僕らの心は誰が支配している?脱・絶対王政への道 | へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

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僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

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【詩篇31篇】o19  指揮者のために。ダビデの賛歌


psm31:1  主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。

psm31:2  私に耳を傾け、早く私を救い出してください。私の力の岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください

psm31:3  あなたこそ、私の巌、私のとりでです。あなたの御名のゆえに、私を導き、私を伴ってください。

psm31:4  私をねらってひそかに張られた網から、私を引き出してください。あなたは私の力ですから。

psm31:5  私のたましいを御手にゆだねます。真実の神 、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。

psm31:6  私は、むなしい偶像につく者を憎み、主に信頼しています。

psm31:7  あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。

psm31:8  あなたは私を敵の手に渡さず、私の足を広い所に立たせてくださいました。

psm31:9  私をあわれんでください 。主よ。私には苦しみがあるのです。私の目はいらだちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私のからだも。

psm31:10  まことに私のいのちは悲しみで尽き果てました。私の年もまた、嘆きで。私の力は私の咎によって弱まり、私の骨々も衰えてしまいました。

psm31:11  私は、敵対するすべての者から、非難されました。わけても、私の隣人から 。私の親友には恐れられ、外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。

psm31:12  私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。

psm31:13  私は多くの者のそしりを聞きました。「四方八方みな恐怖だ。」と。彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、私のいのちを取ろうと図りました。

psm31:14  しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」

psm31:15 私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。

psm31:16  御顔を あなたのしもべの上に照り輝かせてください。あなたの恵みによって私をお救いください。

psm31:17  主よ。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたを呼び求めていますから。悪者をはずかしめてください。彼らをよみで静まらせてください。

psm31:18  偽りのくちびるを封じてください。それは正しい者に向かって、横柄に語っています。高ぶりとさげすみをもって。

psm31:19  あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。

psm31:20 あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所 にかくまい、舌の争いから、隠れ場 に隠されます。

psm31:21  ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で私に奇しい恵みを施されました。

psm31:22  私はあわてて 言いました。「私はあなたの目の前から断たれたのだ。」と。しかし、あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに。

psm31:23  すべて、主の聖徒たちよ。主を愛しまつれ。主は誠実な者 を保たれるが、高ぶる者には、きびしく報いをされる。

psm31:24 雄々しくあれ 。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者 よ。


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おはようございます。

今日は、中々長い詩ですね。



ですんで、今日は手短に。

今日僕の心に留まった言葉はコレ。

psm31:15 私の時は、御手の中にあります。





僕の親父は、『 絶対王政 』のようなモノだった。

何を言っても聞き入れてもらったことはない!という印象しかなかった。

今こんな事を親父に云うと凄く悲しむようだけど、実際僕はそのように感じて生きてきた。


その時社会の勉強で習ったのが、『 絶対王政 』 。 『 絶対君主制 』。

その時は小学3-4年くらいでそう感じていたから我ながら可愛そうな時を過ごしたかもしれない。

でも、僕の家庭はまさにそんな感じがしてならなかった。



友達の誕生日会に行くのもダメ。

習っていた柔道で大会に出ることもダメ。

子ども会でのソフトの練習も夜遅くなるからもうダメ。



ダメ・ダメ・ダメ・ダメ・・・・・。

逆らった場合、家族全員が正座させられ何時間も説教が待っている。

その後、アホ~!とか一緒に叱られた兄弟からくる。



もうこの時点で、親から離れる機会を探っていたような気がする。

高校を卒業するという機会が与えられ、試験に一校だけ受かった短大へ行くことが決まった時メチャ嬉しかったのを今でも思い出す。



それは何故か?




絶対王政の支配下での生活が終わった~!!って云うものだった。






長々と話したが、

何が云いたいのかというと、僕らの王様は誰だ!という事。



僕は短大時代遊びほうけた

羽目が外れた。

王様は僕の親父から、僕に移った。

羽目を外しすぎコントロール出来ない状態になってしまった。



人は(サタンのDNAが組み込まれた)肉体があるから、

人が王様として自分の身体を支配するのはかなり難しい事を悟らされた。




色々それから僕も紆余曲折があって気付いたことは


『  神様の支配は最高だ!!  』 って事。






僕らを本気で愛してくれている方が

最善をもって僕らを支えようとされている。


サタンによってズレル事を嫌い

いつも真の喜びを溢れさせようとサポートしてくださる方。


例え失敗し、道を踏み違えても

それをまた良い教訓として、本当に良いモノに変えて僕らの道を確かにされる方。






どうでしょ。。。





僕らは誰を支配者として、心に迎え入れるかで全く違う人生を歩むことが出来る。

・・・

神様の御手の中での平安を味わってみませんか?

人からは得られない・・・力強い、暖かいそんな平安。。


僕らはそれを今日体験できるかもしれない。



感じている人は、もっと更に神様の恵みに驚かされるはずだから。


これは僕の大好きな歌の一つ。

苦しい時、さびしい時、嬉しい時にいつも口から溢れてきた歌。

御手の中で IN HIS TIME

http://www.youtube.com/watch?v=yvBZqQWCRhw&feature=related







心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?




僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.





