても、知り得る事は出来ないし、見えるモノにより頼む事でサタンに妥協させられちゃうし。。。


だから御霊なんだー。
『一新によって』ってのは、こういう事かーなんて思わされますね。



何か難しい~って感じた時は
直ぐに『神は愛なり』にかえってみなきゃですね。


『主の御霊のあるところには自由があります。』だもん。

自由でないと思える時は、自らを省みて神様が求める場所(礼拝)に帰る事を選択したいですね。



神様は僕らがサタンに妨げられずに
祝福を受けて欲しいと願っておられる。


『プロスクネオ』



今週も色々あるだろうけど、
御霊を意識して日々過ごせますように。


祈ってます。
では。(送信遅れてスイマセンでした)




今回の箇所は此方。
。。。。。。。。。。

rom12:1★そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

rom12:2★この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

rom12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

rom12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、

rom12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

rom12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。

rom12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

rom12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。

rom12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

rom12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

rom12:11★勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

rom12:12★望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

rom12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

rom12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。

rom12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

rom12:16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

rom12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

rom12:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

rom12:19  愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

rom12:20★もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

rom12:21★悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
。。。。。。。。。。

。。。。。。。。。。

 

【詩篇32篇】o19  ダビデのマスキール


psm32:1  幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人 は。

psm32:2  幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

psm32:3  私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

psm32:4  それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでり でかわききったからです。セラ

psm32:5  私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪 を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ

psm32:6  それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。

psm32:7  あなたは私の 隠れ場 。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ

psm32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

psm32:9  あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。

psm32:10  悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。

psm32:11  正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

8月も後半になって、暑い日が続きますが踏ん張りましょうね。



では、今日も共に詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm32:7  あなたは私の 隠れ場 。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ






苦しみから守ってくれるのは誰ですか?

圧倒的な平安で僕らを取り囲んでくれる方はどなたですか?



誰をより頼んでも、僕は出会えなかった。

どんな書物を読んでも、納得できなかった。

そんな時を独りで過ごした時を思い出します。



ダビデさんは出会いました。

きっと僕らも出会えるんですよね。

間違いないんです。




今、僕らがどんな状況であっても。

いや、僕ら自身が苦しく弱いと感じているからこそ。なのかもですね。

だから、僕らは求める手を天に伸ばす。人じゃなく。。。



ダビデさんと同じ状況ですね。



きっと、苦しいだろうけど、神様は僕らにその状況になるのをゆるされたなと思う。

それは

本当の平安で包みたいから。

力強い神様の手で直接僕らを支えたいから。


なんか

そんな感じしませんか・・・。








心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?




僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.







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詩32篇(1)「おおう」 כָּסָה カーサー

〔カテゴリー救出〕

7節「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた(כָּסָה)人は。幸いなことよ、主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのない人は。」

