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simachyanのブログ

シャンソンを日本語に訳詞して唄ったりして遊んでいます。
ご隠居さんの手慰みであり、自己充足的な世界です。


本作品は、Ver.1 Pf. にしかわまこと & Ver.2 Pf. 江口純子 両氏の伴奏による2本立てであります。

枯葉
Les Feuilles Mortes & Autumn Leaves
ジュリエット・グレコ Juliette Greco & イヴ・モンタン Yves Montand
1945年、ローラン・プティ・バレエ団のステージ「Rendez-vous」の伴奏音楽の一つとしてジョゼフ・コズマ(Joseph Kosma)が作曲したものを、翌1946年に製作されたマルセル・カルネ監督の映画「夜の門」(Les Portes de la Nuit )で挿入歌として採用したときに、映画の脚本にも携わったジャック・プレヴェール(Jacques Prévert)が詞を付けたものでる。
プレヴェールとコズマは、大戦中に製作されたカルネ監督の名作映画「天井桟敷の人々」にもそれぞれ脚本と音楽で携わっていた名コンビである。

映画「夜の門」は、出演した新人歌手イヴ・モンタン(Yves Montand)によって劇中歌として歌われたといわれているが、実際にはモンタンの相手役だったナタリー・ナディエが劇中でプレヴェールのこの歌詞を口ずさんだのが真の創唱であるそうな。
作曲のコスマは、サウンドトラックにコラ・ヴォケールを想定していたらしいが、カルネ監督は拒否したという。
残念ながら、映画も曲も共々ヒットすることはなかった。
その後‘49年コラ・ヴォケールが最初に録音して発表し、同年にモンタンもリリースした他、多くのフランス人歌手たちによって歌われて、セルジュ・ゲンスブールもこの歌を歌っている。(後年この作品へのオマージュとして「枯葉によせて」という名曲を作ってもいる)
しかし、これを当時サン・ジェルマンのミューズともてはやされていた、知性派の歌手ジュリエット・グレコ(Juliette Greco)が採り上げたことで1950年代の大ヒット曲となって一気に世界に認知されるようになり、不朽の名作としてシャンソンのスタンダード曲となった。

1949年にアメリカにもこの曲がわたり"Autumn Leaves"というタイトルの英語歌詞が「ムーン・リバー」「酒とバラの日々」の作詞も手がけたジョニー・マーサー(Johnny Mercer)によって付けられ、1950年ビング・クロスビー、1952年ナット・キング・コールなどが発表している。
その後、ポピュラー・ピアニストのロジャー・ウィリアムズがインストゥルメンタル版アルバムの中で、枯葉の舞い散る様をピアノで模したきらびやかなアレンジが大評判となり大受け、1955年に全米ヒットチャートで4週連続第一位を達成している。
更に、’50年代末から’60年代初めにかけてスタン・ゲッツがジャズとして採り上げたことに始まり、名盤、ビル・エヴァンスの「ポートレイト・イン・ジャズ」や、キャノンボール・アダレイ(マイルス・デイヴィス)「サムシンエルス」の中で演奏され大評判を得て「枯葉」はジャズの大スタンダードナンバーの地位を確立することになりました。

本作品は、ピアニスト(にしかわまこと & 江口純子)の違う同曲の2本立てです。
歌唱は変わり映えのしないご隠居さんの手慰みで申し訳りませんが、お二人の素晴らしい伴奏を是非とも聴いていただいて、その感性の妙を感じていただければと思い、並べてみました。

Ver.1
訳詞・歌 Sima
Pf. にしかわまこと in 市川 ラ・メール
訳詞 no.141 (初稿)

Ver.2
訳詞・歌 Sima
Pf. 江口純子 in 市川 ラ・メール
訳詞 no.141 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル
chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/featured


やさしく歌って Killing Me Softly with His Song Roberta Flack (ロバータ・フラック) やさしく歌って Killing Me Softly with His Song ロバータ・フラック Roberta Flack
女性シンガーのロリ・リーバーマン(Lori Lieberman)が、当時まだ無名だったドン・マクリーンが歌う"Empty Chairs"という曲をロサンゼルスのクラブで聴いて感銘を受け、"With His Blues"という詩を書き、1972年8月にリリース。
リーバーマンのオリジナルはヒットしなかったが、飛行機の機内BGMとして採用されていたこの曲をシンガーソング・ライターである、ロバータ・フラックが偶然聴いて気に入ってアレンジして歌い、これを元に作詞家のギンベル(Norman Gimbel)と作曲家のフォックス(Charles Fox)とフラック当人との共同作業で最終的な曲に仕上げてシングルとアルバムを制作し’73年にKilling Me Softly with His Songとして発表し大ヒットとなった。
R&B、ポップ両チャートでトップ3に入ったこの曲により、73年5週連続全米1位に輝きこの年のグラミー賞最優秀レコード賞を受賞し、続けて最優秀楽曲、最優秀女性ボーカルの3部門を受賞した。
その後フラックのこの曲がネスカフェのCMソングとして採用されたことでさらに有名になった。

