無意識的に行動している。
朝起きて小便して、顔洗って、飯くって、着替えて、ウンコして、家を出る。
朝の出来事は毎日同じ事だけど、意識的に行っている事だ。
無意識の行動は少し違う。
電車に乗り換えるとき、何処行きの電車か見ずに乗るようになったあたりから、乗り換えているときの記憶が無い。
本を読んだり、音楽を聴いたりしているときは、その事に意識が向くので、体が行っている事は脊髄に任せているのだ。
だからといって、意識がヒマなときに意識的に乗り換えているのかと言うと、そうでもない。
考えてみると、電車に乗っているときに、すでに意識が無い。
どのタイミングで、意識不明になっているのだろうか。
家を出る瞬間は、意識的だ。
ポッドキャストで落語を聴こうと、歩きながらアレコレやるのも意識的。
しかし、この時に意識はイヤホンを耳につける事に集中するため、体と意識が離れているのだ。
朝の通勤だけを取り上げると、どこで意識不明になるのか分かるのだが、日常のどの瞬間に意識不明になるか、いろいろ調べれば、集中のタイミングが分かるのではないか。
脊髄にいろいろ任せている時、外的要因で狂ってしまう事も恐ろしい。
例えば、乗り換えのときのいつものホームが、反対行きにコッソリ変わってしまったとしたら、間違いなくひっかかってしまうだろう。
意識と無意識の境目を意識的に把握する事ができれば、世の中をコントロールできるかもね。
文具が気になる。

新開発エンジン搭載のすごいシャーペン、クルトガ!


この記事のこの文具が気になる。
TBS RADIO ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフルというラジオ番組で、文具に興奮する事を「ブッキ」などと読んでいたが、まさにブッキだ。
使ってみたい。
ちょっとヤラせて欲しい。
さきっちょだけでいい。
小中高まで、なんとなく気になっていた文具だが、大人になってお金を手にすると、こんなにも様々な文具があったのかと、ブッキが止まらない。
その全てを統括するのが、手帳だ。
手帳の種類も使い方もブッキだ。
それでいて、何一つ身にならないから不思議だ。
乾燥がすごい。
朝起きると、喉が乾燥していて、危機感を感じる。
あらゆるものが水分を失い、カサカサになる。
その水分はどこに行くのだろう。
体の水分は、何もしなければ、息や汗とともに空中に飛び出していく。
見方を変えると、空気が体の水分を奪っているといえる。
空気があらゆる水分という水分を吸収しているのだ。
それが、乾燥なのだ。
実際の乾燥の仕組みは、二通り。
空気側と水分側の働きだ。
空気側の影響が強い時は、風によるものだ。
風が吹いて、そこらの水分をどこかに運んでしまうと、その場にも水分が必要になり、乾燥がはじまる。
ここでいう空気が水分を吸収する働きである。
水分側の仕組みは、熱による。
熱が高いと、物質は分解されていく。
固体、液体、気体というやつだ。
熱が高く、液体から気体を行き来しているときは、固体としてとどまる事が出来ず、乾燥していく。
また、水分が固体になる事でも乾燥するのだとか。
乾燥剤などは、化学反応を利用しているので、その限りではない。
乾燥の為に失った水分はどこにいくのだろうか。
僕の体内の水は、この世のどこにいったのか。
調べてみると、凄い事が分かった。
冬場の乾燥は、大気の移動によるものらしい。
熱と風、両方の作用だ。
低温は下に、高温は上にという性質がある。
冬場は低温が地面に行き、高温が空に行くのだ。
高温は、水分をさらっていく。
上昇気流という風にのって。
つまり、空気に吸収された水分は、空にのぼり雲になるのだ。
なんと!
壮大な水の物語だ。
僕の水が、空にのぼり、雲となり、雨となって、世界中の人の一部になるのだぁぁぁぁ。
乾燥で、喉が痛かったり、肌が痒かったりするけど、そう思えば思うほど、水分が抜けているわけで、世界中に自分の一部をばら撒いているという事なのだ!
面白い!
そうなると、湿気が気になるが、それは湿気の時期に考えよう。
流れも左から右にである。
これは、昔から右利きが多いという事なのだろうか。
しかし、昔の日本語は右から左だ。
縦書きの文書も右から左。
昔左ききが多かったという事か。
ある時期に右利きの方が多くなって、市民権を得たのだろうか。
右利き対左利きの大戦あったのではないだろうか。
文字単位でみてみると、文字は右利き用にできていると思う。
下記順が左から右に流れているのだ。
という事は、初め、右利きが多かった。
しかし戦いにやぶれ、左利きが支配した。
その栄光は続くことなく、右利きが再び戦いを制した。
のではないだろうか。。。
以前少し触れたが、遺書を書くWebサイトを作っている。
遺書という名前がネガティブなので、遺言にしようと思っている。
死を扱いたいのではなく、今自分が思っている最大限の気持ちをまとめてみるサイトだ。
人に何か伝えたいとき、まとまっていなくて、ただただ興奮するだけの時がある。
何かいいたいんだけど、何がいいたいのかよく分からない。
そんな自分がもどかしいのだ。
イライラして焦ってくる。
それがどんどん熱になり、興奮してますますワケが分からなくなる。
日頃から意識して、少し言葉に残しておくと、やはり違う。
常に伝えたい事を用意しておけば、大変な時にもあわてなくて済むかもしれない。
毎日に少しづつ意味が見えてくると思うのだ。
プログラムは出来ないので、OpenPneというミクシーみたいなのが作れるオープンソースを使った。
遺言なので、いらない機能はすべて削除。
「あしあと」もなければ、「メッセージ」を書く事も出来ない。
ただ、日記的に考えをまとめるだけだ。
ただ今、招待制となっている。
ナーンもしないなりに、意味とは何か考えたけど、ナーンもしない事と大差無いなと思った
かっこいい人たちを発見。



