たまに昭和散歩

たまに昭和散歩

某ブログで公開していた記録を保管している場所です。
昭和の頃を感じられるいろいろな場所を、たまに調べています。

某大手ブログにて公開していた過去記事を、そのまま移行保管しています。
なぜか未だにそこそこのアクセス数がありますので、需要を考慮して残すことにしました。

転載元がある旨を載せていただければ転載等は特に制限しません
(転載元については特にこのブログの名称やアドレスの表示は必要ありませんので
「あるブログを参考にした」「あるブログを見て行ってみた」程度で結構です)。
要するに当方の発見や成果を他人に主張されない限り、特に問題視しません。

「たまに昭和散歩」などと銘打っていますが、そういう趣味を嗜んでいるわけでもないので
ライフワーク的に活動を継続している者ではありません。タイトルは単なるカッコつけです。
従いまして新たな発見に取り組む意欲などあるはずもなく、今後の更新はお約束できません。
今まで残した記録をご活用いただくための場所とお考え下さい。

でも、何か気が向いたら調べに行くかもしれないし、何か見つけたらここに加えるかもしれません。
Amebaでブログを始めよう!
かつて神奈川を中心に7店舗を展開していた家電・ホビーのチェーン店「ALiC日進」。その後編です。


●大船店

ALiC日進は「家電とホビーの専門店」のキャッチフレーズで知られていましたが、
全体的には家電販売が大半を占めていて、ホビーについては一部店舗のみの取り扱いだったそう。
横浜駅西口本店は地下フロアの全てをホビー専門売場に充てるなど力を入れていましたが、
ほかには川崎駅店のみに設置されていたと言い、店舗限定の展開でした。

営業不振のため、21世紀に入って店舗を削減。
本店の横浜駅西口店が撤退した後、川崎駅のお店も閉店。
その後は大船店が実質的な本店となり、ホビー部門もここに移ってきました。
昭和から平成にかけての懐かしいチェーンと思われているALiC日進ですが、
大船店については比較的長く残って、閉店したのは2012年。7年前まで営業していたのです。

そんな大船店の跡地に行けば、まだ何か名残があるでしょうか。

大船駅は交通の要衝です。
JR東海道線と横須賀線の分岐駅、根岸線の終着駅。そして湘南モノレールの始発駅。
周辺各住宅地へ向かうバス路線も多数発着、バスターミナルもあります。

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鉄道利用者が多いわりに駅周辺の再開発は遅れていて、道路整備は停滞しています。
とにかく車が通行できる道が限られ、主要道も道幅が狭い。
どこかゴチャゴチャした印象で前時代的な雰囲気が色濃く残っています。
駅からちょっと入ると昔の市場そのもののような光景で、路地の両脇にはぎっちりと商店が並ぶ。
車道であるはずの道にまで商店の品物が溢れ、市場の構内道路と化しています。
これが大船という街の良さでもあり、反対にウイークポイントでもあるのですが。

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それでも大船の個人商店は廃れる傾向にあるのでしょうか。
先程の市場のような区画を抜けると、ちょっと閑散とした街並みに飛び出ます。
そこには首都圏郊外の駅周辺のどこにでも見られるような、コイン駐車場が多数点在。
ここにも以前はお店があったんだと思うのですが…やはり不景気はこの街にも波及しているのか。

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大手のブランドを冠したコイン駐車場は、だいたい昼間1時間400円というのが相場。
首都圏郊外の駅近くとしては一般的な設定ではないかと思います。

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ここは大手ではないせいか、少し安い。1時間300円。

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そんな中、ひときわ広い敷地の駐車場がありました。
あの狭い面積に詰め込まれた市場のような区画のすぐ横に、こんな広大な空き地がある。
再開発の前触れという訳でもなさそうなんですが、ちょっと不思議に思えます。

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この広い駐車場、料金がとても安い。1時間200円と、首都圏の駅近くとしては破格。
そしてなんという偶然か、名前がまたありがたい。「日進駐車場」。
ALiC日進を探しに行く途中に、日進駐車場。なんだか縁起がいいような気分がするじゃないですか。

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料金設定が安いためか、周囲の駐車場はガラガラなのにここだけは稼働率が高めです。
なにせ30分単位で100円から。近隣の買い物やちょっとした用事に重宝するようです。
すっと入ってきて用事を済ませ、比較的短時間で出場する利用者が多いように見えました。

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「日進第1駐車場」と書かれていますが、ということは近くに第2もあるということでしょうか。

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それにしてもこのパーキング、掲示の類いが独特です。
普通のコイン駐車場はもっとロゴマークを主張しながらも、記載の類いはごくごくシンプルです。
ここ日進駐車場というところに関してはそのような一般的な概念から外れている気がします。
個人経営だからかもしれませんが、駐車場の掲示というよりは一昔前の店舗のPOPという感じ。

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そして、お願いとか注意文の内容がかなり細かい。
大手と違いあらゆる問題に手が回らないことも理由かとは思うんですが、
なんとなく気難しい経営者なんじゃないのかとか、余計な推測までしてしまいます。

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同じ区画の裏手に、そっくりな雰囲気の駐車場がありました。

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予感的中、日進第2駐車場という名がありました。料金は第1と同じで、やはり安い。

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偶然見つけた日進という名の駐車場ばかり見ていないで、早く肝心なALiC日進のほうへ…
そう指摘されそうなんですが、いえいえこれも大切な現地取材なのです。
なぜなら、たまたま通りがかりで見つけた同名の駐車場という訳ではなくて、
この駐車場自体がALiC日進と大いに関係があるものだからです。

入口付近の掲示を見れば、わかります。一見先程の第1と同じようなのですが…

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なんとこちらには「ALiC日進第2駐車場」とある。
そう、この駐車場はかつてのALiC日進大船店の直営です。

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日進第1駐車場・ALiC日進第2駐車場のすぐ隣、狭い私道を挟んだ場所に、
つい7年ほど前までALiC日進大船店が営業していました。
その場所には、今も建物が取り壊されることなく現存しています。

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あの懐かしいマークと店名ロゴも、そのままです。
横浜駅西口本店で何度も眺めたこのマーク、20年ぶりくらいで再会した気がします。

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店舗跡の建物も駐車場の土地も、ALiC日進の所有不動産だったようです。
営業不振で横浜駅西口本店から撤収後も、ここに拠点を移して頑張っていたのでしょう。
ALiC日進という店舗経営は頓挫したものの、法人としてはまだ生き残っている模様です。
かつての横浜駅西口本店は今ではドン・キホーテ、あの1等地ですから家賃収入は相当のはず。
大船店跡地は、現在時間貸し駐車場という形に姿を変えたものの、同じ経営母体が経営しています。
ALiC日進は経営破綻したのではなく、自主的な経営縮小・閉店という方向で消えていったケースです。
その辺りは過去取り上げた磯村建設・新栄電機とは全く違う方向性の撤退と言えそうです。

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駐車場オーナーと思われる男性が車でやってきて、店舗跡のシャッターを開けました。
現在は駐車場の管理室という名目で利用しているようですが、管理業務はほとんどないはずです。
横浜西口や鶴見西口の「ALiC日進ビル」のオーナーでもあるかもしれませんから、
そういう業務で事務所の体は維持する必要があるとか、そんな理由なのでしょうか。
※経営母体の「株式会社日進」の本社所在地は現在も旧横浜駅西口店の住所のまま、
 ドン・キホーテ横浜西口店に代わった現在も事務所だけ現存している可能性があります。
余談ですが、オーナーさんの車はレクサスでした。少なくとも現在の経営は成り立っているようです。

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「日進第1駐車場」の駐車券。掲示にはありませんでしたが、ここにはちゃんと
「ALiC日進」のロゴが入っています。今でも一般人が容易に触れられる、貴重なALiC日進。
駐車券という性格上、残念ですが持ち帰ることができません。写真に残すだけになります
(出庫時に領収書を発行できますが、こちらは「日進第1駐車場」の印字だけでロゴはありません)。