Keyword; 「おおう、覆い隠す」 cover, hide
32:1/ 55:5/85:2

  • この詩32篇1~2節には罪に関係することばか三つと、それに対処する神の三つの動詞が記されています。
    (1)ペシャーפֶּשַׁע(pesha`)・・「そむき」と訳され、神への反逆であることを最も強く表現することばで、神の律法の教えを破ること。
    (2)ハッターחַטָּא(hatta')・・「罪」と訳され、本来は「的をはずす、道を踏み外す」の意。神の定められた正規の道を踏み外し、人生の目的を失うこと。
    (3)アーオンעָוֹן(`won)・・「咎」と訳され、本来は「ゆがむ」の意で、不義とも訳される。
  • 「そむき」ペシャפֶּשַׁע(pesha`)、「罪」ハッターחַטָּא(hatta')、「咎」アーオンעָוֹן(`won)に対応して、それぞれ、「赦す」(ナーサーנָשָׂא)、「おおう、覆い隠す」(カーサーכָּסָה)、「認めない、数え上げない」(否定を伴うハーシャヴחָשַׁב)といった恩寵の動詞が見られます。ここでは「覆う、覆い隠す」という動詞に注目してみたいと思います。この動詞は詩32篇ではじめて登場する動詞です。口語訳は「おおい消す」と訳しています。人間が犯したすべての罪を神ご自身が覆ってくださるのです。人は自分の罪をどこまでも覆い隠すものです(原罪)。しかし神が人の罪を覆い隠すとき、それは赦し(愛)につながります。
  • ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤペテは自分のたちの父であるノアが酒に酔って失態を演じたとき、ハムはそれを他の兄弟たちに言いふらしました。しかし、セムとヤペテは着物をとって、しかも後ろ向きに歩いて行って父の裸を覆いました。ここにも同じく「おおう」というカーサーכָּסָה(kasah)が使われています。セムとヤペテは父から祝福されましたが、父の失態を人に告げたハムは呪いを宣言されてしまいました。
  • 箴言17章9節には「そむきの罪をおおう者は愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。」(新改訳) /「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる。」(口語訳)では「思いやりのある人は人のまちがいを水に流し、いつまでもこだわる者は親友までも失います。」(LB訳)とあります。「おおう」ことは「ゆるす」こと、「水に流す」ことと同義であり、「愛を追い求める者」のしるしであることがわかります。
  • 新約では、自分の罪を赦された使徒ペテロが「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」と述べています(Ⅰペテロ4章8節)。また、ヤコブも「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」(5:20)と述べています。
  • 旧約において神と人が交わるための「あかしの天幕」、「会見の幕屋」には絶えず神の臨在の象徴として目に見える「雲」がおおっていました。ここの「おおう」ということばも「カーサー」
    כָּסָהです。それは神の民が礼拝を中心するとき、常に神が民を導くお方であることを意味しています。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs32%281%29

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詩32篇(2)「取り囲む」 סָבַב サーヴァヴ

〔カテゴリー防衛〕

7節「・・・あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。」
10節「・・・しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。」

Keyword; 「取り囲む、囲む、抱き締める」surround, embrace,

  • 「取り囲む」と訳されたサーヴァヴסָבַב(savav)は、旧約では162回、詩篇では22回使われています。しかし、詩篇の中で、神の恩寵としての「取り囲み」の意味で使われているのは、詩32篇の7節、10節の2箇所だけです。他の20箇所は、敵、強い者、恐れ、よみの綱といった勢力が回りを取り囲んでいます。この比率は、私たちの多くが、良いものではなく、悪いものによって取り囲まれている現実を表しているのかもしれません。
  • もし、罪責感、罪悪感、あるいは恨み辛みが取り囲んでいるならば、そのような人の心は痛みが多いことでしょう。その人から良いものは流れてきません。しかし、主の特別待遇の恵み、主に愛されている喜びがいつもその人を取り囲んでいるならば、その人から流れてくるものは、人をいやし、明るくし、生きる喜びを与えてくれるはずです。
  • サーヴァヴסָבַב(savav)には、「取り囲む」という訳だけでなく、「覆う」(典礼訳)、「抱き締める」(embrace)という意味もあるようです。さまざまな罪の重荷に苦しんでいる者たち、だれにも言えないでひとりで悶々と呻いている者たち、もしそれを告白するならば、すべて建て上げたものが一瞬にして崩れ去っていくような恐れの中にいる者たちが、その苦しみから解放される道があるとすれば、それは神のほかにおりません。
  • 神に自分の罪を告白することによって、神はその罪を赦し、覆い、神とのかかわりを新しく築く力を与えてくれます。神がより親しくかかわってくださるとによって、その人の人生が神の恵みによって取り囲まれるようになるのです。ただし、自分の犯した罪は償いが求められます。しかしそんな重い問題も神は共に背負ってくれることを信じることです。
  • 自分の罪を悔いて父のもとに帰ってきた放蕩息子に待ち受けていたものは、父の「恵みによる祝福でした。息子は自分の罪の告白を父にしましたが、そうする前に、すでに父の方が彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き締め、口づけをしました。この抱擁こそ赦しの証です。自分の罪を悔い改めたことが、赦しを得られる条件ではありません。赦しはすでにあったのです。しかし、悔い改めて自分が父のもとに帰るまではそのことは分かりませんでした。走り寄って息子を抱き、口づけしたのは父の方でした。父は自分の息子に息子としての身分に一番ふさわしい良い着物を着せ、指輪をはめさせ、足にはくつをはかせ、最大級の歓迎をしました(ルカ15章11~24節)。まさにこれこそ「恵みによる取り囲み」です。「神の恵みによって、私は今の私になりました」(Ⅰコリント第一、15章10節)と告白した使徒パウロも「キリストの愛が私を取り囲んでいる」(Ⅱコリント5章14節)と告白しています。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs32%282%29

