特別機動捜査隊(略して、特捜隊)の歴史とでもいうべき立石主任(演・波島進)は、
○#001 最後の犯人(ホシ)を追え【スペシャルセレクション】
(本放送・1961年10月11日)
で初登場。
そして、
(本放送・1971年5月19日)
が最後の登場回となり、初登場以来ほとんどのエピソードで行動を共にした橘部長刑事(演・南川直、当初の役柄は「刑事」、(第24回)狂った時刻表から「部長刑事」との情報有り)も最後の登場回となり、満10年を迎えることはありませんでした。
その経緯については、wikiに、
>番組前半期の顔であった立石主任役の波島と藤島主任役の中山は番組10周年を
>目前にして降板した。波島の降板理由は三船班をメインに据えた番組の路線変更
>に難色を示したことと言われている。この番組の降板から間もなくして波島は
>芸能界を引退した。
とあります。
しかしながら、かつて
【雑誌掲載記事から】ボウリング場経営に賭ける "特捜隊"の第一線を退く波島進
にて、自分が「掲示板特捜隊」からの情報である「週刊テレビガイド」(註・発行年月日は不明も、内容から#500 勇気ある女【スペシャルセレクション】が本放送された1971年6月2日より2,3ヶ月前の記事)によると、以下は要約となりますが
★去就については、波島進本人が、当記事の2,3年前から降板申し入れをしていた。
★その理由は、栃木県に展開するボウリング事業や、夫人の元女優・川口節子に任せている旅館経営など、俳優と併行していた副業に専念したいという意向によるもの。
★500回記念作品を待たずに降板することは、スポンサー変更時期に合わせた方が良いとも考えていた。
★さらには、「後進に道をひらく」という気持ちもあった。
ということが明らかになりました。
wikiにはニュースソースが無く、その点でいえば信憑性は「週刊テレビガイド」引用記事に有りそうですが、娯楽性が強い芸能記事ということ、また大人の事情から、本当の理由が他にも有り得ましょう。ですので、待遇不満説、副業優先説、の両説があることで、現状は納得するしかありません。
しかし、当稿での問題は、その「週刊テレビガイド」に
>中井氏(註・プロデューサー)は、こんどの新編成では一応、青木義朗の三船班
>をメインメンバーとして編成替えし、波島をセミレギュラーとする構想を立てて
>波島と交渉していた。
とあった点です
これらについては、かつて内藤勘解由さんからコメントで、
●【補足】#466 十年目の事件(ヤマ)(本放送・1970年10月7日)
でのコメント(2023-01-19 13:15:43)
→この頃作られた番宣パンフレットに「これからは人気上昇中の三船班、新進気鋭の高倉班、ベテランの立石班でお送りする」とあるので、三船班メインが決定していたと推測します。
●【雑誌掲載記事から】ボウリング場経営に賭ける "特捜隊"の第一線を退く波島進
でのコメント(2023-05-21 14:15:47)
→特捜隊DVDのブックレット巻末に掲載された当時の番宣パンフレットに「これからは人気上昇中の三船班、新進気鋭の高倉班、ベテランの立石班で御送りします」と書いてあった!
