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【詩篇30篇】o19 ダビデの賛歌。家をささげる歌
psm30:1 ★ 主よ。私はあなたをあがめます 。あなたが私を引き上げ 、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。
psm30:2 ★ 私の神、主よ。私があなたに叫び求める と、あなたは私を、いやされました。
psm30:3 主よ。あなたは私のたましい をよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かして おかれました。
psm30:4 聖徒たちよ 。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。
psm30:5 まことに、御怒り はつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
psm30:6 私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない 。」
psm30:7 主よ。あなたはご恩寵のうち に、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を 隠され 、私はおじ惑っていましたが。
psm30:8 主よ。私はあなたを呼び求め ます。私の主にあわれみを請います。
psm30:9 私が墓 に下っても、私の血に 何の益がある のでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。
psm30:10 聞いてください。主よ。私をあわれんでください 。主よ。私の助け となってください。
psm30:11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えて くださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
psm30:12 私のたましいがあなたをほめ歌い 、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。
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おはようございます。
今日はお休みだったもので・・・勝手に更新が遅くなってスイマセン。
では早速共にダビデさんの詩篇を。
今日僕の心に留まった言葉はコレ。
psm30:4 聖徒たちよ 。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。
psm30:5 まことに、御怒り はつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
御怒りって。
神様が怒ってるって事?
何故だろう?
それは
サタンが僕らをコントロールし、支配しようとしているからかも。
僕らが知らぬ間にサタンの指示に従ってる時に怒ってくれているのかも。
神様は僕らに怒ってるのもあるんだろうけど、
何故か僕は、大好きな僕らをコントロールしてマトワリつくサタンに怒ってるようにも思える。
ダビデさんの時代には無い凄い特権がある。
それは
ジーザスによる (悔い改め)『 リセット 』 。
【僕らは故意に、また知らぬ間にサタンに従ってる事に気付く。
それは、僕らの中にサタンのDNAが組み込まれているような感じ。。
しちゃ~ダメだと思っていても、嘘をついてしまう・・・みたいな些細なほんの小さなモノから
殺人に至らなくても、想像の中でそれを行ったりする大きなモノまで、日々僕らの心と身体は支配されて いるものだ。
サタンに従う時、僕らは汚れる。
汚れるという言葉を使うのは、僕らは元々汚れていない神様の素敵な子供だから。
サタンに従って汚された汚れによって、僕らは神様に近づけなくなる。
神様は汚れのない方だから。
水と油のように、完全に相容れる事はできない。
僕らはサタンによって汚されたならば、僕ら自身が神様に近づけなくなってしまう。
でも
今の時代、一瞬の内にその汚れを取る業が与えられた。
「酵素パワー アタック!」
なんてモノじゃない。
どんな漂白剤でも太刀打ちできない素晴らしい神様からのプレゼント。
『 ジーザスの血潮 』
僕らはそのジーザスの血を降り注がれる事で、
サタンの汚れを一瞬の内に真っ白にすることが出来る。
サタンの汚れは、宗教のように 『 善行 』 なんかで無くなったり薄くなったりすることは無い。
僕らが日々必要なのは 『 ジーザスの血潮 』
それを 悔い改めと呼んでいる。 】
神様はいつでもリセットできるコトを知って欲しいと願われている。
怒り・・・そんな感じにも思えてくる時は
静かに自分の状況を省み、リセットして見ることが必要なのかもしれない。
御怒りと感じる時は
決してズット続くわけではないから。
まことに、御怒り はつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
神様は朝明けの喜びを用意されているから。
だから
聖徒たちよ 。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。
今日もダビデさんの様に、
神様の実際を自分の言葉として発してみませんか?
絶対!夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。 んだから。
大丈夫。
今日も、そして来週も。。
絶対大丈夫なんだから。
死んでまで僕らに喜びを与えようとされる方に僕らは支えられている。
だから大丈夫。
心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?
僕らは今日も大丈夫!!
神様・・
eps1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、私に与えてくださいますように。
eps1:18 また、私の心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
eps1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私が知ることができますように。
ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.
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詩30篇 「御寵(のうちにある)」 רָצוֹן ラーツォン
〔カテゴリー愛顧〕
5節「まことに、怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。」(新改訳)
5節「ひとときお怒りになっても、命を得させることを御旨としてくださる。」(新共同訳)
5節 「その怒りはしばしで、その恵みは生命とともに長いからである。」(関根訳)
5節「ヤーウェの怒りは滅びをもたらし、好意はいのちをもたらす。」(フランシスコ会訳)
5節 「主の怒りはつかの間に過ぎますが、その恵みは生きる限り続きます。」(LB訳)
Keyword; 「恩寵、好意、恵み、御旨、喜び」favor, pleasing, will, delight, acceptable
5:12/19:14/30:5, 7/40:8/51:18/69:13/89:17/103:21/106:4/143:10/145:16, 19
- 格言的ともいえる詩30篇5節の原文には動詞がありません。原文の直訳は、「まことに、一瞬は、彼の怒りの中に、生涯(いのちחַי(ハイ)の複数形)は、彼の意志(好意、恵み、恩寵)の中に」と並んでいます。5節の頭にはキーכִּיが置かれており、前節―「聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ」-の理由説明となっています。あるいは、新改訳のみが、副詞的に「まことに」と訳しています。いずれにしても、作者は神の怒りと表現される神の不在経験はつかの間にすぎないこと、むしろ一生涯は神の恩寵の中にあることを確信した表現と言えます。それが賛美と感謝の理由です。
- ちなみに、ラーツォンרָצוֹן(ratswon)は名詞ですが、動詞のラーツァーרָצָה(ratsah)は「愛する、喜ぶ、好む、受け入れる、恵みを施す」の意です。
詩篇44:3/49:13/51:6/77:7/85:1/102:14/119:108/147:10,11/149:4を参照。
- ところが、私たち人間の弱さはそのように思えないことが多いようです。この詩篇の作者も、順境の絶頂にあるときには「私は決してゆるがされない」(30:6)と豪語したにもかかわらず、神が御顔を隠されたときには「おじ惑っていた」と告白しています。
- 預言者イザヤのメッセージは、移りゆく時代の激動の中で、人々の心が林の木々が風で揺らぐように動揺したとき、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。心を弱らせてはなりません。」(イザヤ7章1~9節)でした。現実の脅威の中で「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。」というものでした。「静かにすること」-これがイザヤのメッセージの核心です。神に召された者たちの人生も山あり谷ありです。私たちが留意すべきことは、山あり谷ありの人生を受け入れることです。そして、谷の中にあっても主の恩寵の中にあることを確信することです。そして変わるものではなく、決して変わらないものに目を向けることです。それは主のうちにとどまることであり、この方によって力を得ることです。
- イザヤ書30章15節にもこうあります。「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る』」と。この「力」とは、おそらく、使徒パウロが述べた「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ること―恩寵不変―」(ピリピ4章12節)だと信じます。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs30
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