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詩32篇(3)「悟りを与える」 שָׂכַל サーハル

〔カテゴリー賦与〕

8節「わたしはあなたがたに悟りを与え、行くべく道を教えよう。」(新改訳)
8節「わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。」(新共同訳)

Keyword; 「悟りを与える、賢くする」 instruct, make discreet, wise, ponder,have insight, careful, understand

  • 「悟りを与える」と訳されたサーハルשָׂכל(sakhal)は、賢くする、知恵・思慮・分別、を与える、心を配る、注意を払う、ものごとをじっくりと考える、見抜く、教える、諭す、といった意味があります。名詞はセヘルשֶׂכֶל(sephel)で「知恵、聡明、識見、思慮、分別」意味します。
  • また、サーハルשָׂכל(sakhal)は、成功する、栄える、繁栄する、勝利を収める(prosper)といった意味もあります。ダビデはどこにいっても大勝利を収めたため、サウル王はダビデを恐れました。それほどに神のサーハルשָׂכל(sakhal)は神に祝福された人々のしるしと言えます。ダビデは息子ソロモンのために思慮と分別が与えられるように祈っています(Ⅰ歴代誌22章12節)。「思慮深い妻は主からのもの」(箴言19章14節)とあるように、ダビデを助けたナビルの妻アビガイルは聡明な女性で、後にダビデの妻となりました。救いの計画における最も終末的なヴィションを啓示されたダニエルに対して、天使のガブリエルは「私は今、あなたに悟りを授けるために出てきた」(ダニエル9章22節)と語りました。
  • キリストある私たちも神から与えられる悟りをもつことができます。なぜなら、キリストご自身が「悟り」だからです。「人はその栄華の中にあっても、悟り(※)がなければ、滅びうせる獣に等しい」のです(詩49篇20節)。(※) ここの「悟り」は類義語のビーンבִּיןです。
  • 自分のそむきが神によって赦され、罪がおおわれただけでなく、神に生かされた者として賢くされるという主の約束があります。ものごとの本質を見抜き、明察・洞察力を与えられることは、まさに知恵を与えられることであり、それが成功と勝利をもたらします。
  • 詩32篇の1~7節までは、「私とあなた(神)」のかかわりの構図ですが、8~9節は「わたしとあなた」のかかわりの構図です。新改訳は「わたしとあなたがた」としていますが、原文では「あなた」(単数)です。新改訳の訳だと、罪赦されたダビデが他者に対して語っているような解釈になります。しかしここでは神が預言的(励まし)に語っています。(ちなみに、典礼訳ではー意訳的ですがー、「神は仰せになる。『わたしはおまえに教え・・』」と訳しています。新改訳を除くすべての聖書が神とダビデのかかわりの中で語られたことばとして訳しています。)
  • 私たちの現実は、「悟りのない馬や騾馬のように」自分勝手な行動をしやすいものです。8~9節の神の預言的な約束―「わたしはあなたに悟りを与え、行くべく道を教えよう。わたしはあなたに目を留めて、助言を与えよう。」―は私たちに大きな励ましとなります。

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【詩篇31篇】o19  指揮者のために。ダビデの賛歌


psm31:1  主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。

psm31:2  私に耳を傾け、早く私を救い出してください。私の力の岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください

psm31:3  あなたこそ、私の巌、私のとりでです。あなたの御名のゆえに、私を導き、私を伴ってください。

psm31:4  私をねらってひそかに張られた網から、私を引き出してください。あなたは私の力ですから。

psm31:5  私のたましいを御手にゆだねます。真実の神 、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。

psm31:6  私は、むなしい偶像につく者を憎み、主に信頼しています。

psm31:7  あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

psm31:8  あなたは私を敵の手に渡さず、私の足を広い所に立たせてくださいました。

psm31:9  私をあわれんでください 。主よ。私には苦しみがあるのです。私の目はいらだちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私のからだも。

