コトシロヌシの考える「商売繁盛」は、世の中の然るべきに倣い、人の期待に応えるだけでは良しとしていません。

独自の価値観も才能のうち!

by コトシロヌシ



彼が目指しているのは、「幸せに」豊かさを循環させることです。
だからこそ、
「独自性・価値観」は最重要ポイントなのです。



「自分の価値観」を置き去りにすると、現実的な豊かさを得られても、幸せを感じることができません。


どれだけスキルや能力を活かしても違和感がある


いくらお金を稼いでも、満たされない


人から認められても、むなしさを感じる



他者や社会を優先していると、とくにそう感じやすくなります。



かくいう私も、そう感じていました。

それには、過去にいた環境による学習が、深く関わっていました。



環境は、集団心理に関わってくるもの。

カンタンに言うと「みんな一緒であることに安心感」を抱きます。

その安心感が大きいほど、「はみ出ると叩かれるかも」という不安に陥ります。



とくにコドモのときは集団心理が強く働き、同調圧力を受けがち。

それを長い期間引きずっていると刷り込みとなり、なおのこと「同じでいる安心感」から出ることに不安を抱きます。


そして、いつの間にか「そうでなければいけない」という無意識の観念が成長しても残り、本来の自分の価値観とぶつかって、葛藤を生んでいました。



でも、安心感があることと、自分の価値観と合うかは違います。

もっと言えば、苦しくなったり違和感を強く感じるなら、自分の道はそこにないのです。



コドモの頃は、同調圧力を強く感じても、自分で場を選ぶにはなかなか難しいものがあります。

(少なくとも私の場合はそうだったのです)


そのため、ガマンするより他なく、独自性で突き抜けること=孤立することと長年捉えていました。


もちろん、今の私の現実にはないものです。

でも、その「枠組み」だけは残っていたんですね。



その枠組みを外すのに、前回でもお伝えした「自分の気持ち」と「現実」と「選択」を分けることで、見直していきました。

もはや「世界観」にまで響いていた、その観念を今もまだ手放す途上ではありますが、もう少しで出口が見えてきそうです。


私は、自分の「愛」で人とつながりたいんだな。
そう思えたとき、初めて心の底から「幸せに豊かさを循環させよう」と決意することができました。


次は、あなたの番です。
まだ見ぬ価値を知っているのは、今は自分だけ。
でも、その表現を求めている人は、必ずいます。


コトシロヌシの後押しは、その方法を自分の中から見出して、表現する道を開いてくれます。

独自の価値観は、孤立する弱点ではありません。


その先にあるのは、幸せに人とつながり、喜びをもたらすことで豊かさを循環させる人生の道です。

(連載は、まだまだ続きます)


コトシロヌシの神さまメッセージのご案内は、次にアップします。



神棚の神さまにまつわるご相談、承ります。





始める前に、ちょっとだけ前回の補足…というか、言い訳をば。


前回の投稿で「ヲタク」の概念を出しましたが、世のヲタクの方たちはシュミでそれをやっています。

なので、才能を探すとかいう場面で出すのは、なんかヨコシマかも…と、メンタル「そっち側」な私も思わなくもないのですが、一つの「視点・観点」として薄目で見ていただければ幸いです。


ちなみに私、白状すると昔はネトヲタでした。
(蛇足なんで興味ない方は読み飛ばしてください)

ピーーガーーなモデムの音を聞き、BBSにカキコしつつ2chはロム専しつつFLASHサイトを嗜み、ビルダーでタグが汚くなるのがキライで「こちとらメモで手打ちじゃあ!」とcssとタグを駆使してジオシティーズで自サイトも持っていました。キリ番もしてたよ!

その名残で、未だにゲイツ閣下(未だに)バンザイ。
リンゴ?ナニソレおいしいの?←

ニコ動は6桁台、今やリッパなインターネット老人ほんのりVIPぎみ(中年)に成長して現在に至ります。



さて「独自の価値観は才能である」は事実ですが、活かすとなると、これまでの自分の枠組み、場合によっては今の環境から「はみ出る」ことになります。

そのため、孤立することを恐れて「安全圏にいたい」と無意識に、自分でストップをかけるんですね。


強み・能力を活かしていても、違和感を抱いたり、満たされないのは、はみ出る恐れから自分の「価値観を封印」して、他者の期待に応えることにすり替わっているからです。

「こうあるべき」という条件や制限を課したり

「通用するはずない」
「どうせムリ」
「価値がない」

そんな自分の声で、自分本来の価値観による表現を諦めてしまいます。



かくいう私も、長年そこで引っかかっていました。「他者の期待に応えなくてはいけない」という規範を手放すことが、とても恐ろしかったのです。


自分の価値観を心の底からは認めることができず、「他者の期待に応えるため」と理由をつけることでしか、自分の力を発揮できなくなっていました。



そこで、どうしたか。

まず、「期待に応えなくてはいけない」という規範を徹底して見つめ直しました。



そして


「自分が好きである」

「そこに【私が】価値を見出している」


と、人の期待に応えるためではなく「私がしたいことをしている」と、シンプルに受け入れることに取り組みました。



枠組みが強くあるほど、時間はかかりますが、条件や制限をかけないほうが結果的に「うまくいく」。


ポイントは


「自分の気持ち」と「現実」と「選択」を分けること



たとえば「したくてもできない」と思っている場合。


自分(あるいは他者)が思っているのか?