との、興味ある指摘が有りました。
これは、2021年9月8日に発売された「特別機動捜査隊 スペシャルセレクションVol.5・6人の主任篇Part1 」に解説書として同封された冊子のことであり、「当時の宣伝資料」として、おそらくチラシ(註・以下、チラシ資料と略)の表裏面が複写されています、表面に三船主任(演・青木義朗)のアップ写真、裏面にいろいろ書かれており、指摘された正式な箇所は以下の通りです(内藤勘解由さんの引用文が以下と異なるのは、別資料が以下を要約したものか? ただ、それだと「特捜隊DVDのブックレット巻末」との指摘と矛盾するため不明)。
>○500回を契機に、「特別機動捜査隊」は、いくつかのマイナーチェンジを
>はかります。
>1)レギュラーをフレッシュに
>現在活躍中で、人気も上昇一途の三船班を中心に、ベテラン立石班、新しく
>登場する里見浩太郎(註・原文ママ)の高倉班を配し、若くてフレッシュな
>「特捜隊」となります。
(註・チラシ資料の発行年月日は不明も、そこに"「協力・警視庁」のクレジットが入る唯一の番組です"、"茶の間に生き続けて10年、記録亭な長寿番組として500回を迎えようとしています"、とあることから、#466 十年目の事件(ヤマ)が本放送された1970年10月7日以降、初めて協力・警視庁が外れた#500 勇気ある女【スペシャルセレクション】が本放送された1971年6月2日までの間で、さらに番組のクール、立石班最終話・波島進降板意思表明の時期を考え、1971年の序盤に発行されたと考える)
実際には、三船班、高倉班の二班体制となったため、自分自身は、立石班を含めた三班体制構想があったことに驚きでした。しかし、その詳細資料は無く、その興趣は胸の中にあるだけでした。
ところが2024年2月になり、#154 東京0米地帯【スペシャルセレクション】で高校教師さんのコメントにより新たな情報が明らかになりました。その内容を以下に引用します。
高校教師さんの引用記事は、「週間TVガイド」「1970年10月下旬発売の号」
(2024-02-20 13:59:48)です。
特捜隊 来年三月に中止か
視聴率低下とスポンサー事情で
八年間も続いているテレビ界の大長寿番組「特別機動捜査隊」が来年三月いっぱいで終了するという話が出ている。
この「特捜隊」、一時は「鉄道公安36号」とともに水曜のゴールデン枠で絶対的強さをほこり、他局から魔の水曜日と恐れられていたほどだった。ところが八年も続くと内容や出演者の顔ぶれもマンネリ気味。その間、内容面でもテコ入れしたし、ゲストタレントの強化、レギュラー出演者の増員などで補強策は講じてきたが、なにせ八年間も続くと固定視聴者はつくが、あとはほかの番組に逃げてしまい、一時の30%、20%の視聴率を稼ぐ威力はなくなり、最近では14~5%がやっとの状態。
そこへスポンサー(車の方)の宣伝課長の交代と自動車メーカー全般の不況も手伝ってか、「三月終了案」が出てきたもの。これに対して制作会社の東映テレビ部では「でも、これはスポンサーの宣伝課長が代わると出てくる話で、まだ、正式に三月で終了させるというものではない。現にもう一社からは、そういった話は出ていない。まあ、今後の視聴率いかんということはあるかもしれません」と、三月終了説があることをほのめかしている。
一方、NETも「あとになるかどうか言えないが、橋本忍の書き下ろしによるアクションものを用意している」(邦画部)と言っているところから、今後の視聴率結果によっては来年三月いっぱい終了説、案外今度は真実性があるようだ
上記記事(註・以下、ガイド1資料と略)と、【雑誌掲載記事から】ボウリング場経営に賭ける "特捜隊"の第一線を退く波島進(註・以下、ガイド2資料と略)が、週刊テレビガイドソースとして内容を照らし合わせ、これまでの特捜隊の流れを考えると、想像に過ぎませんが何やら見えてきそうです。
そこで時系列に、経緯をまとめると、大まかに以下のようになります。
(1) 藤島主任(捜一・捜二・捜三係長)を演じる中山昭二が、他番組ウルトラセブン(1967年10月1日-1968年9月8日)終了に伴い、レギュラーに本格的復帰。
=(第364回)女でない女(DVD未収録回)立石班への応援参加では無く、藤島班の単独ストーリー
(本放送・1968年10月16日)