psm31:10  まことに私のいのちは悲しみで尽き果てました。私の年もまた、嘆きで。私の力は私の咎によって弱まり、私の骨々も衰えてしまいました。

psm31:11  私は、敵対するすべての者から、非難されました。わけても、私の隣人から 。私の親友には恐れられ、外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。

psm31:12  私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。

psm31:13  私は多くの者のそしりを聞きました。「四方八方みな恐怖だ。」と。彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、私のいのちを取ろうと図りました。

psm31:14  しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」

psm31:15 私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。

psm31:16  御顔を あなたのしもべの上に照り輝かせてください。あなたの恵みによって私をお救いください。

psm31:17  主よ。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたを呼び求めていますから。悪者をはずかしめてください。彼らをよみで静まらせてください。

psm31:18  偽りのくちびるを封じてください。それは正しい者に向かって、横柄に語っています。高ぶりとさげすみをもって。

psm31:19  あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。

psm31:20 あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所 にかくまい、舌の争いから、隠れ場 に隠されます。

psm31:21  ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で私に奇しい恵みを施されました。

psm31:22  私はあわてて 言いました。「私はあなたの目の前から断たれたのだ。」と。しかし、あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに。

psm31:23  すべて、主の聖徒たちよ。主を愛しまつれ。主は誠実な者 を保たれるが、高ぶる者には、きびしく報いをされる。

psm31:24 雄々しくあれ 。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者 よ。


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おはようございます。

今日は、中々長い詩ですね。



ですんで、今日は手短に。

今日僕の心に留まった言葉はコレ。

psm31:15 私の時は、御手の中にあります。





僕の親父は、『 絶対王政 』のようなモノだった。

何を言っても聞き入れてもらったことはない!という印象しかなかった。

今こんな事を親父に云うと凄く悲しむようだけど、実際僕はそのように感じて生きてきた。


その時社会の勉強で習ったのが、『 絶対王政 』 。 『 絶対君主制 』。

その時は小学3-4年くらいでそう感じていたから我ながら可愛そうな時を過ごしたかもしれない。

でも、僕の家庭はまさにそんな感じがしてならなかった。



友達の誕生日会に行くのもダメ。

習っていた柔道で大会に出ることもダメ。

子ども会でのソフトの練習も夜遅くなるからもうダメ。



ダメ・ダメ・ダメ・ダメ・・・・・。

逆らった場合、家族全員が正座させられ何時間も説教が待っている。

その後、アホ~!とか一緒に叱られた兄弟からくる。



もうこの時点で、親から離れる機会を探っていたような気がする。

高校を卒業するという機会が与えられ、試験に一校だけ受かった短大へ行くことが決まった時メチャ嬉しかったのを今でも思い出す。



それは何故か?




絶対王政の支配下での生活が終わった~!!って云うものだった。






長々と話したが、

何が云いたいのかというと、僕らの王様は誰だ!という事。



僕は短大時代遊びほうけた

羽目が外れた。

王様は僕の親父から、僕に移った。

羽目を外しすぎコントロール出来ない状態になってしまった。



人は(サタンのDNAが組み込まれた)肉体があるから、

人が王様として自分の身体を支配するのはかなり難しい事を悟らされた。




色々それから僕も紆余曲折があって気付いたことは


『  神様の支配は最高だ!!  』 って事。






僕らを本気で愛してくれている方が

最善をもって僕らを支えようとされている。


サタンによってズレル事を嫌い

いつも真の喜びを溢れさせようとサポートしてくださる方。


例え失敗し、道を踏み違えても

それをまた良い教訓として、本当に良いモノに変えて僕らの道を確かにされる方。






どうでしょ。。。





僕らは誰を支配者として、心に迎え入れるかで全く違う人生を歩むことが出来る。

・・・

神様の御手の中での平安を味わってみませんか?

人からは得られない・・・力強い、暖かいそんな平安。。


僕らはそれを今日体験できるかもしれない。



感じている人は、もっと更に神様の恵みに驚かされるはずだから。


これは僕の大好きな歌の一つ。

苦しい時、さびしい時、嬉しい時にいつも口から溢れてきた歌。

御手の中で IN HIS TIME

http://www.youtube.com/watch?v=yvBZqQWCRhw&feature=related







心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?




僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.