それとも本当に事実・現状として、そうなのか。

そして「する」「しない」の決定権は誰にあるのか。



そうして切り分けて考えていくと、したいけどできない理由が、本当はどこにあるのかが見えてきます。


私の場合だと「期待に応えなくてはいけない」という規範から


他者から認められなくては、できない

人からどう思われるか「私が」恐れている


という自分の気持ちに行き着いて、問題は自分の感情であって、現実でも選択でもないことが判明する…という風に、ブレーキのありかがわかります。



少なくとも私には、そんな自分のブレーキがごまんとありました。

そりゃあ何しても満たされないわけです。

だって、期待に応えられない恐怖心から免れるために自分の価値観を利用することで、ごまかしてきたわけですから。



恐怖心が強すぎて、自分の選択もさることながら、自分の作ってきた現実も見えていなかったのです。

(フィルタが強くかかっていると、事実が見えにくくなります)



独自性とは人や社会にとっては未知の世界です。

世に出ていない「まだ見ぬ価値」を知っているのは、自分しかいないに決まっています。


「自分の愛」だからこそ、そこで人とつながることもできます。

まだ自分が知らないだけです。



自分の価値観は、決して無価値などではなく孤立させもしません。

そこに価値を見出す誰かは、必ずいます。

「そんなのない、いない」としているのは自分だけなのです。


続きます。


神棚の神さまにまつわるご相談、承ります。





コトシロヌシの「商売繁盛」は、幸せに豊かさを循環させるために才能を伸ばす後押しです。

だから「才能で金縁を結ぶ」と言われたとき、私はその才能を「能力」と解釈していました。
てすが、どうやらそれだけでは足りなかったようです。



今日は、コトシロヌシに言われたことや自分の感じたことをまとめていました。

これまでは神さまメッセージのご案内をぶっつけ本番で書いていました。
でも、後からわかることも多く、その度に書き換えていたので、これからはまず自分の中で整理することにしたのです。


整理する中でコトシロヌシの後押しについて及んだとき、ふと「才能開花」という言葉が浮かびます。
後押しを考えれば納得なのですが、どうも何か引っかかります。

私の「才能」の解釈、何かが足りない。

そういえば前回、私は自分の「好き」で仕事をすると決めました。
それは能力と被るものの、どちらかといえば「価値観」と言ったほうがしっくりきます。


さらに思考を深めていくと、「不満」には才能が隠れているのかもしれない、と思い至りました。

不満もまた、違和感や「もっとこうしたらよくなるのに」と気づく、その人個人の価値観に基づくもの。

でも、その視点そのものに独自性があり、他の誰にも真似できない才能が眠っているのでは、とピンと来たところで、ようやっとコトシロヌシの言わんとしていたことを理解しました。


「好き」は、それだけで役に立つものではありません。
単なる個人の嗜好です。
「不満」も、それだけでは単なる個人の考えです。

でも、コトシロヌシは

好きや不満、自分にしか感じられない「独自性の視点」にこそ才能が宿る

その独自の価値観こそ、才能を活かす要なのだと言いたかったのです。

才能だけでも、確かに役に立つでしょう。
でも、自分の感じることや価値観を置き去りにすると、いくらお金を稼ぎ、人から認められようとも、「幸せに」豊かさを循環させることはできません。

つまり、自分の能力と価値観をかけ合わせて初めて、コトシロヌシのいう「才能を活かして金縁を結ぶ」が成り立つことを理解したのです。


だから、もし今「自分の才能を見つけ出したい」という人がいたら、自分の「好き」と「不満」を見直すことをオススメします。
なぜなら、それはあなた独自の価値観であり、隠された才能が眠っている場所でもあるからです。

ポイントは、役に立つかどうかを考えないこと。
そして、決して人と比較しないこと。

なぜなら、アナタは

自分の価値観のヲタクだからです。

いいですか、ヲタクは自分の「好き」を他人と比較しません。
役に立つかどうかも考えませんし、「不満」は、そこに愛があればこそです。
それを否定することは、誰にもできやしません。