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☆東京ロマン 花と蝶(本放送・1969年7月7日-8月29日)にゲスト出演した青木義朗の演技を見て、中井義プロデューサーが三船主任抜擢を決断(【1970年】(3)特捜隊の収録回・未収録回・欠番回コメント、高校教師さんからの情報)。
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(2) 三船主任が登場
=#413 麻薬【スペシャルセレクション】(収録回)立石班・藤島班・三船班勢揃い
(本放送・1969年10月1日)
(3) 三船班第2話
=427 日本人【スペシャルセレクション】(収録回)三船班単独回
(本放送・1970年1月7日)
(4) 三船班第3話
=#433 全員救出せよ【スペシャルセレクション】(収録回)三船班に主任を除く他班応援有り、三船主任・関根部長刑事(伊沢一郎)・畑野刑事(宗方勝巳)初の組合せ
(本放送・1970年2月18日)
(5) 讀賣新聞に「テレビに暴力団俳優」と記事が掲載(新聞写しはネットに挙げられているが、新聞の日付は不明)
=(第441回)黒い破門状(DVD未収録回)
(本放送・1970年4月15日)
(6) 三船班第4話
=(第443回)桃色の報酬(収録回/VoL.9)
(本放送・1970年4月29日)
(7)三船班第5話
=#448 刑事【スペシャルセレクション】(収録回)
(本放送・1970年6月3日)
(8) 三船班第6話
=#460 砂の墓【スペシャルセレクション】(収録回)
(本放送・1970年8月26日)
(9) 三船班第7話
=#464 玄海灘の夕焼け【スペシャルセレクション】(収録回)
(本放送・1970年9月23日)
(10) 立石班ストーリーに三船主任が初登場
=#466 十年目の事件(ヤマ)(DVD未収録回)
(本放送・1970年10月7日)
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☆1970年10月下旬? にガイド1資料が発売か。特捜隊の翌年3月番組終了がスクープされるが、制作側は否定。ただし、「今後の視聴率いかん」という点で、#466 十年目の事件(ヤマ)での、立石班ストーリーなのに三船主任活躍譚ともいえる内容から、テコ入れを含め特捜隊番組改革を考えていたと推察される(詳細は後述)。
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(11) 三船班ストーリーに立石主任が登場
=#479 浅草の唄【スペシャルセレクション】(収録回)
(本放送・1971年1月6日)
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☆1971年1月? にチラシ資料が発行か。これ以前に、立石班・三船班・高倉班の三班体制構想が成立(註・波島進も合意)していたと推察される(前述)。
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☆1971年3月? にガイド2資料が発売か。この時点で、波島進の降板意思が認められ、立石班の終焉が確定していた。
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(12) 藤島班の終焉
=#497 人生試験地獄 (藤島班最終話)(収録回)
(本放送・1971年5月12日)
(13) 立石班の終焉
=#498 女の縮図 (立石班最終話)(収録回)
(本放送・1971年5月19日)
(14) 新生特捜隊のスタート
=#500 勇気ある女【スペシャルセレクション】(収録回)
(本放送・1971年6月2日)
(15) 高倉班の登場
=#512 高倉主任誕生【スペシャルセレクション】(収録回)
(本放送・1971年8月25日)
これらから推察するに、「スポンサーの宣伝課長が代わる」(ガイド1資料)、「スポンサーも変わる」(ガイド2資料)ことが引鉄となり、特捜隊テコ入れ、あるいはマスコミによる1971年3月番組終了説が出てきたことは疑いはありません。ならば、なぜスポンサー問題が出てきたのかというと、(5)における黒い破門状事件ではないか、というのが自分の考えです。今も昔も、スポンサーは企業イメージを大切にするでしょうし、悪くいえば、臭いモノには蓋をするものです。現在なら、黒い破門状事件が起こった時点で番組終了は確実でしょうが、本放送時は「協力・警視庁」ということもあり叱責のみにとどめ(番組終了だと、警視庁も何らかの処分となるため)、内々で特捜隊番組改革が行なわれたことは想像に難くありません。