日本ではこの邦題で渡辺美里や、南沙織と尾崎紀世彦、ペドロ&カプリシャス、本田美奈子等がカバーしている。平井堅はロバータ・フラック本人とデュエットをしたりしている
余談だが、ロバータ・フラックはビートルズとも親交があり、特にジョン・レノンとオノ・ヨーコとは住んでいたダコタ・ハウスの隣の部屋の隣人として家族ぐるみのお付き合いをしていたという。

ヨーロッパの名だたる歌手たちもカヴァーしていて、イタリアではミーナやヴァノーニも採り上げていますが、何故かフランスの歌手の中では見つかりませんでした。
シャンソンではありませんが、とてもシャンソンの雰囲気を感じさせる曲として独自に感じていましたので取り組んでみました。

訳詞・歌 Sima
Pf. 江口純子 in 市川 ラ・メール
訳詞 no.140 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル
chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/featured


もう森へなんか行かない & 青春は過ぎ去りて

Ma jeunesse fout l'camp
フランソワーズ・アルディ Francoise Hardy

1967年にフランスのシンガー・ソングライター、ギイ・ボンタンペッリGuy Bontempelliの作詞・作曲で、フランソワーズ・アルディ のために書き、翌’68年にリリースされた曲。
原題は「私の青春は立ち去ってしまう(逃げてゆく)」と言う意味のようですが、「青春は過ぎ去りて」として日本語詞にしてみました。
フランス人なら誰でも知っている「私たちはもう森へ行かない」と言う童謡があり、森で楽しく歌って、踊って好きな相手にキスをしましょうと言う内容らしく、この童謡曲の内容が発想の原点にあるとも言われる。

日本では、TBS系列で放送された山田太一脚本のドラマ「沿線地図」で挿入歌として使われて、周知されてブームを呼んだ。
フランソワーズ・アルディと言えば、1973年に世界的大ヒットを記録したシャンソンの血脈を受け継ぐフレンチ・ポップ界の奇才 セルジュ・ゲーンズブールの作になる「さよならを教えて」が想起されます。

訳詞・イントロ編曲・歌 Sima
Pf. 江口純子 in 市川 ラ・メール
訳詞 no.139 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル
chanson de Sima (Sima World)
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心遥かに
Testarda Io(頑固な私)
~ La Mia Solitudine ~(私の孤独)
イヴァ・ザニッキ Iva Zanicchi

1972年に、ブラジルのシンガー・ソングライター、ロベルト・カルロスが従兄弟のエラスモ・カルロスと共に「A DISTANCIA」として作った曲にイタリア語歌詞を付けて’74年にイヴァ・ザニッキが歌い、ヒットしたものです。
作詞&作曲:Erasmo Carlos(エラスモ・カルロス) & Roberto Carlos(ロベルト・カルロス)
伊歌詞: Giuseppe Cristiano Malgioglioジュゼッペ・クリスティアーノ・マルジョッリオ)
このコンビは、日本では「アラビア」(拙訳・それが愛でないなら)や「逢いびき」としてオルネラ・ヴァノーニが歌った作品の作者でもある。
イヴァ・ザニッキの「心遥かに」は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の大作『貴族の肖像』の挿入歌として採用されたことで知られ、好評を博して大ヒットに繋がった。
また、イヴァ・ザニッキは、サンレモ音楽祭3回優勝の偉業でも知られる大物カンツォーネ歌手。

今回の作品の静止画の全ては、ある時は「にゃんこ (▼へ▼メ)オラオラ」ある時は「柑橘皮」そして今は「Yoshiko Hirano」とか称する得体の知れない戦友(遊び人とも言う)から拝借したものを、好き勝手に構成させていただいたものです。
公開の場ながら、ありがとうございました。

参考(拙訳)
逢いびき
 https://youtu.be/qkoNZKVdxH4
別れの詩
 https://youtu.be/QF_pgGPXphM
それが愛でないなら(アラビア)
 https://youtu.be/k_imRq3gnMg