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詩31篇(1)「御手の中に」 בְּיָד べ・ヤ-ド

〔カテゴリー愛顧〕

15節「私の時は、御手の中にあります。」(新改訳)
15節「私の運命(さだめ)はあなたの御手にある。」(バルバロ訳)

Keyword; 「御手の中にある私の時」 My times are in Your hands, My destiny is under Your control

  • 詩31篇には旧約聖書の中ではめずらしい表現があります。それは「私の時」イットターイעִתֹּתָי(`ttotay)ということばです。ここで「時」を意味するエトעֵתの複数形が使われており、「私の生涯は」(フランシスコ会訳)、「わが諸々の時」(岩波訳)、「わが時のすべては」と訳されています。いずれにしても、「私の時」が御手の中にあるということです。
  • 詩篇31篇は類型としては嘆きの歌ですが、この中に、神への信頼と告白を表わす表現が多く登場します。たとえば、
    「私はあなたに身を避けています」(1節)
    「私のたましいを御手にゆだねます」(5節)
    「私はあなたに信頼しています」(6, 14節)
    「あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます」(7節)
    「私の時は、御手の中にあります。」(15節)
    「あなたこそ私の巌、私のとりで」(1節)
    「あなたこそ、私の神です」(14節)
    「あなたのいつくしみはなんと大きいことでしょう」(19節)
    「主は・・私に奇しい恵みを施されました」(21節)
    これらをみるならば、とても嘆きの詩篇のようには見えません。しかし大切な点は、嘆きの中にどうしてこのような力強い信仰が告白されうるのかという点です。

その鍵は、この作者の「私の時」に対する理解にあるように思います。「時」に対するヘブライ人の時間感覚は私たちの時間感覚とは異なるようです。ちなみに、創世記における神の創造において、「夕があり、朝があった」という記述、一日が夕暮れとともにはじまるという時間感覚は、歴史の理解においても、ものごとや生活のすべての領域においても大きな影響を与えているはずです。

  • 預言者エレミヤはバビロンの捕囚となる神の民に対して主のことばを伝えましたが、そのことばの中に「わたしがあなたがたのために立てている計画は、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ」と述べています。「将来」ということばはアハリートאַחֲרִית('acharit)で、本来、「後、後代、背中、背後」を意味することばです。将来が背中にある。ということは「後ろ向き」に進んでいることになります。そして目の前はいつも過去を向いていることになります。つまり、ヘブライ人の時間の流れに対する感覚は、私たちとは逆で、未来(将来)に背を向けながら確実な神の事実としての過去を見つめています。このことが嘆きの現実に大きく影響を与えています。
  • 申命記におけるモーセの説教は、これから約束の地に向かって進んでいこうとしているモーセは民に対して絶えず過去に起こった神のストーリーに、40年間の荒野における神の恵みに目を向けさせることで、安心して主の御手にゆだるよう、励ましているのです。

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詩32篇(1)「おおう」 כָּסָה カーサー

〔カテゴリー救出〕

7節「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた(כָּסָה)人は。幸いなことよ、主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのない人は。」