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かつて横浜や川崎という主要駅で、家電とホビーの大型店舗を構えていたALiC日進。
末期にそれら要素を集結させたここ大船店ですが、もうその賑わいを見ることはありません。
つい7年前まではこの建物の中に家電売り場や模型売場が詰め込まれて、
それらを求めてお客さんがやってきた…などという様子は、もはや想像することすら難しい。
そう、既に7年も経っているのです。建物だけでも残っているのが奇跡的というべきか。

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駐車場経営だけであれば、敷地内に小さな小屋を建てれば足りる気もします。
あえて店舗跡の建物を残しているのには、やはりそれなりの理由があるんでしょう。
去年までは看板類や掲示類が多く残っていたようですが、残念ながら撤去済み。
それでも今のこの姿についてはまだ当分残るのかもしれません。

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大船に行けば、今もALiC日進の名残に触れることができます。


●生麦店

テレビCMの頃にもちゃんと「生麦店」と出ていたし、昔から存在したはずなんです。
しかし生麦というのは急行すら通過する小さな駅、駅前も僅かな商業地があるだけ。
大ターミナル駅に堂々と自社物件を構える大型家電店が出店する立地でもないし、
なんだか異色な存在だなとは思っていたのです。

実際、ALiC日進生麦店は特殊な店舗だったようです。
駅利用者が多く立ち寄るわけでもなく、かといって車で来店する客がターゲットでもない。
それじゃなんなんだと言われれば、前時代的なスタイルの電気店だと言うしかないのです。
ここ生麦店は、我々が知っているALiC日進とは異なるお店です。当時も、そして今も。

ALiC日進生麦店は、国道沿いに建てられました。
都内から横浜まで海沿いを通る幹線道路、国道15号。「第一京浜」とも呼ばれます。
物流を担う重要道路で、とにかく大型車の往来が激しい。
家電とホビーの専門店が出店する場所としては、似つかわしくないイメージしかありません。

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生麦店の住所の辺りを歩いてみると…国道沿いの歩道の先に、見覚えのある看板を付けた建物が。

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テレビCMで見かけた巨大な店舗とは正反対の小型店舗、そして外装もとても地味。
これがALiC日進の建物だったとは、にわか信じられないというのが正直なところ。
しかし、現実としてこうして残っているのだから、疑いようもない。
なぜこのような建物でありながら、取り壊されることもなく残っているのでしょう。

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今なお解体されずに店舗が姿を留めている、その理由。
「ALiC日進生麦店」は、存続店舗。2019年の現在も、まだ営業中です。
唯一継続しているALiC日進として、細々と生き永らえています。

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ALiC日進のキャッチフレーズ「家電とホビー」はちゃんと掲げているものの、
専門店の部分は外されていて、その辺りはなにか配慮があってのことかもしれません。
実際、ホビーの扱いはないし、家電の陳列も見当たりません。かつての栄光は何処へ。
すでに積極的な営業は終えていて、昔の馴染みである顧客の対応に限定しての販売のようです。
高齢の利用者などは今でも近所の電器店に頼る人も多く、この生麦店も同様なのでしょう。
大型店舗のイメージが強いALiC日進も、地元密着という隠れた一面を持っていたんですね。

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古い店舗の外壁には「日進電気株式会社」と刻まれています。
その様式から1960年代以前のものと推測されるのですが、
そうするとALiC日進より古い時代の建物なのではないかという推測に至ります。
母体の創立は戦後間もない昭和22年と聞きました。当初このような小さな電器店から
始まったはずで、後年有名になった大規模店舗「ALiC日進」はこの企業の絶頂期の姿。
堂々と家電販売の社名を掲げていることから想像できるように、ここがALiC日進の生まれ故郷です。
あれだけ大きなお店が全部消えてしまって相当経ちますが、生麦には今も小さなお店が残っています。

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懐かしいロゴマークを掲げる、間違いなくあのALiC日進のお店。
多くの人の記憶している姿とは全く違うかもしれないけど、
でもこれを見て懐かしむ人は少なくないと思うんです。特に横浜市民には。

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駐車場もなく、通行人も少なく、通りすがりに立寄る人は皆無。
たぶん近隣の常連客からたまに電話が入ると対応するとか、そのレベルだと思います。
テレビCMで見たALiC日進とは正反対なお店の姿ではあるんですけど、
かつての街の電気屋さんはみんなそんなものだったはずで、ある意味「日本の電器店の原点」です。
横浜駅近くの繁華街に巨大なお店を出していたALiC日進も、始まりはこんな電器店だった。
昔返りとはよく言いますが、この会社も原点に還ってから消えていくのかな…
そんなことを考えてしまう生麦店の姿でした。

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もうホビー売場のワクワク感もないし、オーディオのマニアックさも感じることはできませんが、
ALiC日進という昭和の頃流行った人気店の名残は、現代でもかろうじて残っています。
あの懐かしいロゴを感じに、横浜辺りまで足を延ばすのも一興かと思います。
なにせ、失われてから辿ろうとしても、それはもう叶わないものですから。
残っている今のうちにしっかり記憶に刻んでおくことが大切かと考えるわけです。
興味のある方は、お早めにどうぞ。


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今回のALiC日進レポについては、当方の記録を参考にしていただくこと、
また記載を転記することに制限は設けませんが、直接のリンクはご遠慮ください
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ご協力をお願いいたします。
 
かつて神奈川県内を中心に出店していた「ALiC日進」というお店がありました。
「家電とホビーの専門店」と銘打ってテレビCMを放映。
神奈川県のチェーンなので、地元TVK(テレビ神奈川)でよく見かけた記憶があります。



特に横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズに代わる頃のナイター中継で頻繁に流れていたはず。
屋敷とか高木豊とか遠藤とか、ポンセとかパチョレックとか、五月女とかレスカーノとかがいた時代。
要するに昭和末期から平成10年くらいまでは盛んに宣伝していたのでしょう。
東京の各テレビ局でも流していたようなので、関東圏にお住まいなら知っている方もいらっしゃるかと。
しかしここも大型店の攻勢に追いやられてしまったのでしょう。
だんだんCMを見かけなくなったなと思ったら、いつの間にかお店もなくなっていた…という感じ。

私がよく訪れたのは旗艦店の横浜西口本店。ヨドバシカメラのすぐ隣にあったので
通る機会が多く、そのたびに立寄って眺めたものです。
当時のヨドバシはまだカメラ専門店の性格が強く、家電も取り扱いは豊富とは言えず、
玩具やホビーについてもテレビゲーム関連以外はほとんど販売していませんでした。
ALiC日進はカメラや時計、家電全般や高級オーディオ、そして模型など、多彩な売り場が充実。
特に地下の模型売場はプラモデルからラジコンヘリまでとても豊富で専門的な品揃え。
若者や子供にも入りやすく、まさに宝箱のような空間でした。
今のヨドバシカメラの売り場構成も、この辺りの延長にあるのかもしれません。
家電とホビーを一緒に扱うスタイルという点で、このお店は時代を先取りした存在だったのです。

最盛期には秋葉原にも出店していたと言われます。
私が見た記憶があるのはほんの一部なんですが、テレビCMにある通り
横浜駅西口本店・大船店・横浜駅店・川崎駅店・生麦店・鶴見西口店・秋葉原店と、
全7店舗のチェーンとして展開していたことが解ります。

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このうち横浜駅店・川崎駅店は駅ビル内店舗のはずですから、既に形跡は辿れません。
秋葉原店もかつての店舗位置すらはっきりしないので、探すのは困難でしょう。
残りの4店舗、横浜駅西口本店・大船店・生麦店・鶴見西口店は、形跡があるのでは…
そんなことを思いつき、今回調べてきた次第です。