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詩31篇(1)「御手の中に」 בְּיָד べ・ヤ-ド

〔カテゴリー愛顧〕

15節「私の時は、御手の中にあります。」(新改訳)
15節「私の運命(さだめ)はあなたの御手にある。」(バルバロ訳)

Keyword; 「御手の中にある私の時」 My times are in Your hands, My destiny is under Your control

  • 詩31篇には旧約聖書の中ではめずらしい表現があります。それは「私の時」イットターイעִתֹּתָי(`ttotay)ということばです。ここで「時」を意味するエトעֵתの複数形が使われており、「私の生涯は」(フランシスコ会訳)、「わが諸々の時」(岩波訳)、「わが時のすべては」と訳されています。いずれにしても、「私の時」が御手の中にあるということです。
  • 詩篇31篇は類型としては嘆きの歌ですが、この中に、神への信頼と告白を表わす表現が多く登場します。たとえば、
    「私はあなたに身を避けています」(1節)
    「私のたましいを御手にゆだねます」(5節)
    「私はあなたに信頼しています」(6, 14節)
    「あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます」(7節)
    「私の時は、御手の中にあります。」(15節)
    「あなたこそ私の巌、私のとりで」(1節)
    「あなたこそ、私の神です」(14節)
    「あなたのいつくしみはなんと大きいことでしょう」(19節)
    「主は・・私に奇しい恵みを施されました」(21節)
    これらをみるならば、とても嘆きの詩篇のようには見えません。しかし大切な点は、嘆きの中にどうしてこのような力強い信仰が告白されうるのかという点です。

その鍵は、この作者の「私の時」に対する理解にあるように思います。「時」に対するヘブライ人の時間感覚は私たちの時間感覚とは異なるようです。ちなみに、創世記における神の創造において、「夕があり、朝があった」という記述、一日が夕暮れとともにはじまるという時間感覚は、歴史の理解においても、ものごとや生活のすべての領域においても大きな影響を与えているはずです。

  • 預言者エレミヤはバビロンの捕囚となる神の民に対して主のことばを伝えましたが、そのことばの中に「わたしがあなたがたのために立てている計画は、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ」と述べています。「将来」ということばはアハリートאַחֲרִית('acharit)で、本来、「後、後代、背中、背後」を意味することばです。将来が背中にある。ということは「後ろ向き」に進んでいることになります。そして目の前はいつも過去を向いていることになります。つまり、ヘブライ人の時間の流れに対する感覚は、私たちとは逆で、未来(将来)に背を向けながら確実な神の事実としての過去を見つめています。このことが嘆きの現実に大きく影響を与えています。
  • 申命記におけるモーセの説教は、これから約束の地に向かって進んでいこうとしているモーセは民に対して絶えず過去に起こった神のストーリーに、40年間の荒野における神の恵みに目を向けさせることで、安心して主の御手にゆだるよう、励ましているのです。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs31%281%29

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詩32篇(1)「おおう」 כָּסָה カーサー

〔カテゴリー救出〕

7節「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた(כָּסָה)人は。幸いなことよ、主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのない人は。」

Keyword; 「おおう、覆い隠す」 cover, hide
32:1/ 55:5/85:2

  • この詩32篇1~2節には罪に関係することばか三つと、それに対処する神の三つの動詞が記されています。
    (1)ペシャーפֶּשַׁע(pesha`)・・「そむき」と訳され、神への反逆であることを最も強く表現することばで、神の律法の教えを破ること。
    (2)ハッターחַטָּא(hatta')・・「罪」と訳され、本来は「的をはずす、道を踏み外す」の意。神の定められた正規の道を踏み外し、人生の目的を失うこと。
    (3)アーオンעָוֹן(`won)・・「咎」と訳され、本来は「ゆがむ」の意で、不義とも訳される。
  • 「そむき」ペシャפֶּשַׁע(pesha`)、「罪」ハッターחַטָּא(hatta')、「咎」アーオンעָוֹן(`won)に対応して、それぞれ、「赦す」(ナーサーנָשָׂא)、「おおう、覆い隠す」(カーサーכָּסָה)、「認めない、数え上げない」(否定を伴うハーシャヴחָשַׁב)といった恩寵の動詞が見られます。ここでは「覆う、覆い隠す」という動詞に注目してみたいと思います。この動詞は詩32篇ではじめて登場する動詞です。口語訳は「おおい消す」と訳しています。人間が犯したすべての罪を神ご自身が覆ってくださるのです。人は自分の罪をどこまでも覆い隠すものです(原罪)。しかし神が人の罪を覆い隠すとき、それは赦し(愛)につながります。
  • ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤペテは自分のたちの父であるノアが酒に酔って失態を演じたとき、ハムはそれを他の兄弟たちに言いふらしました。しかし、セムとヤペテは着物をとって、しかも後ろ向きに歩いて行って父の裸を覆いました。ここにも同じく「おおう」というカーサーכָּסָה(kasah)が使われています。セムとヤペテは父から祝福されましたが、父の失態を人に告げたハムは呪いを宣言されてしまいました。
  • 箴言17章9節には「そむきの罪をおおう者は愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。」(新改訳) /「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる。」(口語訳)では「思いやりのある人は人のまちがいを水に流し、いつまでもこだわる者は親友までも失います。」(LB訳)とあります。「おおう」ことは「ゆるす」こと、「水に流す」ことと同義であり、「愛を追い求める者」のしるしであることがわかります。
  • 新約では、自分の罪を赦された使徒ペテロが「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」と述べています(Ⅰペテロ4章8節)。また、ヤコブも「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」(5:20)と述べています。
  • 旧約において神と人が交わるための「あかしの天幕」、「会見の幕屋」には絶えず神の臨在の象徴として目に見える「雲」がおおっていました。ここの「おおう」ということばも「カーサー」
    כָּסָהです。それは神の民が礼拝を中心するとき、常に神が民を導くお方であることを意味しています。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs32%281%29

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