その特捜隊番組改革が、立石班・三船班・高倉班の三班体制構想で、翌年1月までの間に、波島進からも合意を取りつけていたとの推察も可能です。#466 十年目の事件(ヤマ)が三船主任活躍譚であること、合意があったから#479 浅草の唄【スペシャルセレクション】の三船班ストーリーに立石主任が登場した、というのが自分の根拠です。そして、三班体制構想は1971年1月? のチラシ資料にも掲載、里見浩太朗の招聘も決まっていたと見られ、その開始を500回記念放送回にあてる予定だったのでしょう。
ただ、藤島班については、(第364回)女でない女で藤島班の本格的復帰がありながらも、1年も経たずして、立石班・藤島班に続く三船班を創設、三船主任を演じる青木義朗招聘に動いたことで、「視聴率を稼ぐ威力はなくなり」(ガイド1資料)の一端とみられたと考えます。そして、藤島班終焉は特捜隊番組改革のときには、真っ先に取りあげられた(中山昭二降板は早々に決まっていた)というのが自分の推察です。
しかしながら、現実には、1971年3月? 発売のガイド2資料により、1971年3月には立石班の終焉、波島進降板が急転直下決まりました。これは、制作サイドというより波島進サイドにあるというのが自然な考えなのですが、なぜ波島進は一度は合意した三班体制構想を取り消す判断をしたのかという疑問に辿り着きます。
その原因について、自分は、冒頭で触れた待遇不満説、副業優先説、の両説に求める点は変わりませんので、想像を交え深掘りしたいと考えます。
(1) 待遇不満説
波島進は、立石班・三船班・高倉班を、それぞれ独立した捜査班として、各回を均等に単独篇として、ごく例外に応援捜査篇、合同捜査篇とする当初の制作側の説明に、納得していた。ところが、高倉主任を演じる里見浩太朗のスケジュールから、500回記念番組回に高倉主任が間に合わず、制作側は「青木義朗の三船班をメインメンバーとして編成替えし、波島をセミレギュラーとする構想」(ガイド2資料)で再考を求めた。しかし、波島進は話が違うと一蹴したという推察。
(2) 副業優先説
波島進は、特捜隊番組改革後も俳優業と副業とを併行していく考えを持っていたが、前述の黒い破門状事件により、このまま特捜隊という番組に籍を置いていたら、副業に差し障りが出ると考えた。特に、ボウリングは後年評価も含め、
>1970年(昭和45年)前後には、須田開代子と中山律子に代表されるスター・
>プレイヤーの出現などがきっかけとなって、ボウリング場が数百メートルごと
>に立ち並ぶほどの一大ブームが到来した。日本国内のボウリング場は1972年
>(昭和47年)時点で3697箇所を数えた (wikiより)
ところから、俳優業より伸びしろがあると考え、立石班の終焉、特捜隊降板、そして俳優引退の道を選択したという推察。
まあ、あくまで自分の推察に過ぎないのですが、このたび高校教師さんから、新情報を提供していただいたことにより、自分なりに考えた次第であります。
人間たるもの、人生でここぞと決めたときは決断をするものであり(註・中井義プロデューサーの青木義朗招聘も決断のひとつ!)、この自分の推察が正しいのであれば、当時の波島進の心境は、
>智恵をめぐらせ 頭を使え
>悩みぬけぬけ 男なら
>泣くも笑うも 決断ひとつ
>勝っておごるな 敗れて泣くな
>男 涙は 見せぬもの
>(アニメ "決断" 主題歌 作詞・丘灯至夫 より)
だったのかもしれません。
しかし、本体の東映もボウリング事業を行なっていましたが、
>1974年、年頭の経営方針発表にて岡田はボウリング事業の苦戦に対し、
>営業努力と運営の合理化、関連事業の開発を語り
>(note 70. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」より)
ボウリング事業から撤退を決断しました。
波島進の、俳優業引退後の流れは知る由もなく、特捜隊終焉時に中井義プロデューサーからゲスト出演を打診されましたが、引退した身だからと断わり(高校教師さんからの情報)、1995年に逝去されたということです。。。