訳詞・歌 Sima
Pf. 江口純子 in 月夜の仔猫
訳詞 no.138 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル
chanson de Sima (Sima World)
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リカード・ボサノヴァ & ザ・ギフト Recado Bossa Nova & The Gift (イーディ・ゴーメ)
1959年アメリカで活動していたブラジルのコンビ、作詞;ルイス・アントニオ Luiz Antônio作曲;デジャルマ・フェレイラ Dijalma Ferreiraによりによるボサノバとして創られ、ブラジルで発表され、歌姫カテリーナ・ヴァレンテ等が歌っていたようです。
その後’62年にアメリカのポピュラーシンガー、イーディー・ゴーメがポール・フランシス・ウェブスターによる英語歌詞で歌って話題を集め、知られることとなった。
さらに’65年にはジャズ・プレイヤーのハンク・モブレイがアルバム『ディッピン』の中で演奏して好評を受けこの曲の知名度を更にアップさせることになりました。

オリジナルのボサノバVer.のタイトルは「リカード RECADO」で、イーディー・ゴーメの盤は「ザ・ギフト THE GIFT」そして、ハンク・モブレイの場合は「リカード・ボサノバ RECADO BOSSA NOVA」と称されています。
原題の「Recado」は、ポルトガル語で「贈り物」または「伝言」。
意訳すると「愛の贈り物」となるんだとか・・。
ポルトガル語の原詞の内容は、「愛し合った二人の未練、今でも忘れらないでいる想い。そんな私の心からのメッセージ」というようなことらしい。
「ザ・ギフト(The Gift)」の英語詞は、原詞とはかなり違った内容になっているようです。
その後、数多くのジャズ・プレイヤーに演奏されるようになり、ジャズ・スタンダード・ナンバーとして定着することとなった。
日本では、イーディー・ゴーメの「ギフト(The Gift)」が、たばこの「セブンスターEX」のCMソングに使われ、知られるようになったこともあり、米国やブラジルよりも日本での人気が高い曲だという。

私の歌は、相変わらずリズム感が悪くて・・・。
また、冒頭のノイズが取り切れませんでお聞き苦しいと思いますが合わせて申し訳ありません。

訳詞・歌 Sima
Pf. 砂原嘉博 in 市川 ラ・メール
訳詞 no.137 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル
chanson de Sima (Sima World)
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鶴 ・ つる
ZHURAVLI(ジュラーヴリ)& Журавли

詞:Rasul GAMZATOV(ラスール・ガムザートフ)(アヴァール語)
曲:Jan FRENKEL(ヤン・フレーンケリ)
訳:Naum GREBNEV(ナウーム・グレブニェフ)(ロシア語)
創唱: マルク・ベルネス

北コーカサスのダゲスタン共和国において、アヴァール人の詩人ラスール・ガムザトフ(1923-2003)が1965年広島の原水禁大会に参加し、原爆資料館で受けた強烈な衝撃をモチーフにアヴァール語で詩を書いた。
ガムザトフとコンビで仕事をしていたユダヤ人の詩人ナウーム・グレーブニェフが、ロシア語に訳したものを読んだ映画俳優・歌手マルク・ベルネス(1911-69)のたっての希望でユダヤ人の作曲家フレンケリ(1920-89)が’68年に作曲して、1969年、旧ソ連のヒット曲となった。
ベルネスはこの歌をレコーディングしたーカ月半後に心臓病で急死した。

日本ではダークダックスによって紹介されて以来、シャンソンやカンツォーネ歌手の間でも人気が高く、コンサートでよく取り上げられています。

 ウクライナ出身のM・ベルネスは17歳の時モスクワへ出て、舞台の端役から映画に進出、「銃を持つ男(1938)」の中で歌ったのを切っ掛けに頭角を現し、「暗い夜(1943)」など、次々に主題歌をヒットさせて、スター街道を駆け上がりました。映画と平行して歌手活動にも意欲的で、しばしば自らの企画・原案でレパートリーを作っていった、珍しい歌手です。
  ベルネスの「語りかけるような歌い方」は軟弱だとして、かつてソ連文化省に非難され、1958年から2年間の活動停止を余儀なくされたこともあったという。
以上の文献 ユーラシア・ブックレットNo.31(東洋書店)
   「黒い瞳から百万本のバラまで―ロシア愛唱歌集」
    2002年6月15日、山之内重美著、定価600円(税別)
   ISBN: 4885953936 