Keyword; 「おおう、覆い隠す」 cover, hide
32:1/ 55:5/85:2

  • この詩32篇1~2節には罪に関係することばか三つと、それに対処する神の三つの動詞が記されています。
    (1)ペシャーפֶּשַׁע(pesha`)・・「そむき」と訳され、神への反逆であることを最も強く表現することばで、神の律法の教えを破ること。
    (2)ハッターחַטָּא(hatta')・・「罪」と訳され、本来は「的をはずす、道を踏み外す」の意。神の定められた正規の道を踏み外し、人生の目的を失うこと。
    (3)アーオンעָוֹן(`won)・・「咎」と訳され、本来は「ゆがむ」の意で、不義とも訳される。
  • 「そむき」ペシャפֶּשַׁע(pesha`)、「罪」ハッターחַטָּא(hatta')、「咎」アーオンעָוֹן(`won)に対応して、それぞれ、「赦す」(ナーサーנָשָׂא)、「おおう、覆い隠す」(カーサーכָּסָה)、「認めない、数え上げない」(否定を伴うハーシャヴחָשַׁב)といった恩寵の動詞が見られます。ここでは「覆う、覆い隠す」という動詞に注目してみたいと思います。この動詞は詩32篇ではじめて登場する動詞です。口語訳は「おおい消す」と訳しています。人間が犯したすべての罪を神ご自身が覆ってくださるのです。人は自分の罪をどこまでも覆い隠すものです(原罪)。しかし神が人の罪を覆い隠すとき、それは赦し(愛)につながります。
  • ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤペテは自分のたちの父であるノアが酒に酔って失態を演じたとき、ハムはそれを他の兄弟たちに言いふらしました。しかし、セムとヤペテは着物をとって、しかも後ろ向きに歩いて行って父の裸を覆いました。ここにも同じく「おおう」というカーサーכָּסָה(kasah)が使われています。セムとヤペテは父から祝福されましたが、父の失態を人に告げたハムは呪いを宣言されてしまいました。
  • 箴言17章9節には「そむきの罪をおおう者は愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。」(新改訳) /「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる。」(口語訳)では「思いやりのある人は人のまちがいを水に流し、いつまでもこだわる者は親友までも失います。」(LB訳)とあります。「おおう」ことは「ゆるす」こと、「水に流す」ことと同義であり、「愛を追い求める者」のしるしであることがわかります。
  • 新約では、自分の罪を赦された使徒ペテロが「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」と述べています(Ⅰペテロ4章8節)。また、ヤコブも「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」(5:20)と述べています。
  • 旧約において神と人が交わるための「あかしの天幕」、「会見の幕屋」には絶えず神の臨在の象徴として目に見える「雲」がおおっていました。ここの「おおう」ということばも「カーサー」
    כָּסָהです。それは神の民が礼拝を中心するとき、常に神が民を導くお方であることを意味しています。

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【詩篇30篇】o19 ダビデの賛歌。家をささげる歌


psm30:1 主よ。私はあなたをあがめます 。あなたが私を引き上げ 、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。

psm30:2 私の神、主よ。私があなたに叫び求める と、あなたは私を、いやされました。

psm30:3  主よ。あなたは私のたましい をよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かして おかれました。

psm30:4  聖徒たちよ 。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。

psm30:5  まことに、御怒り はつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

psm30:6  私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない 。」

psm30:7  主よ。あなたはご恩寵のうち に、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を 隠され 、私はおじ惑っていましたが。

psm30:8  主よ。私はあなたを呼び求め ます。私の主にあわれみを請います。

psm30:9  私が に下っても、私の血に 何の益がある のでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。

psm30:10  聞いてください。主よ。私をあわれんでください 。主よ。私の助け となってください。

psm30:11  あなたは私のために、嘆きを踊りに変えて くださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。

psm30:12  私のたましいがあなたをほめ歌い 、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。

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おはようございます。

今日はお休みだったもので・・・勝手に更新が遅くなってスイマセン。


では早速共にダビデさんの詩篇を。

今日僕の心に留まった言葉はコレ。

psm30:4  聖徒たちよ 。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。

psm30:5  まことに、御怒り はつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。







御怒りって。

神様が怒ってるって事?


何故だろう?