今回のALiC日進は、平成まで営業を続けたチェーンですから、昭和の記録とは言えないかもしれません。
しかし昭和の頃全盛だったことに変わりはありませんので、取り上げてもいいのかなと考えます。
またこの対象についてはほかの多くの方も調べていらっしゃいます。従いましてこのブログ独自の
発見だとかスクープだとかそういうものではないこともおことわりしておきます。


●横浜駅西口本店

横浜駅周辺は長らく再開発が進まず、最近まで昭和の頃と大差ない景観だった気がします。
それでもデパートが別な大型量販店に代わったり、建物が建て替えられたりと、
少しずつですが様子を変えてきました。近年いよいよ駅前地区の都市開発も盛んになっています。

横浜駅はかなり古い駅ビルでしたが、現在大規模な改装が行われています。
数年後には全く新しい姿に生まれ変わるはず。どんな風景になるのか、楽しみです。

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人口370万の横浜市のターミナルですから、まだ百貨店が健在。
東口にはそごう、西口には高島屋が盛業中です。
かつては三越もあって、高島屋と共に西口のランドマークとして輝いていました。
しかし百貨店全盛の時代は去り、三越の建物は今ではヨドバシカメラに。
三越がここまで衰退してしまったこととヨドバシカメラがこんなに巨大になったこと、
どちらもあの頃は予想すらできませんでした。

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ALiC日進の本拠地でもあった横浜駅西口。
ただし横浜駅西口本店があったのはこの駅前広場ではなく、ちょっと離れた所です。
高島屋の周りを迂回して、その場所へと向かいます。

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相鉄の駅辺りから西に向かってまっすぐ伸びる、やや狭い道。
この方面が横浜駅西口の歓楽街で、いくつもの商業施設や娯楽施設、飲食店などが集まります。
以前は家電量販店やカメラ専門店などもこちらに並んでいたのです。

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ビックカメラ。今もこの歓楽街に留まる貴重な大型カメラ・家電店。
斬新な建物ですが、平成初期からあったと記憶しています。

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建物の外観にも度肝を抜かれましたが、なにより驚いたのはビックカメラが横浜に進出してきたこと。
あの頃はヨドバシ・さくらやの取っ組み合いという感じでしたが、そこに乱入してきたのです。
それもこんなに立派なお店を作ってしまったのだから、バランスが一気に崩れました。
ヨドバシが一気に縮んでしまったように見えたものです。当時のヨドバシカメラ横浜西口店は
とても小規模なお店だったんです。

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今ではこの辺りに残るカメラ・家電量販店はビックカメラだけになりました。
この先に東急ハンズはあるけれど、ほかに目立っている大規模店といえばこれくらい。
今や全国規模にチェーン網を広げている、ドン・キホーテ。

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かなり大きなビルです。上層階の壁面が傾斜したシルエット、そして大きな看板が目印。
…と、どこかで見たような建物ですね。

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ALiC日進のCMの最後に出てきた建物と非常によく似てます。
そう、同じ建物です。ドン・キホーテのビル、これがALiC日進横浜駅西口本店だったところ。

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今やどぎついドンキカラーで飾られた、このビル。経緯がいろいろありまして…
21世紀に入ってすぐ、ALiC日進が閉店。その後ヨドバシカメラの店舗になりました。
今まで小さな売り場面積しか所有していなかったヨドバシにとって、大規模店化は悲願でした。
ところがヨドバシカメラはその後も劇的な発展を遂げ、ついに駅前の三越跡に移転。
再び空き店舗となったこのビルに目を付けたのが躍進の一途だったドン・キホーテ…という流れ。

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ALiC日進の時代は昭和らしいシンプルな外装でしたが、今ではこの通り。
同じ建物でも主変わればすべて変わってしまうものです。
24時間営業で早朝から深夜まで輝き続け、かつてを知っているものとしては違和感ばかりです。
でもこれがこの街の風景なのだから、多くの人が肯定的に受け止めているんだと思います。

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さて、私はドン・キホーテの外装とか営業スタイルを観察しに来たのではありません。
あくまでALiC日進の跡を辿るためにやってきたんです。
だから、ちゃんと記録しています。そう、こんなカットの中にも、しっかりと当時の名残が。

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商品搬入口の上部に、ALiC日進の名が輝いていました。
昔は上層階を本社事務所として使っていたのだと思われます。
20年近く前にALiC日進のお店はなくなったんですが、ビルの名称としては今なお残っています。

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地下の売り場はどうなっているんですかね。昔はエスカレーターで下りた途端、プラモデルだらけ。
頭上に売り場を周回するようにレールが敷いてあって、大きな汽車の模型が走ってました。
エンジンで動くラジコンカーやラジコン飛行機・ラジコンヘリまで、濃い品揃え。
当時本気でラジコンヘリが欲しくて、横浜に行くたびに眺めてました。
今のような手のひらに乗るような小型ラジコンヘリでも、小型ドローンでもなくて、
全長1mくらいありそうな燃料で動く本格的なものですよ。
この売場に行くといろんな夢が見られたんですが…
今やどこにでもある、ただのドン・キホーテになってしまった。

ドン・キホーテのビル、すなわちALiC日進ビルの左隣にある、カラオケ専門店。
雑居ビル1棟を借りて営業している、繁華街ならどこにでもありそうなお店なんですが…

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この5階建ての小さなビルが、ヨドバシカメラ横浜西口店の最初の店舗があったところです。

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建物は当時のままなのがわかります。今では巨大店舗ばかりになったヨドバシですが、
カメラ専門店の頃は大型家電もホビーも扱いがなく、この狭いビルで成り立っていたのです。
すれ違いすら大変な狭い通路の両側にあらゆるアイテムが並び、圧縮陳列状態でした。
今のドン・キホーテの狭苦しさより、すごかったかもしれません。
さすがにカメラはたびたび買えませんでしたが、当時写真部所属だった私は
カラーやモノクロのフィルムを買いに、3階だか4階にあった売場に通ったものです。

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元ヨドバシの5階建てカラオケビルの奥に、元ALiC日進の巨大なドン・キホーテ。
…と、この面からALiC日進ビルを見上げると、貴重なものが残っています。

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この側だけは、屋上の看板がALiC日進の時代のまま残されているのです。
これを眺めただけで時代が20年巻き戻されたような、そんな錯覚を受けます。

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隣接の区画には、これまた昭和の残影といえそうな、ダイエー。

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残念なことにダイエー横浜西口店は、間もなく長い歴史に終止符を打つようです。
「サンコー」「マルエツ」という系列スーパーと共に、神奈川県民には馴染みのあるお店でした。

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創業から30年以上続く企業というのは、ほんの一握りなんだそうです。
横浜のこの一角を見るだけで、そんなことが解る気がします。
大手スーパーの代表格だったダイエーが廃れ、家電・ホビーの専門店ALiC日進が消え、
現代で全国規模どころか海外まで店舗網を拡大したドン・キホーテが景色を塗りつぶしていく。
時代の流れというのは世界を変えるけど、時に残酷だなと思います。
私の知っているこの街の風景は、あっという間に新しい景色に作り替えられてしまいました。

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でも、しぶとく生き残っている「昭和」も、こうやって存在しています。
今だからこそ大切に感じるこんな眺め。いつまでの現状のまま残ってほしいものです。

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●鶴見西口店

ALiC日進のテレビCMに出てきたのは横浜駅西口本店だけですから、
ほかの支店については外観が殆ど記録されていないことになると思うんです。
鶴見西口店も、当然映像に出てくることはありません。
ところが映像以外の個人的な記録の中になら、意外と見つかるのかもしれません。
私の持っている記録の中にも、当時の断片がありました。

たぶん平成に入って間もなくの頃だと思うんですが、鶴見駅付近で撮った写真がありました。
朝の時間帯に訪れた時、駅前ロータリーに集結してくる路線バスを撮ってみたものです。
その背景に、偶然ALiC日進鶴見西口店の一部が写り込んでいました。