詩は広島の少女像や折鶴からもヒントを得たものかもしれませんが、ガムザトフの出身地も1941年冬から43年春にかけて攻め込んできたドイツ軍との間に激戦が繰り返された地方で、ソ連軍と住民に多大な犠牲を出して死守された地区でもある。
多くの町や村が焼かれると共に、戦いの中で旧ソ連の兵士たちや一般市民が散ってゆきました。
住民の多く、それも少年や老人たちが兵士と共にありあわせの武器をもって突撃してきたと言う、元ドイツ兵の証言もあるようです。
 
私の訳詞は原詩との比較ができませんが、下記のデータをもとに想を得て、日本語の歌詞にしてみたものです。
   http://ribf.riken.go.jp/~dang/H.A.C./Zhuravli.pdf

訳詞・編曲・歌 Sima
Pf. 江口純子 in 市川 ラ・メール
訳詞 no.136 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル
chanson de Sima (Sima World)
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ブルースを歌う女 & マドモワゼル・シャントゥ・ブルースMademoiselle chante le blues パトリシア・カース Patricia Kaas

1987年にシングルリリースされ、ビックヒットに繋がったメジャーデビュー曲。
作曲は、カースの多くの作品を作っているディディエ・バルベリヴィアン Didier Barbelivienで、作詞にも関わっている。

カースは、13歳の頃からドイツとフランスの国境周辺の地元キャバレー等で歌っていた。
17歳の時パリに出て、一枚レコードを出すが不発。
19歳でプロデューサーのベルナール・シュワルツと出会い、Mademoiselle chante le blues を‘87年デビューシングルとしてリリースし、話題を集め評価を得る。
‘88年 ファーストアルバム発売3ヶ月で35万枚の大ヒット、プラチナディスクも獲得。
各方面での新人賞を総なめにして世界中に勢力を伸ばし、’89年までに150万枚のビッグヒット。
日本での発売は’89年。

私の歌の方は、特に仏語の読み・発音が間違っていますが申し訳ありません。m(__)m

参考までに(拙訳)
 ラ・リベルテ(自由と踊れ)
        https://youtu.be/7S9idJdhffg
 はかない愛だとしても
    https://youtu.be/X9Ab83ojjUg
 マ・キャゴール・ア・モワ(モン・メック・ア・モワ)
    https://youtu.be/9_bllsGaJAU
 ヴィーナス達の涙(風景)
    https://youtu.be/6m2GrlC39Og
 あなたのために歌いたい(歌わせて)
    https://youtu.be/tci3WeMRBvY


訳詞・歌 Sima
Pf. 江口純子 in 市川 ラ・メール
訳詞 no.135 (初稿)

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Cover 昔きいたシャンソン 
作詞・作曲 さとう宗幸 / by Sima
1977年(昭和52年)NHK-FM仙台で「FMリクエストアワー」という番組のDJになり、リスナーが投稿した詩に曲をつけて歌にする企画を展開していた。
そんな中、星間船一が投稿した詩をさとう(当時28歳)が一部変えて曲を付け、「青葉城恋唄」が誕生
1978年5月5日キングレコードからデビューシングル発売されメジャー・デビュー。

そのB面にプレスされていたのが自身の作詞作曲になる「昔聞いたシャンソン」

6月12日、宮城県沖地震が発生し、注目を浴びる中「青葉城恋唄」は大ヒットとなり、11月30日第11回日本作詩大賞を受賞した他、
12月3日、第11回日本有線大賞において、最優秀新人賞を受賞。
12月19日、第7回FNS歌謡祭において、最優秀新人賞を受賞。
12月31日、第20回日本レコード大賞において、新人賞を受賞。
この年、このシングル盤は売上100万枚を突破したという。

和シャンソンとしては、この曲を外すわけにはいくまいと思い採り上げてみました。

参考(私選・和シャンソン)
 見送った季節のあとで
   https://youtu.be/Tw_-kmBdw-E
  過ぎ去りし想い出は
   https://youtu.be/JcqdkQ0DZvI 
歩きつづけて
    https://youtu.be/M21qmIwXb5I
 光る河
    https://youtu.be/OePtQPk8LWc
 時代おくれの酒場
    https://youtu.be/_mRZYO4wh0U
 涙をふいて
    https://youtu.be/UmcXcv6wcE8
 身も心も
    https://youtu.be/IoBKqW9Oy8Q
    仏語版 わかって下さい 「信じているよ」
    https://youtu.be/Y120MMPYx0U