ヘビヘタにインスパイアーされたらしく、激しい。
邦題アルバム名は、「激情のギターラ」!!

または、山崎まさよし
あの、魚のヤロゥー。
死んでなお、俺を苦しめやがって。
骨を取り除いて、身をつかんだと安心して口に運んだのに、骨が残っていやがった。
ちっくしょー・・・。
口の中の上の部分が痛いぜ。
チクチクと痛いぜ。
次は慎重にと、口の中で丹念に丹念に舌も駆使して、時間をかけて調べあげた時に限って、骨は無いんだぜ。
バカにしやがって・・・。
だからといって、次は大丈夫とも限らないので、また慎重に慎重に食べると、なんか硬いモノがあるから、ザマァミロと思ってつまみ出したら、生姜だった。。。
ゆるせねぇ。
鯖のヤロウ、ぶっ殺してやりたいぜぇぇぇ。
ぶっ殺して、煮付けにしてやりてぇぜぇぜぇ。
そうやって、食べたんだけどもよぉ。
旨いところが、イラつくんだぜぇ。
魚は、「美味い」というよりは、「旨い」の方が似合っているっていうのも気にくわねぇ。
美味いは、どちらかというと、寿司とか刺身とか、鯛とかマグロとか、お高い奴らだが、旨いは、煮つけとか塩焼きとか、鯖とか秋刀魚とか、ビールがあいそうな庶民的で、親近感のある奴らが似合っている。
いっけん、
「それはいいのではないか。高く評価できるのではないか。全ての人に幸せを与えるコンセプトこそ、今の時代に必要ではないか。顧客のニーズに答える営業マンこそ、真の社会人ではないか。」
と思ってしまいがちだが、奴らの狙いはそうじゃないんだぜぇ。
油断させといて、打撃を加えるから恐ろしいんだぜ。
日本人は、もう、そうした奴らの手中にはっているから、未来永劫この苦しみから逃れる事はできねぇのさ。
まったく恐ろしい奴らだぜ。
今読んでいる本は、宇宙の果てのレストラン (河出文庫)
というくだらないSF小説だ。
このSFに出てくる転送装置では、人間を分子レベルに分解して、別の場所で再構成するという。
いろいろな映画や小説で、まことしやかにこの話は出てくるように思う。
しかし、これでは、分子にした人間を別の力で移動させるので、転送というよりは、移動だ。
単に細かくなっただけだ。
分子を再構成できるのなら、人間を再構成する必要はないのではないか。
石でも酸素でもなんでも、一回ばらばらにして、人間にすればいい。
ちなみに、分子とは物質だが、原子とは単位である。
そして、素粒子とは最小限の単位であり、最小限という事は、それ以上細かなものが無いというわけで、構成する要素はない。
つまり、素粒子は、物質として存在するわけではないらしい。
ウィキペディア的には、「空間的な大きさを持たない」とされ、「クォークとレプトン」があるらしい。
よくわからないのだけど、モノを構成する最小のモノは、共通であるらしい。
という事は、石ころで人間は作れるというわけだ。
しかし、今ここにいる僕をバラバラにして、ブラジルかどっかの石ころで瞬時に作られた僕は、今ここにいる僕なのだろうか。
「僕」という自分自身は、内面的(精神的)な要素がないと成り立たないし、外的要因も重要だ。
「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの命題にもあるとおり、意思がないと自分とはいえない。
他で作られた、まったく同じ「私」でも、意志がなければ「私」ではない。
究極、意思があればカラダは無くてもよい。
でも、もし、意思も素粒子で構成されていたらどうだろう。
素粒子の「空間的大きさを持たない」という考え方は、心のそれではないか。
素粒子のみが心を構成できるのかもしれない。
心というものが発見されれば、肉体を超えてしまうかもしれない。
誰かの体に心を転送するとか、心だけを解放してしまう事もできるかも。
電気の様な概念で扱えるのなら、ネット回線を自由に移動できるかもしれない。
そもそも空間的大きさを持たないのだから、世界観というものも消えてしまう。
ただただ、「我思う」という事をやっていれば、「我あり」なので、気ままでいい。
コミュニケーションの形も、文字通り心と心の触れ合いとなり、統合して別の人格になるかも。
まるでビリー・ミリガンだ。
未来の世界はそうなるとみた!