巫(かんなぎ) の林紗妃です。

 

突発的に、連載を始めました。

 

①取り繕いたい私

②SOS、その後。 

③許されたい私

さて、自分が選択しているという自覚が薄く、誰かに許してもらいたい気持ちの強かった私。
それは、自分の能力の不信感や度外視ぶりにも影響を及ぼしていました。

次の記事で終わりです。


何かしらの引け目が付きまとい、結果的に「私がどうしたいか」すら度外視する始末。
そんな状態の中で、ふと思います。

「自分のために生きる私」のチカラを過小評価しすぎているのでは?

もっと言うなら

自分のチカラを活かして生きるのを許していないのは「私だけ」では?

強い恐れが出てきますが、感じていることは現実ではないのです。
「能力を低く見積もっていたことを認め、矮小化するのをやめよう」と決めました。


そこで、やっと能力の評価基準に行き当たりました。
それも、自分の能力をオヤの期待通りに願いを叶え、自分を承認してもらうのに役立つかで評価していた、という。

なるほど、それでは自分のチカラを「全く価値のないもの」とするわけです。
だって「オヤを自分でどうにかする」のには、全く何の役にも立たないのですから。

こんな観念もありました。

自分のチカラを正当に評価すること
=オヤに愛されない自分になること

不適切な養育の刷り込みによって、「できない自分」でいることがオヤに愛される条件と思い込んだ結果、できることを認めるのは恐怖でしかなかったんですね。

でも、さすがにここまで取り組めば、否が応でも現実と乖離していて、感情こそが不合理なことに気づきます。


自分のチカラを信じることは、自分の能力を適切に評価して、努力し続けること。

「自分を誰かに委ねるための対価でもない」のは言うまでもなく、何でもできるようになることでも、ヒトの役に立つことでもありません。

自分が「活かしたい」という意志から能力を使う。
その結果、人の役に立つ。


責任と自由は表裏一体。
自分の価値観を尊重し、もっと言えば「好き嫌い」も大切にしながら、自分の人生を自由に生きることでもあります。

それが自分の人生を引き受けるということなのでしょう。


とはいえ、正直に言えば私も「自由を手に入れた!」とは言えません。
まだまだレッスンは始まったばかりです。
でも、今でははっきり言えます。

私は私の自由を手に入れて、自分を幸せにできる。

それを特別なことと捉えるのではなく、当たり前にしていけるのだと、えべっさんの後押しから教わりましたし、これからもまだ沢山のことを学べるのだと思います。



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