それは

サタンが僕らをコントロールし、支配しようとしているからかも。



僕らが知らぬ間にサタンの指示に従ってる時に怒ってくれているのかも。

神様は僕らに怒ってるのもあるんだろうけど、

何故か僕は、大好きな僕らをコントロールしてマトワリつくサタンに怒ってるようにも思える。




ダビデさんの時代には無い凄い特権がある。

それは

ジーザスによる (悔い改め)『 リセット 』 。



【僕らは故意に、また知らぬ間にサタンに従ってる事に気付く。

 それは、僕らの中にサタンのDNAが組み込まれているような感じ。。

 しちゃ~ダメだと思っていても、嘘をついてしまう・・・みたいな些細なほんの小さなモノから

 殺人に至らなくても、想像の中でそれを行ったりする大きなモノまで、日々僕らの心と身体は支配されて   いるものだ。

 サタンに従う時、僕らは汚れる。


 汚れるという言葉を使うのは、僕らは元々汚れていない神様の素敵な子供だから。



 サタンに従って汚された汚れによって、僕らは神様に近づけなくなる。

 神様は汚れのない方だから。

 水と油のように、完全に相容れる事はできない。

 僕らはサタンによって汚されたならば、僕ら自身が神様に近づけなくなってしまう。



 でも

 今の時代、一瞬の内にその汚れを取る業が与えられた。 


 「酵素パワー アタック!」

 なんてモノじゃない。


 どんな漂白剤でも太刀打ちできない素晴らしい神様からのプレゼント。

 『 ジーザスの血潮 』

 僕らはそのジーザスの血を降り注がれる事で、

 サタンの汚れを一瞬の内に真っ白にすることが出来る。



 サタンの汚れは、宗教のように 『 善行 』 なんかで無くなったり薄くなったりすることは無い。


 僕らが日々必要なのは 『 ジーザスの血潮 』

 それを 悔い改めと呼んでいる。  】





神様はいつでもリセットできるコトを知って欲しいと願われている。

怒り・・・そんな感じにも思えてくる時は

静かに自分の状況を省み、リセットして見ることが必要なのかもしれない。



御怒りと感じる時は

決してズット続くわけではないから。

まことに、御怒り はつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。


神様は朝明けの喜びを用意されているから。



だから

聖徒たちよ 。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。


今日もダビデさんの様に、

神様の実際を自分の言葉として発してみませんか?





絶対!夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。 んだから。




大丈夫。


今日も、そして来週も。。




絶対大丈夫なんだから。

死んでまで僕らに喜びを与えようとされる方に僕らは支えられている。




だから大丈夫。






心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?




僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.


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詩30篇 「御寵(のうちにある)」 רָצוֹן ラーツォン

〔カテゴリー愛顧〕

5節「まことに、怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。」(新改訳)
5節「ひとときお怒りになっても、命を得させることを御旨としてくださる。」(新共同訳)
5節 「その怒りはしばしで、その恵みは生命とともに長いからである。」(関根訳)
5節「ヤーウェの怒りは滅びをもたらし、好意はいのちをもたらす。」(フランシスコ会訳)
5節 「主の怒りはつかの間に過ぎますが、その恵みは生きる限り続きます。」(LB訳)

Keyword; 「恩寵、好意、恵み、御旨、喜び」favor, pleasing, will, delight, acceptable
5:12/19:14/30:5, 7/40:8/51:18/69:13/89:17/103:21/106:4/143:10/145:16, 19

  • 格言的ともいえる詩30篇5節の原文には動詞がありません。原文の直訳は、「まことに、一瞬は、彼の怒りの中に、生涯(いのちחַי(ハイ)の複数形)は、彼の意志(好意、恵み、恩寵)の中に」と並んでいます。5節の頭にはキーכִּיが置かれており、前節―「聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ」-の理由説明となっています。あるいは、新改訳のみが、副詞的に「まことに」と訳しています。いずれにしても、作者は神の怒りと表現される神の不在経験はつかの間にすぎないこと、むしろ一生涯は神の恩寵の中にあることを確信した表現と言えます。それが賛美と感謝の理由です。
  • ちなみに、ラーツォンרָצוֹן(ratswon)は名詞ですが、動詞のラーツァーרָצָה(ratsah)は「愛する、喜ぶ、好む、受け入れる、恵みを施す」の意です。
    詩篇44:3/49:13/51:6/77:7/85:1/102:14/119:108/147:10,11/149:4を参照。
  • ところが、私たち人間の弱さはそのように思えないことが多いようです。この詩篇の作者も、順境の絶頂にあるときには「私は決してゆるがされない」(30:6)と豪語したにもかかわらず、神が御顔を隠されたときには「おじ惑っていた」と告白しています。
  • 預言者イザヤのメッセージは、移りゆく時代の激動の中で、人々の心が林の木々が風で揺らぐように動揺したとき、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。心を弱らせてはなりません。」(イザヤ7章1~9節)でした。現実の脅威の中で「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。」というものでした。「静かにすること」-これがイザヤのメッセージの核心です。神に召された者たちの人生も山あり谷ありです。私たちが留意すべきことは、山あり谷ありの人生を受け入れることです。そして、谷の中にあっても主の恩寵の中にあることを確信することです。そして変わるものではなく、決して変わらないものに目を向けることです。それは主のうちにとどまることであり、この方によって力を得ることです。
  • イザヤ書30章15節にもこうあります。「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る』」と。この「力」とは、おそらく、使徒パウロが述べた「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ること―恩寵不変―」(ピリピ4章12節)だと信じます。

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