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このヒントがあれば、店舗跡を見つけることは容易です。
早速鶴見へと行ってみることにします。

30年近くの時間を経て、鶴見駅前のロータリーは様子が一変していました。
昔は中央に植え込みがあって、その周りをバスが回っていた気がするんですが…
あまりに立派になりすぎて、当時と比較することすら困難です。

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ただし方向感覚や位置関係などはすぐに思い出しました。
確かこの辺からあっちのほうを向いて撮っていたはず…とその先を見ると、
どうやらそれらしい外観の建物がしっかりと残っていました。

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バスのスタイルも進化して、建物の外装もカラフルになったけれど…
間違いなくあの緑色のお店が、ALiC日進鶴見西口店だった建物ですね。

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神奈川県内を中心に数多くの店舗を展開しているドラッグストアーチェーンです。
神奈川で発展する企業という点ではかつてのALiC日進と共通した部分がありますが、
こちらは現在80店近い店舗数までに至っていて、比較にはならないかもしれません。
現代的なデザインで当時の面影は薄いですが、建物そのものは改築されることなく使われています。

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もうALiC日進の名残もあまりないし、そもそもこの街に暮らす人の過半数は
過去家電とホビーの専門店だったことなんて記憶から消えているのではと思うんですが…
私はその残影を探しに来ていますから、少しでも拾って帰りたいのです。

で、店舗右側の脇道に入ってみます。何かあるような気がします。

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ありました。ビル名の表示部分に、しっかりと。
「ALiC日進ビル」。横浜駅西口本店跡と同名の、堂々とした名称。

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ALiC日進は、駅ビル店などを除いて自社所有ビルの形で出店を進めていたようで、
そのため現在も建物名としては変わらず存続している…という事情でしょう。
そう、「ALiC日進」は経営破綻して消えていった企業ではないのです。
従って末裔は今でも不動産業などとして存続しているとのこと。
ここも「株式会社日進」所有物件、それをドラッグストアーチェーンが賃貸して営業しています。

よく見ると、駅前のバスターミナル以外はあまり変わっていません。
「ALiC日進ビル」の右隣の不動産屋も、左隣の居酒屋の建物も、平成初期のまま。
奥の交差点角にあるマックの入るビルも、その左に並ぶ雑居ビルも、当時と変わらず残ります。

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この画像を見る限り、一番変わっているのは元ALiC日進のドラッグストアーで、
そのほかの風景はほとんどそのまま保存されているようにすら思えてきます。
時代の変化を探ると変化した部分ばっかり並べようとしてしまうんですが、
この街のように変わらずに残っている駅前風景というのも、各地に結構あるのかもしれません。

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「ALiC日進」については、もう少し調べています。
続きは後日「後編」としてまとめさせていただくつもりです。
 

★お願い★
今回のALiC日進レポについては、当方の記録を参考にしていただくこと、
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(外部からのアクセスが激増して、当方の活動に支障が出る可能性があるためです)。
当方の記録を参考にしたことを説明していただいたうえで、
独自に記事や文章をお書きいただくことには制限は設けません
(「とあるブログを参考に行ってきました」程度で可、
特にこのブログの名称や所在を明確に記載していただかなくても結構です)。
ご協力をお願いいたします。
 
この記事に関しては2018年末の新規取材分です。
現在確認している磯村建設関係の残存物件はここまでとなりますので、
新たな情報を入手できなければこのシリーズは今回分でひとまず完結とします。


●磯村建設はマンション分譲販売も行っていた●

昭和50年代の懐かしいCMでは、東武東上線沿線は男衾・鉢形駅周辺の戸建住宅販売ばかり
宣伝していた磯村建設。だからほとんどの人がこの辺りの一軒家だけを扱っていた業者と
思っているはずですが…ほかにも不動産販売をしていたのです。

ひとつは、前の記事でも取り上げた、別荘地の分譲販売。
そしてもうひとつが、今回書かせていただく「分譲マンション販売」です。

低価格の土地付き一戸建ては埼玉県の辺鄙なところに限定するしかなかったのですが、
これがマンションという形態となればそのような地理的条件では成り立ちませんから、
この事業に関しては全く違うエリアで展開することになりました。東京23区内です。

鉄筋コンクリート造りの大型住宅を作る技術は、磯村建設にはなかったはずです。
いや、この会社は宅地開発・販売に特化した営業形態だったのかと思います。
つまり実際の建物を建築したのは依頼した建築業者や下請けの建設会社。
もしかすると戸建住宅を建てるような大工さんも社内にはいなかったのでは。

そんなわけで恐らく自社の作業員が造ったわけではないと思われるマンションですが、
とりあえず販売・施工が磯村建設の名目となっているマンションがいくつか見つかります。
竣工時期や名称から判断しても、磯村建設の販売物件としてほぼ間違いないはずです。

今回はそんな磯村建設が手掛けた都内のマンションを2ヵ所調べてきました。


●サンハイツ荻窪(東京都杉並区天沼3丁目)

JR荻窪駅北口から歩いて5分ちょっと。
ちょっと懐かしい感じの商店街を進んでいくと、脇道に逸れてすぐのところにこの物件があります。

築年月1973年6月(築45年)。地上4階建て、全22戸。
ちょうど磯村建設の販売が勢いに乗っていた時期に作られたマンションです。
今となっては陳腐な造りですが、当時としてはこれが高級だったのでしょう。

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有名な戸建て住宅のCMと異なり、マンションについてはテレビで見た記憶がありません。
恐らくは新聞広告やチラシ、仲介業者経由などの方法で宣伝販売したのでしょう。
従ってこれらマンションに関しては映像や画像と照らし合わせることは不可能です。
ただし集合住宅形態ということで、販売会社や施工会社の名称は公開されています。
いろいろ探っていくと、磯村建設が関わった物件をあぶり出すことができます。

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磯村建設が開発した住宅地や別荘地に好んで付けた愛称「サンハイツ」。
マンションにも当然反映されています。そしてこのフォント、
当時流行りの字体だったというだけではないでしょう。これだけで充分物証と言えそうです。

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当時は高級なマンションだったのでしょう。でも今見れば質素な造りです。
誰でも出入りできてしまうセキュリティレベルの低さ。玄関の奥にある自転車置き場、
薄暗い廊下と公団住宅並みの各部屋のドア。昭和40年代の匂いがプンプンします。
間取りはワンルームから2Kまで、専有面積も20㎡台から40㎡台までと、いろいろカオス。
時代の変化の狭間に生まれた明らかに中途半端…いや、いいとこ取りな先進設計だったようです。

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入口の上部にはテントのような庇。昔はアピールポイントだったのかもしれませんが、
今では安っぽい小道具にしか映りません。45年の時間はあまりにも長い。
当時学生さんだった世代の一部はもう年金暮らししているかもしれませんから。

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壁の仕上げもレトロ。当時の丁寧は今では雑な処理にしか見えない。靴の踏み跡みたいですもの。
でもそういうところに昭和臭を感じながら暮らすのも、悪くはないのかもしれません。
外観は古臭いけど、部屋によっては新築物件並みにリフォームされています。
投資目的か、古い分譲マンションによく見られる賃貸物件化した住戸もあるようです。
新宿や東京まで乗り換えなしで行ける交通至便な立地、あえてここを選んで住む選択もありかな。
なにより「おれ、あの磯村建設の建てたマンションに住んでるんだぜ!」って自慢できます。
…いや、たぶんおっさん以上の相手でないと全然驚いてくれないと思うんですが…

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「サンハイツ」という名は住宅名としてはとても使いやすいようでして、
荻窪界隈を眺めれば同名物件や類似名物件がいくつもあるようです。
把握している限りで「サンハイツ荻窪」の名称の建物はここのほかに3棟、
「荻窪サンハイツ」の名称は1棟、それぞれ存在が確認されています。
ただし、磯村建設が手掛けたものはここだけですので、お間違いなきよう。

