
池上彰さんは、記者生活やテレビの仕事をしてきたことで、その時に何を思ったのか、これまで何を考えてきたのか、どのように行動してきたのか、いかに物事に対応してきたのかなどを振り返って赤裸々に語っていました。
彼は、むずかしいことをやさしくして話ができる人。中学生にもわかるように噛み砕いて伝えることができる人、内容をしっかり頭に入れて話し言葉でレポートできる人だ。人として尊敬できる人だ。これらは池上彰さん以外は簡単ではないだろう。
この本は、ジャーナリスト池上彰さん自身の総決算ともいうべき見事なほどに含蓄がある言葉が多くありました。
174P 記者レポートの方法を考えた
「人が死ぬと池上が顔を出す」と言われるように、大きな事件・災害が起きるたびに、ぼくはその現場に行った。
「どんなリポートをすれば、視聴者に届くのだろうか」と考えるようになっていた。
現場から伝えるというのは、現場にいないとわからない何かを伝えるためだろう。その場の雰囲気でもいい、熱さ・寒さ・臭いでもいい、何かを伝えられないのだったら、現場リポートの意味はない。ぼくはそんなことを考えるようになった。
まずは、現場にいる自分しか伝えられないものをリポートすることだ。次に大切なのは、伝える順番だ。視聴者の知りたい順番にリポートの内容を組み立てることだ。つかみを大切にするということだ。冒頭で視聴者の心をつかんでしまうことを言う。
内容をしっかり理解し、それを思い出しながらリポートすれば、そもそも原稿の棒読みにはならない。よくある「書き言葉」のリポートにはならない。「話し言葉」で伝えることができる。これが大事だ。
216P わかりやすいニュースをみんな待っていた
「こどもニュース」を担当して一番驚いたのは、子どもより大人、とりわけ高齢者から絶大な支持を受けたことだ。番組あてに、お年寄りからのファンレターが殺到した。「普通のニュースはむずかしすぎて、このくらいがちょうどいいのです」という趣旨のものばかりだった。
「こどもニュース」は、むずかしい言葉は一切使わず、ニュースの背景を基礎から解説する。これが、高い支持を受けることになった理由だろう。
新人研修のとき、ぼくは「中学校を卒業して数年たった人にわかるレベルの原稿を書け」という指導を受けた。
むずかしい言葉をそのまま使って原稿を書くことは、実はたやすい。むずかしい内容を誰にでも理解できるようにやさしくすること、これが大層むずかしいのだ。
223P 現実は現実として伝えながら……
子どもたちだって、この現実社会で生きている以上、やがてさまざまな現実に直面する。いつまでもかくしておくことはできない。だったら、子どもに理解してもらえるような説明を付け加えて伝えてみよう。あるいは、「こう考えてみたどうだろう」というアドバイスを添えて伝えてみよう。
「こんな悲惨なニュース、子どもには伝えられない」ではなくて、「こんな悲惨なニュース、子どもにはどう伝えたらいいんだろう」というように考えるべきなのだ。
これは、ぼくが子どもたちにニュースを伝える仕事を11年間続けた末にたどりついた結論だった。
1973年にNHKに入局して以来、半世紀にわたり報道の第一線を走り続ける池上彰。地方記者を振り出しに、警視庁担当、災害担当記者として、ホテルニュージャパン火災や御巣鷹山日航機墜落など数々の大事件を取材した。
「週刊こどもニュース」のお父さん役として、オウム真理教や9・11を子どもにどう伝えるか悩み抜いた。
NHKを退社して独立後は90の国と地域に赴き、激動の世界情勢をリポートし続けた。いま、過去の報道に学ぶべきこととは?
池上彰の視点で体感するスリリングな日本報道史。
<目次>
はじめに 移り変わる報道の世界に身を置いて
第1章 新聞の時代から放送の時代へ
第2章 記者は国民の代理人
第3章 転機となった「ロッキード事件」
第4章 「被爆二世」と向きあって―呉通信部での日々
第5章 誘拐、落石、飛行機事故―社会部が扱ったさまざまなニュース
第6章 「人が死ぬと池上が顔を出す」―現場リポートの意味
第7章 「教育問題」の時代
第8章 平成へ、そしてキャスターへ―オウム真理教を子どもにどう伝えるか
第9章 独立、そして令和へ―過去の報道から学ぶべきこと
おわりに
主要参考文献
池上彰さん
1950年生まれ。ジャーナリスト、名城大学教授、東京工業大学特命教授、東京大学客員教授、愛知学院大学特任教授、立教大学客員教授。信州大学などでも講義を担当。慶應義塾大学卒業後、73年にNHK入局。94年から11年間、「週刊こどもニュース」のお父さん役として活躍。2005年に独立。ニュースの基本と本質をわかりやすく解説する。