寒い。
寒い過ぎる。
どうしてそんなに寒いのだろうか。
熱は、高いところから低いところに流れるという。
僕が熱くて、周囲が寒いというわけだ。
その温度差が激しいとより寒いのだろうか。
もし僕の温度が周囲と同じか、それより低ければ、暖かいと感じるのだろうか。
周囲の温度を上げるというのは、エネルギーを使うし、エコではない。
しかし、自分の体温を下げる事が出来れば、エコだ。
健康を損なわずに、体温を下げるにはどうすればいいのだろうか。
冬眠である。
熊は、冬眠して厳しい冬を過ごす。
無駄なエネルギーを使わないように生命活動を極限まで低下させ、死に近い状態にするのだ。
死に近い状態になる必要はない。
激しい運動が出来なくなる程度でお願いしたい。
生きている状態が36度くらいで、死の状態が0度だとすると、18度くらいならば、半死という事だ。
歩く速度が半分になり、飯を食う量も半分になる。
仕事率も半分になり、成果も半分になる。
給料も半分になり、性欲も半分になる。
社会活動が半分になり、文明の進行も半分になる。
1年のうち、3ヶ月くらいはそういう時間があってもいいのになぁ。
人は誰でも主張があると思う。
最後の授業という素晴らしい記録がある。
死を宣告された大学教授が最後に伝えたい事を、授業したという記録。
これは素晴らしいし、うらやましい話だ。
だが、もしその機会を与えられたとして、いったいどれくらいの人がそんな授業が出来るだろうか。
やはり、資格というのがあるのだ。
そこで、僕は考えた。
これは、遺書だ。
公開遺書として、誰でもその機会をもてないだろうかと。
インターネットを使って、公開遺書サービスを始めたらどうだろう。
IDは、一人一つ。
かける内容も一回だけ。
訂正はOK。
1ページだけのブログを持つような感じだ。
そんなサービスはどうだろう。
想像力が乏しくなったのではないか。
インターネットが当たり前となり、あらゆる情報が手軽に共有できるようになった事と、技術の進歩のおかげで、新しい未来を想像できなくなっている気がする。
アトムやドラえもんのような漫画は、もう出ないのだろうか。
漫画でいうと、ガンダムやアキラが描いた未来が現在も行き続けている気がする。
破壊された未来だ。
ネガティブな未来が容易に想像できるし、カッコイイ。
なぜ、そうなったのだろう。
なぜ、それ以上の想像ができないのか。
なぜ、想像力は弱ったのだろう。
このままだと想像力は死んでしまう気がする。
よく考えてみると、想像力は制限された時に生きてくるように思われる。
インターネットがなく、情報のインプットが限られた媒体であったときとか、日本がまだ鎖国状態の時とか。
想像力は、エネルギーを生み、未来をより明るくすると考えられるので、われわれは今、拘束される事を欲しなければならない。
しかし、明るい未来の為に今を制限しても、やってくるのは今と同じ状態の未来、つまり、制限して想像するのは制限される以前の状態である可能性が高く、ナンセンス。
今我々は何かに制限されている、縛られていると新たに発見する必要がある。
僕は、新たな制限を発見した。
それは、「自由」だ。
我々は、「自由」に拘束されている。
自由とは何だ。
「何だ」という定義づけ自体が、自由を自由で無くするモノで、自由は自由すぎて扱いづらい。
その為、非常に容易に権利の主張を許してしまうのだ。
つまり、自由は権利を自由にし、権利は人々を拘束するのである。
そう考えると、想像力は働きかえる。
権利以上の、自由以上の力で持って、我々を自由にしなければいけない。
ちなみに、自由が持つ力は万物を統治していて、お金や時間、愛さえもを凌駕すると思われる。
まず人々は、お金の制限を受け、それを乗り越えても時間の制限を受け、それをクリアしても愛の制限を受け、さらに権利の制限を受け、自由の制限を受けると思う。
しかしながら、自由からの拘束を逃れる事は、想像力を生かすことではない。
自由の拘束を逃れた後の世界を想像する事が、想像力である。
なので、まずはじめに具体的にしないといけないのは、自由を超えた力である。
具体的にしていくのは、発見から始まるので、想像力の出番ではないのだ。
と、そこで詰まってしまう。
自由を超えた力とは何だろう。
本当の意味で、自由からの拘束を感じるまではな見つからない気がする。
その前に想像力が死にませんように。
あごが痛いのだけどなぜだろう。
成長痛だろうか。
これ以上成長したら困るなぁ。
昔の日本人は命より大切なものがあった。
それは名誉である。
名誉のためなら、命は安いものだと考えられた。
この考え方にはビックリだ。
今、どんな事があっても命が大切だと日本中の人が言うと思う。
戦争があってから、命の尊さがずーっと謳われている。
命こそが全てなのだ。
では、昔の日本人は、戦争を経験していないのかというと、そうではない。
そりゃもう、内戦がひどいのだ。
ただ一つ違うのは、名誉の為に死んだかどうかという事で、これは教育によるものだ。
沖縄では、小さい頃から学校で戦争の悲惨さと命の尊さを学ぶ。
それと同じように、名誉の事を学んでいたら、名誉が最上級になる事は想像できる。
今でもなんとなく、名誉が最上級であっても納得できる。
羞恥を負うくらいなら死んだ方がましという考え方に納得できる。
ただそれは、二者択一に迫られたときに判断するものであって、日頃からそんな考え方で生きていく事は出来ない。
昔の人に比べて、羞恥のレベルが下がったといった方が分かりやすい。
名誉が大切という事は、人生に目標ができるという事でもある。
名誉の為に生きるという事だ。
新渡戸稲造の武士道にもこの事は書かれている。
ヨーロッパの騎士道も似たような考え方があるらしい。
堅苦しくて難儀な考え方に思われるかもしれないが、よくよく考えてみると人生を楽しむウマい考え方なのかもしれないなぁ、と思った。
子供がどんどん大きくなっていく。
嬉しいような悲しいような。
今日インフルエンザの注射をした。
まったく痛くなかったのだけど、子供だったら嫌がるだろうなと考える。
でも、インフルエンザになっては大変なので今週打ってもらう。
だんだんと言葉を覚える我が子を見て、
「今だな」
と、決心する。
年末とか年始とか、区切りというけれど、区切る必要はない。
思ったその時その時がスタートだと思えばいいのではないか。
昨日の情熱大陸で、中居正広がいい事をいっていた。
「成功は約束されないけど、成長は約束される」
あまり好きな人ではなかったけど、見直したなぁ。
ネットのやりとりを見ていると、割と本について語られているケースがある。
ネットは必ずしも、本を否定しているものではない。
コミュニケーションのありかたとして、媒体を否定する事はあるかもしれないが、本の方はどんどん認められている気がする。
いろいろな人が一冊の本に批評するので、選ぶ方も分かりやすくなったと思う。
その反面、自分がいいと思う本が批判されていたりして、いろいろと感じる。
便利になるにつれて、昔からあるモノが本当のモノだという事がわかるなー。