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●サンハイツビュー赤塚(東京都練馬区田柄2丁目)

例の男衾辺りの分譲住宅のCMには、クリーム色の東上線電車が出てきました。
だから「磯村建設=東武東上線」のイメージが強い方も大勢いらっしゃると思います。
池袋から小川町まで、急行で1時間20分近くかかったはず。
磯村建設の住宅を買うと、もれなく毎日往復3時間の列車旅が付いてきた。
…ところが、池袋からたったの14分で着いてしまう、そんな磯村建設の住まいも存在したのです。

東京都練馬区、国道254号。都心から伸びるこの幹線道路、通称「川越街道」と呼びまして、
この先は例の東武東上線と並行して埼玉県へと向かう道なのですが、今回の建物があるのは
この川越街道沿い。都内市街地に堂々と建てられた、かなり異色な磯村建設の分譲物件です。
じつは磯村建設の本社は東京都練馬区にあったんですよ
(ただし登記上の本社所在地、実質的な本社機能は西新宿に置かれていました)。

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男衾駅から徒歩20分、畑の果てにある孤立したような住宅地。
それとは正反対のロケーションに、ドーンと建っている磯村のマンション。

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1階は某「安売りの酒屋」さん、2階はオシャレな美容室。
なんのなんの、平成の終わりになってもまだまだ元気な磯村の建物が、こうして存在しているのです。

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東京メトロ赤塚駅徒歩1分、東武東上線下赤塚駅徒歩2分。
都会ど真ん中の好立地、交通至便。
殆どの人は知らないだろうけど、こんな磯村建設もあった。
だから名前もちょっとハイグレード、「サンハイツビュー」ときた。
カタカナ部分の最後の辺、ちょっとフォント配置間違っちゃった感に、微かな磯村臭。

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これまた磯村建設が施工会社になっていますが、この規模のコンクリート建てなど
作る技術はないはずで、現実はどこかの建設会社に丸投げで建てたものと思われます。
解りやすく言うと、現代のイオンで売られている「トップバリュ」各商品みたいなものですな。
築年月は1975年5月(理由は不明だが1974年11月~12月という情報もありはっきりしない)。
荻窪より少し新しいが、やはり45年近く経年している。7階建てで全25戸。
間取りはいくつかのタイプがあるが、全体的に単身者向けの1K~1LDKが大半の模様。
もともと分譲だが当然のように賃貸化した部屋も出ているようで、
不動産情報を見ると賃貸相場と中古販売相場の両方が見つかります。
賃料6~9万、販売価格600万~900万といったところで、すなわち10年分の賃料で買えます
(当然ですが購入の場合は手数料や修繕費、固定資産税等が発生するのでお得とは断言できません)。

古い建物ながらほどほどのリニューアルは受けており、例えばエントランスは
作り自体は古くて狭いですが、オートロックが追加設置されていて、
不審者をシャットアウトするような対策は施されています。

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一応磯村物件を観察しに来たということで、御用がないわけではないんですが…
たぶんそんな理由で申し出たところで許してくれないと思いますから、
おとなしくこれより手前で眺めるにとどめておきましょう。

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1975年辺りにできた建物ということで、当時の意匠が散りばめられています。
今でこそ古臭くてマイナスイメージかもしれませんが、あの頃はこれが最先端でした。
新幹線がやっと博多まで伸び、蒸気機関車の牽く列車がなくなった時。
まだフィンガー5とかザ・ピーナッツとかがテレビに出ていた頃。
家庭用ビデオデッキとしてソニーのベータマックスが販売開始になった年。
あの時代は今よりもっと希望があった。それは間違いないと思うんです。
磯村建設も発展する一方で、まさか10年後にあのような結末を迎えるなど、
誰も予想していなかったんでしょうね。

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磯村建設は会社もろとも跡形もなくなってしまったけれど、その会社が販売した
マンションは今なおこうして密かに残っています。耐久性はほかに劣ることもなく、
戸建含めて欠陥住宅とか粗悪物件ではなかったということでしょう。
今も男衾駅徒歩20分の宅地には磯村建設の分譲を購入した一軒家に済み続ける人がいて、
ここには便利な物件として好んで移り住むか若者がいる。たいしたものです。

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国道254号川越街道は、都内に住むマイカー所有の方々なら普通に通行する道のはずです。
こんな場所にある、隠れた磯村建設の置き土産。ここを通る時にはちょっと意識してみてください。
ピンクの看板の酒類安売り大手「カク●ス」が目印ですよ。

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★お願い★
今回の磯村建設レポについては、当方の記録を参考にしていただくこと、
また記載を転記することに制限は設けませんが、直接のリンクはご遠慮ください
(外部からのアクセスが激増して、当方の活動に支障が出る可能性があるためです)。
当方の記録を参考にしたことを説明していただいたうえで、
独自に記事や文章をお書きいただくことには制限は設けません
(「とあるブログを参考に行ってきました」程度で可、
特にこのブログの名称や所在を明確に記載していただかなくても結構です)。
ご協力をお願いいたします。
某ブログに掲載していた文章の転記です。閉鎖を予定していたのですが、
考察的資料として需要があるようですので、ここで改めて公開とします。
本文の最後に記載しましたお願いをお守りいただければ、
情報のご利用については制約を設けません
(ここへのリンクやこのブログへの誘導になる記述、また転載はお断りします)。
現地を訪れる方はマナーを守って住民の方々に迷惑にならないようお願いします。

 

 

過去に磯村建設の分譲地については2回に分けてお送りしています。
埼玉県寄居町の「柏田ニュータウン」「ひばりヶおか」。
これらは過去記事に詳細を載せていますので、ご覧ください。

 

 

 

 
●じつは磯村建設は戸建住宅以外の不動産も扱っていた●

 

 

 

テレビCMでは埼玉県寄居町の主に「男衾」「鉢形」両駅近隣の分譲地を扱っていて、
そのほかの事業についてはなかなか目にすることはなかったのですが、
磯村建設はその他の形態の不動産販売にも関わっています。

 

 

一つは集合住宅販売。いわゆる「マンション」のことです。
昭和50年代に都内数ヶ所のマンションを新築し、分譲の形態で販売しています。
宅地と同じく「サンハイツ」という名を付けられた建物が多いのも特徴でしょうか
(サンハイツという名の共同住宅は都内に無数にあり、よってこの名のほとんどは
磯村建設とは無関係ですから、名前だけで磯村の建設物件と特定することはできません)。
磯村建設の本業は戸建て住宅の新築と販売、マンションはあくまで販売会社としての
関与であり、建築を請け負ったのは別な業者だと予想されるのですが、
登記や資料等では下請けは表れませんから、磯村建設の建築と記されています。
耐用年数が長く取られているコンクリート建てですから現代でも残存していますが、
マンションというのは外見から建設会社の名称は知ることはできません。
テレビCMの資料映像もなく、これらを磯村建設の残影として結びつけるのは難しいのです。

 

 

そしてもう一つが別荘地の販売。
住宅地の開発・販売と同様に、関東周辺の数ヶ所で別荘地を販売しています。
建物付きで売られたようですが、住宅以上に荒廃が早く進んだようで
一部の別荘地はすでに姿を留めていないに等しい状況になっているようです。
これまた現代にCM等の公開情報がなく、なかなか見えてこない部分ではないかと思いますが、
かつての磯村建設は実際にこの事業も行っていたのです。
判明している限り、最低でも2ヶ所の別荘地販売が確認できています。
一つは茨城県鉾田市の、旧大洋村の海岸付近。
もう一つが群馬県嬬恋村、浅間山北東側の森林地帯。

 

 

今回は群馬県嬬恋村にあった、磯村建設開発の別荘地にターゲットを絞ります。

 

 

 

●群馬県嬬恋村 磯村建設の別荘地「サンハイツ白樺の里」●

 

 

 

