今読んでいる本は、宇宙の果てのレストラン (河出文庫)
というくだらないSF小説だ。
このSFに出てくる転送装置では、人間を分子レベルに分解して、別の場所で再構成するという。
いろいろな映画や小説で、まことしやかにこの話は出てくるように思う。
しかし、これでは、分子にした人間を別の力で移動させるので、転送というよりは、移動だ。
単に細かくなっただけだ。
分子を再構成できるのなら、人間を再構成する必要はないのではないか。
石でも酸素でもなんでも、一回ばらばらにして、人間にすればいい。
ちなみに、分子とは物質だが、原子とは単位である。
そして、素粒子とは最小限の単位であり、最小限という事は、それ以上細かなものが無いというわけで、構成する要素はない。
つまり、素粒子は、物質として存在するわけではないらしい。
ウィキペディア的には、「空間的な大きさを持たない」とされ、「クォークとレプトン」があるらしい。
よくわからないのだけど、モノを構成する最小のモノは、共通であるらしい。
という事は、石ころで人間は作れるというわけだ。
しかし、今ここにいる僕をバラバラにして、ブラジルかどっかの石ころで瞬時に作られた僕は、今ここにいる僕なのだろうか。
「僕」という自分自身は、内面的(精神的)な要素がないと成り立たないし、外的要因も重要だ。
「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの命題にもあるとおり、意思がないと自分とはいえない。
他で作られた、まったく同じ「私」でも、意志がなければ「私」ではない。
究極、意思があればカラダは無くてもよい。
でも、もし、意思も素粒子で構成されていたらどうだろう。
素粒子の「空間的大きさを持たない」という考え方は、心のそれではないか。
素粒子のみが心を構成できるのかもしれない。
心というものが発見されれば、肉体を超えてしまうかもしれない。
誰かの体に心を転送するとか、心だけを解放してしまう事もできるかも。
電気の様な概念で扱えるのなら、ネット回線を自由に移動できるかもしれない。
そもそも空間的大きさを持たないのだから、世界観というものも消えてしまう。
ただただ、「我思う」という事をやっていれば、「我あり」なので、気ままでいい。
コミュニケーションの形も、文字通り心と心の触れ合いとなり、統合して別の人格になるかも。
まるでビリー・ミリガンだ。
未来の世界はそうなるとみた!