大事なことだから、二度言います。

アナタは自分の価値観の
ヲタクです。

この観点で言うと私は「神社・神さまヲタク」です。
文化や伝統にはもちろん敬意を払うけど、一番は「私が好き」なんだよ!愛しているよ!←

でも、神さまをむやみやたらに上にして、自分を下にする姿勢は不満…もっと言うなら、キライです。

敬意を払うのに、自分を卑下するのは違うと思う。
神さまにだって、できないことあるもん!
人だからこそ、できることがあるもん!!れ!!!
ヲタ全開になるとこうなります。


もちろん逆も然りで、神さまにできること、人にはできないことって確かにあります。
だからこそ、相互補完で持ちつ持たれつじゃないの?
人と目線を合わせてくれるなら、人が目線を合わせてもいいじゃないのさ。
…というのが、私独自の価値観です。


さて、才能を活かすには「外に出す」ことが不可欠。
言い換えれば、自分の価値観を人や社会に向けて表現をすることです。

でも厄介なのが、その「独自性」。
個人的なシュミならまだしも、人や社会に向けて…となると、大体(私も含めて)つまずきます。


その理由は、独自性が強いほど「集団や社会と相容れない」と感じがちからです。


続きます。



神棚の神さまにまつわるご相談、承ります。





コトシロヌシは商売繁盛の神さま。
まあホント、「商う」ことにかけては強いというか、ビジネスセンスが鍛えられます。

ただし、そのレベルや本気度で関わり方が違います。
そのレベルに相応しいと見るまで、「そこそこ」の後押しで様子見する神さまです。


◆これまでのお話
さて、お金の観念が歪んだまま凝り固まっていた私ですが、もちろんそのままでいるのはイヤです。

そんな中で、今更ながら「私って自分の『好き』でしか仕事していないな?」と気づきます。

神さまや神社、旅もさることながら、書くことも好きですし、そこでしか仕事をしていません。

でも、そこには「本当にこれでいいんだろうか」と思う自分もいました。
常に罪悪感がつきまとい、ひそかに他者からの評価を気にして、また求める気持ちから、自分で心の底から「好きを仕事にしている」と認めることができていなかったのです。

全く「覚悟」が足りていなかった…というか、ほぼゼロに等しいと言わざるを得ません。


これまでは、それでも何とか「好きでいる『フリ』」をすることで、罪悪感をごまかしてきました。
でも、ひとたび気づけば、もうその観念は無効になるのです。

自分でカクゴを決めない限り、先には進めないところまで来ていました。
そこで、思いきって「自分の『好き』で仕事をしよう!」と決意します。

何か具体的な策があるわけでもありません。
それだけで、現実が変わるわけでもありません。
でも、今の私にはその決意が必要だったのです。


すると、次のような言葉が浮かんできました。


「好き」で商うフリースタイル

それは、義務や強制ではない、また既存の枠組みにも当てはまらない、自由な私本来の仕事に対するスタンスでした。

そもそも、今までだって好きに自由にやってきているのですから、当然と言えば当然のことです。
でも、自己否定感の強かった私からすれば、それはとても勇気のいることでした。
とはいえ、「自己否定」をタテにして、覚悟することから逃げ回っていたことも否めないのですが。


私はそのスタイルを自ら受け入れることで、これから先は「新たな縁」を結び直さなくてはいけないのです。


続きます。




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十日恵比寿神社でコトシロヌシとの縁を強化してからというもの、お金にまつわる価値観の見直しが止まりませんでした。


「毎年のように取り組んでいるのに、どれだけ不要な観念があるんだーい?」と、心の中の芸人さんがツッコみますが、内面の深い部分にある観念ほど、気づくのに時間がかかるのです。


今日から始める新連載は、そんな私のお金と仕事、そしてコトシロヌシのお話です。

〜新連載☆えべっさんとお金と私〜


私には、幼少期に両親のお金の問題を「背負わなくてはいけない」という観念がありました。
それに気づいたのは、去年のことです。

実際には自分の責任ではないのに、罪悪感で背負い、さらに「しないで済む=肩代わりしてもらっている=許されている」という報酬期待も無意識のうちに隠していました。


気づくまでは他で理由をつけて抑えられていましたが、いざ避けられなくなると「仕事が『できない』」という状態に陥ります。


「今」「ここ」「私」の問題ではないにも関わらず、自分の仕事に無意識に投影していたんですね。


リクツでは「そんなはずはない」と思っていても、ココロが追いつかないと、投影は続きます。


その結果、「自分でお金を稼ぐ責任を引き受ける」ことは報酬がなくなること、即ち見捨てられることと勝手に拡大解釈して大きな恐怖心となり、去年はなかなか前に進めませんでした。


その取り組みに光が差し始めたのは、今年の初えびすに行った数日後。

「私って自分の『好き』でしか仕事していないな?」と気づいたことで、価値観を刷新する糸口を見つけ出しました。


続きます。




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