この別荘地の情報を特定したのはもう2年近く前なのですが、
埼玉県内の宅地分譲と比べて地味で知名度もなく、
成果も限定的と思われたので調査を先延ばしにし続けていたのです。
しかし時間が経過するほど現地の状況は変化してしまうはずで、早いほうがいい。
2018年の年明け、ちょうど群馬県に用事ができましたので、思い切って足を延ばしました。
ついに磯村建設の別荘地の様子が明らかになります。
CM画像と照らし合わせることはできないので物証にたどり着くのは無理でしょうが、
とりあえず現地の詳細については公開しておく必要があると考えたのです。

 

 

群馬県嬬恋村は、避暑地として知られた場所です。
位置的にはこの辺り。軽井沢の北側、草津の南側。
よく「北軽井沢」と呼ばれる一帯ですが、軽井沢町は長野県。
北軽井沢は群馬県長野原町と嬬恋村の一部を指し、軽井沢地区とは別の場所です。

 

 

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もうちょっと地図を拡大してみます。
都内からアクセスする場合は軽井沢から向かうのが一般的。
上信越道を降りて40~50分ほど走ればたどり着けると思います。
近くには浅間山の火山博物館や「鬼押出し」という溶岩の眺めを楽しめる名所もあります。
草津温泉と絡めての観光やレジャーも楽しめ、人気のエリアです。

 

 

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都心から比較的近く、自然も豊かで観光地も豊富、そして夏涼しく避暑に最適。
条件が良い北軽井沢一帯は高度成長期の頃から別荘地開拓が盛んに行われてきました。
昭和50年代に急成長した磯村建設も、それに加わろうとこの地に乗り出したものと思われます。
主に針葉樹が広がるこの辺りの森はあちこちが別荘地化されていて、車で走ると
「○○別荘地」「貸別荘」「別荘売買」などの看板ばかりが目につきます。

 

 

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磯村建設が開発した別荘地は、嬬恋村の鎌原という場所にあります。
この地名は嬬恋村の広域に設定されているもので、他社が開発した別荘地の多くも
同じく鎌原という地名が付いてきます。あまりに広いのでこの地名で地点を特定することは不可能。
地元の人に「鎌原に行きたいんですが」と聞いても「この村の南側はみんな鎌原、
この森の全部も、向こうの山の上も、浅間山のてっぺんもみんな鎌原だ」と言われるだけ。
仮に地番まで判っていてもこれまた無駄で、ピンポイントどころか大体の位置も絞れません。
ここと同じ地番は、西側一帯に数キロ先まで広く存在しているためです
(どうやらこの辺りの地番は標高を元に設定されるようで、等高線沿いに長く広がっています)。
数キロ離れた別荘地も、そして観光地の鬼押出し園も火山博物館も、みんな同じ地番。
枝番が違うのでこれが識別箇所ですが、5桁まであるほど膨大で、途方にくれます。
これまた村役場の帳簿に登記される目的のもののようで、複雑怪奇。
数字順に並んでいるわけでもなく、その詳細は地図にも載っていません。
ですから余所者は業者の案内図などを頼りに行くのが唯一の方法となってきます。
無論、磯村建設が廃業して30年以上経つ今、開発会社に訊ねることはできません。

 

 

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この別荘地が磯村建設所以の地であることは、いくつかの情報からわかります。
一番決定的な情報はこちらに住まわれている関係者の方々ということになりますが、
そういう情報元についてはご迷惑になるといけませんからここには書きません。
ご興味がある方は各自でお調べください(節度ある姿勢でお願いします)。
要点のみ書くと、昭和49年から58年までの10年に渡り磯村建設が開発した
別荘地が、今回取り上げる「サンハイツ白樺の里」です。
とりあえず関連事項として、こういう不動産広告が見つかります。
昭和51年の建物ということで、時代としても重なるのではと思います。

 

 

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「鬼押出し園」。浅間山の噴火による溶岩流が広がる一帯を観光公園化したスポット。
「鬼出ハイウェー」という有料道路を来れば容易に着きますが、ちょっと遠回りすれば
一般国道などを経由して通行料をかけずにたどり着くことも可能です。

 

 

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その鬼押出し園の前、道路がループするようなロータリー状の向かい側に、
森の中に入っていくような細い道が見えます。

 

 

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ここに怪しげな案内看板が。「サンハイツ白樺の里」。
サンハイツと言えば「サンハイツめじろ台」などという名で販売された、磯村建設の分譲地。
この名称は磯村建設が好んで使ったもので、前述のようにマンションにも名付けられています。
サンハイツのフォントが意味ありげ。磯村が関わったマンションにも多く使われた字体の模様。

 

 

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この看板に従えば、容易に別荘地まで行けます。
そう、この看板にたどり着くまでの情報収集が、現地を特定する苦労の大半を占めるのです。
ここまで来てしまえば、その場所に行きつくことはもうほとんど困難はありません。
先ほどの看板からすぐ近く、左に折れる道があり、ここにも看板が出ています。
ここを入れば「サンハイツ白樺の里」までは一本道です。

 

 

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1月なので北軽井沢は雪景色。夏場は賑わうこの辺りもこの時期観光客はまばらで、
別荘に訪れる人もいないのでしょう。雪道にはタイヤの跡は少ししか残っていません。
とにかく、先へと進んでみましょう。本当に磯村建設の別荘地はあるのでしょうか。

 

 

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「白樺の里入口」というゲートというかアーチというか。
ここから先がいよいよ磯村建設が開発したエリアと言うことのようです。

 

 

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薄れた字で「関係者以外は無断で立ち入らないでください」と書かれています。
許可を取ろうにももう磯村建設が存在しないのですからどうにもならず…
それに現代ではこの奥にペンションや貸別荘ができて、関係者以外でも
通行する状況になっています。磯村建設が消えた段階で、この表示も無効になったらしい。

 

 

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さらに先へ進んでみます。しばらくは森が続くだけで建物はないんですが、
ちょっと行くと家がポツリポツリと現れます。そろそろ目指す場所に着くようです。
ちなみに木々は針葉樹がほとんどで、名称になっている白樺はあまり目につきません。

 

 

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真新しい建物があります。思いのほかこの別荘地は賑わっているのかな?
この建物は現役のペンション。サイトもあり予約も簡単にできます。
もっとも1月のこの時期はお客さんはいないようでしたが…。

 

 

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このログハウスもまだ新しいですね。ということは、磯村建設が倒産してから
だいぶ後の建築ということでしょう。当時を偲ぶものではなさそうです。

 

 

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ペンションがもう1軒。シーズン中は喫茶店も営業しているようです。
今は雪の景色で北軽井沢も閑散期。シーズンオフで一時休業中なんでしょうか。

 

 

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…いやいや、これは無期限休業中でしょう。正確には「廃業」に等しい。
すでに建物は劣化が進んで、屋根の一部が風化して破損が始まっています。
こうなると内部はかなり朽ちてきているはずで、補修は容易ではないでしょう。
軽井沢というと何となく今なお華やかな高級別荘地という印象なのですが、
群馬県側の北軽井沢に限ってはあまり景気のいい雰囲気ではないような感じです。

 

 

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今度は「白樺の里管理事務所」というアーチ。
矢印の差す道路左側は空き地があるだけで、それらしい建物は見当たりません。
もう磯村建設が廃業して30数年が経過します。状況は大きく変化しているのです。

 

 

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錆付いた看板。ここが開発された当時はいろいろ記されていたんでしょうけれど、
もう赤錆だらけで何が書かれていたのか読み取ることは困難です。
そもそもこれを眺めるような来訪者もなく、役割は終えているので問題もないのでしょう。
一応写真だけ撮りましたが、あまりの荒れ具合に寂しくなっただけでした。
…しかし、この1枚の画像はのちに大きな価値を生み出すことになります。

 

 