Cover by Sima
Pf. 砂原嘉博 in 市川 ラ・メール

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トワ Toi 
アラン・バリエール Alain Barrière

1966年アラン自身による作詞・作曲で発表された。
アラン・バリエールAlain Barrièreは、シンガー・ソングライターとして、
タイヤメーカーに技術員として勤めるかたわら、
自作の詩をパリのキャバレーで歌っていましたが、
1961年のシャンソン・コンクールでCathyを歌って決勝に残り、
注目されるようになりました。
1963年に、「美し過ぎた君(風が連れ去った恋)Elle etait si jolie」で
フランス代表としてユーロヴィジョンに出場し、5位入賞。
レコード化もされて人気を博し、オランピア劇場でポール・アンカの前歌として出演。
この時の歌も評判となりヒットして、以降スター街道を突っ走ることとなる。

歌の方は、相変わらず言葉が聴きづらいようで申し訳ありません。
レコーダーが簡易型のため、音の大きいほうに合わせて録音されるので、
声が上手く入らないことが難点です。

訳詞・歌 Sima
Pf. 江口純子 in 市川 ラ・メール
訳詞 no.134 (初稿)

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ESCRAVO DA ALEGRIA 
ヴィニシウス Vinícius & マリア・クレウーザ MARIA CREUSA
ブラジルの詩人、作家、作詞家、作曲家、翻訳家、外交官、歌手、
ジャーナリストという多才なヴィニシウス・ヂ・モライス
 Vinícius da Moraesの詞にギタリストのトッキーニョToquinhoが曲にした逸品。
ヴィニシウスは、オ・ポエティーニャ(O Poetinha, 「小さな詩人」の意)の
ペンネームでも知られるが、外交官でもあったことからパリやLAに赴任、戯曲や映画評も手掛け、異色な才人として早くから広く名声を獲得し、
1950年代後期にはブラジルの国連大使も務めた。
彼が1956年に世に問うた戯曲「オルフェウ・ダ・コンセイサォン」は、
マルセル・カミュ監督のフランス・ブラジル・イタリア合作映画
「黒いオルフェ」となり、1959年公開され同年の
第12回カンヌ国際映画祭でパルム・ドール受賞。
アカデミー賞では外国語映画賞を受賞したことで知られる。。
このときにはまだ無名であったアントニオ・カルロス・ジョビンを
ギタリストとして紹介。
サゥンドトラック制作に参加していて、
共にボサノヴァというポピュラーミュージックのスタイルを生み出すことにつながった。
ジョビンが作曲し・モライスが作詞したナンバー「イパネマの娘」や
「おいしい水」等は仏でも多くの歌手に採り上げられている。
また、「想いあふれて」のジョアン・ジルベルトとやスタン・ゲッツの
共演作品などにもよって世界的に知られるようになり、ヒット曲を多数送り出した。
洗練され、崇高なボサノヴァの歌詞のあり方の指針を示し、
以後のブラジルのポピュラー音楽に多大な影響を与えたとされている。
ジョビンとのコンビは1962年の「イパネマの娘」まで続いたが、
1960年代以降は、ギタリストとして有名なバーデン・パウエル (Baden Powell)や
トッキーニョ (Toquinho)ら多くのミュージシャンたちと共作し、
ボサノヴァに留まらず、それ以前のジョビンとの作品とは趣を変えた、
アフロ・サンバといった土着的な感覚に重きを置いた作品を生み出し、
自らも歌手として活動するようになる。
外交官として赴任した先のフランス・パリでは、フランシス・レイやピエール・バルーなどに
ボサノヴァを教え、それによって「フレンチ・ボッサ」(フランス人によるボサノヴァ)を
誕生させた原動力となった。
1964年にブラジルのクーデターで軍事政権が発足してからは、
左翼的なポリシーの持ち主故に外交官としての重職から排除され、
1969年には「アルコール依存症」を表向きの理由に
ブラジル外務省からも解雇され、
以後は晩年まで音楽分野での活動を続けた。
1980年7月9日没

私の歌はリズム感が悪くノリが良くなくてお粗末ですが、
これ以上の出来が望める自信もないので、
聞き苦しくて申し訳ありませんが訳詞の方を知っていただくことを主眼にしてアップしました。
発音も悪くて言葉が聞き取れないかもしれませんのでスーパーを入れました。

訳詞・歌 Sima
Pf.(イントロ編曲)    砂原嘉博  in 市川 ラ・メール
訳詞 no.133 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル
chanson de Sima (Sima World)
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