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三叉路にカーブミラーが設置されていて、何やら小さな看板も見えます。
じつはこの地点が、磯村建設が開発した「サンハイツ白樺の里」の中心地付近。
近くには管理事務所があり、そのほかの施設もこの付近に集中していたようです。
テニスコートもあったらしいのですが、荒れ果ててしまって今ではただの空き地。
人の姿も全くなく、現在は寂しさだけですが…昭和50年代は賑わったのでしょう。

 

 

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その三差路の角に、この建物があります。
やはり屋根裏の一部の板が抜けて荒れていますが、よく見ると
「ショッピングストアー」「レストラン」という文字が残っていました。
この別荘地がオープンした当初、買い物や食事ができる店舗だったようです。
現在はこの建物が「白樺の里管理事務所」となっています。
磯村建設が廃業後、この別荘地は別な業者が引き取って続いていたようなのですが、
その業者も経営者が他界して会社清算。現在は自治組織的な形で維持されているようです。
この建物も所有者が何度も変わったりして権利が複雑化しており、
現段階で法的にどうなるかもわからないらしいのですが、暫定的に維持されていて
管理事務所への活用がされている…という事情のようです。

 

 

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そしてここからが「サンハイツ白樺の里」。昭和50年代に磯村建設が開発した別荘地です。
もう何も残っていないかと思ったんですが、どうやらたくさんの別荘が並んでいるようですよ。
会社はなくなっても購入者が守っているのなら残って当然。ここはまだ廃村ではなかった。

 

 

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…と、ホッとしたのもつかの間。別荘はたくさん建っているけど、なんだかおかしな気配です。
ちゃんと姿は留めているけど、生気がない。主のいる様子がない家々が多数。
この建物もそう。悲惨な荒れ方ではないのですが、でも誰かがやってくる感じもしない。
分譲地の家とはまた違う荒廃を辿るのが別荘地なのかもしれません。
避暑などで必要な時には主が来ますが、必要がなければ誰も来ないのです。
ここの主はもうこの別荘に飽きてしまったのか、あるいは来られない事情ができたのか。

 

 

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明らかに打ち捨てられた家が、いくつも並んでいます。
建物を見ると、男衾辺りで見た磯村建設の分譲物件と同じような匂いを感じます。
昭和50年代の陳腐なデザインと、貧相で簡素な建築手法。
ああ、ここはやっぱり昭和50年代に作られた磯村建設の別荘地なんですよ。
あの頃ちょっと背伸びして北軽井沢の別荘を手にした人々は、今どのくらいのお歳でしょう。
バブルが崩壊した後、ここに戻って来られなかったオーナーはどれくらいいるんでしょう。
この別荘地にはいろんな事情が絡んでいるのかもしれませんね。
何しろ開発した磯村建設ですら、バブルまで持たなかったのですから。

 

 

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箱型で見るからに面白みのないデザインの家。
休暇で北軽井沢の自然の中まで来て、こんなスクエアな空間ですか。
なんだか都内の葛飾区とか墨田区辺りの住宅密集地にあるみたいな造り。
これでは21世紀の若いオーナーは誰も欲しがりませんよ。
昔は別荘を持つだけで夢は叶ったかもしれないけど、今の人は違う。
夢を叶えるために無駄なものには、安くても投資なんかしませんから。
この別荘はもう役目を終えました。あとは崩れるのを待つだけですね。

 

 

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車で一帯をぐるっと回りますが、どこも同じような状況。ほぼゴーストタウン。
人が少ないだけではなくて、別荘地全体が放棄されているような雰囲気です。
もちろんしっかり手入れされて使われている別荘もあるし、
ペンションとか貸別荘として活用されている現役の建物もあります。
それらは綺麗なカーテンが吊るされていたり、窓越しに家具や家財が見えたり、
ちょっと眺めただけですぐわかります。そういうものが一切ない「廃屋」が多いのです。
現役はわずか2割くらい、3割は放置、残り5割はもう二度と人が来ることのない建物です。

 

 

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この別荘地の電話回線の維持管理は、21世紀の今もなお電電公社が行っているようですよ(笑)。
こんなところにまで残っている、昭和のあの頃。

 

 

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群馬の山奥だから、クマも出ます。自然とはそういうものです。
駆除とかではなく、共存を考えるべきところです。
開発したのは人間だけど、この山は人だけのものではないのですから。

 

 

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さらに無人の別荘地をぐるぐる。傍から見たら怪しさ満点ですが、
ちゃんと調査研究という目的で来てますから、屁理屈としては正当です。
…と、ずっと眺めていて気付いたのですが、この別荘地の物件はどれも、
自分が考えていた別荘というものとちょっと乖離したコンセプトなのかなと思うんです。
ふつう別荘というのは、日ごろを忘れてゆったり気ままに過ごすためのものですよね。
家は小さくても開放感があるだとか、近隣との面倒から解放されるだとか。
しかし、どうも磯村建設の別荘地は「お手頃価格」を優先するあまり、
そういう別荘に求められる諸条件を犠牲にして作られたものなんじゃないかなと感じます。
これらの建物、たぶん戸建ての別荘ではないんですよ。「共同住宅タイプ」ではないのかなと。
1階と2階で間取りも窓位置も同じだとか、一つの建物に同じ構造が連なっているだとか。
恐らく1棟を複数のオーナーで共有して、それで販売価格を下げていたのでは?
私は別荘の事情に詳しくないから、断言はできませんけどね。

 

 

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こんな感じのアパート風の建物もありました。推定で8~10部屋くらいでしたかね。
いやいや建物の真ん中に廊下があるようだから、左右10部屋ずつで20部屋くらいあるのかも。
合宿などで使われる建物ならいいのかもしれませんが、別荘としてはどうなのかな。
ここまで来てアパート暮らしでは全然非日常感を感じないし、
そもそも最初からリゾートマンションを買ってしまったほうがいいのです。
当時は「別荘を所有する」というのがステータスだったのかもしれませんが、
今は無駄なものを所有することはステータスにならず、結果的に負の資産と
化したのかもしれません。造りとしてもチープで、心安らぐ感じではないですよね。

 

 

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これも大きな戸建てかと思っていたら、よくよく見れば「連棟タイプ」。
外壁にギャップを付けて4分割していますが、それぞれ同じ構造とされています。
煙突も各々についていますから、これはオーナー4人で共用する建物ということです。

 

 

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やはりあちこちの板が抜けて、もう内部から朽ち始めています。
よく言われる「空き家は時々窓を開けて換気する必要がある」は、本当なんですね。
この手の「複数オーナー共有タイプ」の物件、確かに手頃な価格で買えたと思いますが、
購入前によくよく考えておくべき重要な問題点がありました。
「4名のオーナーのうち一人が欠けた段階で一気に朽ちていく」のです。
3世帯が丁寧に手入れを続けても、1軒が湿気をそのままに放置したら、
建物全体に悪影響が生じて程度が一気に悪化していきます。
そのなれの果てが、今のこの状況。

 

 

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このタイプの建物の一部は今でも現役で維持されていて、売りにも出ています。
建物だけしっかりしていれば、住み続けることは可能です。
ただし連棟タイプですからアパート暮らしみたいなもので、隣家が気になるはずですが。
不動産情報にも載っていますが、よく見るとこの辺のことも記されています。
やっぱり連棟の造りなんですね。所有権4分の1は魅力に見えますが、裏を返すと…

 

 

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ちょっと作りは違うけれど、やっぱりこれも4軒の連棟タイプですね。
現代で言う「メゾネット」というタイプのアパートと同類です。
そう、この別荘地は主にアパートで構成されていたんですね。
それも大家がいない、オーナー共有というタイプのアパート。
年数回しか訪れない別荘にこのタイプは、だいぶリスキーだったはず。
管理会社はメンテをしてくれたかもしれませんが、なにせ肝心の磯村建設は…。

 

 

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自然のままの地面に建てられたせいか、床下換気のためなのか、
あるいは冬季の積雪と関係があるのか、多くの建物が「高床式住居」のように
地面から浮いた状態で建築されています。どうもこれもマイナス要素のようで。
地表から水蒸気が上がるんじゃないでしょうか。建物が下からも破壊されています。
玄関の木製のドアは、下から腐って破れて、大穴になっています。
もう人の住まいでもなんでもありません。取壊しを待つだけです。

 

 

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放置された住宅は、オーナーがいないと取り壊し費用も出ないようです。
この別荘地は空き家が過半数となったことで、全域が荒れ果ててしまっています。
磯村建設が勢いに乗って北軽井沢まで進出、華やかに売り出した「サンハイツ白樺の里」。
しかし数年で磯村建設は倒壊、購入者にはローンが残りました。
その後訪れたバブル崩壊、不景気の時代、そして経年による建物の荒廃。
今なお大切に維持されている一部を除き、残るものはほとんどないのでしょう。

 

 

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それでも荒れ果てた一部の別荘は解体されて、新たに別荘地として売られています。
土地だけなので値段はお手頃のようですが、周りのこの状況を見て
わざわざこの場所に新しい家を建てようという人は、どれくらいいるんでしょうか。
今日本の景気は上昇の一途だそうです。しかし庶民には実感もなく無縁な話。
限られた一部のお金持ちがここを買うんでしょうかね…なんだか見えてこないんですよね。
いろいろ考えさせられた、今回の別荘地探訪でした。

 

 

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●磯村建設の物証となりそうなものは、はたしてあるのか●

 

 

 

埼玉県寄居町の旧磯村建設分譲地についても、特に名前が残っているわけではありません。
当時を確認する唯一の情報は動画サイトなどに残る当時のCMだけ。
あの映像に写っている家を確認することで磯村建設が関与した物証にしているだけのことです。

 

 

ところがこの別荘地はCMが残っていません(そもそもCM放映になった可能性すら低い)。
よって物証の類は期待せず、単に現地訪問の意味合いだけで実施することにしたのです。
それでも人間欲が出ます。何とか証拠を残してきたいという願いが出てきます。

 

 

いろいろ調べた結果、一応下記の設備などに名残がある可能性があります。
ただしこれらがどういう形で残っているのか、その辺りの確認が取れないままです。
恐らく残存はしているのですが、確認できても名称までは表示されていないでしょう。
一応並べておきますので、私の後を継いで調べてくださる方、参考にしてください。

 

 

・「サンハイツ白樺の里」関連施設(磯村建設の名が残るもの) いずれも嬬恋村役場管轄
 ①磯村配水池  所在地:鎌原1053-9128
 ②防災行政無線施設屋外拡声子局47号(旧磯村建設) 所在地:鎌原1053-9031

 

 

市販の地図やネット上のマップなどでは、これら地番は表示されないので特定は不可能です。
別な資料を当たれば絞り込めると思いますが、くれぐれも役場などに迷惑にならないよう、
慎重に行っていただければと思います。
私も調べてみようと思いましたし、現地でも回りながら気にして見ていたのですが、
残念ながら探し当てることはできませんでした。

 

 

 

●限りなく確実性の高い「磯村建設絡み」の証拠を発見か?●

 

 

 

しかし、何も残せないままでは調査結果としてはあまりにも中身がないじゃないですか。
なにか磯村建設の手掛けた気配だけでも残せれば、この調査は意味を持つものになるんです。
とはいえここから何を記録してこいというのでしょう。虚しさだけが残ります。
…と、その残影は意外な記録の中に隠れていました。

 

 

さっきの錆付いた看板の画像です。
これには「サンハイツ白樺の里」の地図が描かれていたようなのですが、
ご覧の通りすっかり劣化が進んで、もう内容を確認することはできません。

 

 

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それでも各部を詳細に調べてみると…
この解読不能の看板の中に、かろうじて読み取れそうなものが三つほどありました。
現地では全然気づかなかったので、帰宅後に記録画像を分析しての成果です。
順に見てみます。

 

 

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まずは左上の①部分。
これは管理事務所があった付近の配置地図です。
「管理事ム所」という文字のほか「テニスコート」という表示もあります。
恐らくこの看板の付近にはいろいろな施設がまとまって存在したのでしょう。

 

 

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そして右側の②。
「サンハイツ白樺の里」という、この別荘地の名前がうっすらと残ります。
ここまでは磯村建設の証拠になるものではありません。問題は次の箇所です。

 

 

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そして看板の一番下の③の部分。
一番下の部分は鉄板の風化も激しく、かなり劣化が進んでいます。
しかし、どうやら数字が書かれていたようなのです。
恐らくは電話番号です。ここを管理していた会社の電話か何かですかね。
この数字が判読できれば、そこに問い合わせしてみたら何かがわかるかもしれない。
その会社が今も存続しているなら…という条件付きですが。
とはいえ、この状況では数字は読み取れそうになく、その手段は断たれました。
…と、ここで気づいた。なんか見覚えのある数字がいくつか確認できる気がするんです。
途中に完全に脱落している数字がありますから断定はできませんよ。しかし…
これ、もしかしたら決定的な証拠の一部なんじゃないかなと考えるんですよ。

 

 

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数字の残っている部分だけ確定して、欠けている部分を推測すると…
「☎東京03-343-4911(代)」
になりませんか?

 

 

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あくまで推測です。しかしかろうじて残っている記号と文字・数字を並べると、
欠損している何かのほうが少ないわけで、たぶん50%以上の確率でこれは物証です。
この看板がすべて読めた頃には、電話番号と共に「磯村建設」の社名があったはず。
それを確認できないのが心残りですが、今だからこそ辿り着いたことに価値があるのです。

 

 

ほんの僅かの物証と人々の記憶の中に、かろうじて残る磯村建設別荘地。
CMという決定的な記録の陰で忘れ去られたままの残像は、
今なお群馬の自然の中で静かに時を刻んでいます。

 

 

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★お願い★
今回の磯村建設レポについては、当方の記録を参考にしていただくこと、
また記載を転記することに制限は設けませんが、直接のリンクはご遠慮ください
(外部からのアクセスが激増して、当方の活動に支障が出る可能性があるためです)。
当方の記録を参考にしたことを説明していただいたうえで、
独自に記事や文章をお書きいただくことには制限は設けません
(「とあるブログを参考に行ってきました」程度で可、
特にこのブログの名称や所在を明確に記載していただかなくても結構です)。
ご協力をお願いいたします。

 

 

某ブログに掲載していた文章の転記です。閉鎖を予定していたのですが、
考察的資料として需要があるようですので、ここで改めて公開とします。
本文の最後に記載しましたお願いをお守りいただければ、
情報のご利用については制約を設けません
(ここへのリンクやこのブログへの誘導になる記述、また転載はお断りします)。
現地を訪れる方はマナーを守って住民の方々に迷惑にならないようお願いします。


昭和CMから辿る、かつての企業が残した遺跡の探訪シリーズ。
磯村建設・続磯村建設に続き、ついにこれに着手しました。


[はじめに 新栄電機とは]

かつて東京都西部および千葉県・埼玉県内に店舗を展開していた家電販売チェーン。
昭和を知る世代には、先日公開した「磯村建設」とともに、
古典的なCMの双璧として、今なお親しまれています。
昭和40年代~50年代前半に制作された、画質が悪く見るからに古い時代のCMを、
平成に入るころまで流し続けていた、貴重な企業。
磯村建設より後まで営業を続けていたものの、2003年に経営破綻、自己破産しました。





廃業からすでに13年。すでに形跡はほとんど見つけられない状況で、
人々の記憶に残るこのCMがこの家電チェーン唯一の名残と言えます。

…しかし、今もかろうじて当時の面影を辿れるという噂もあります。
ですがまだネットにその様子を公開しているところは皆無です。
ここは磯村建設に続いて、新栄電機も探して記事にしてやろうじゃないの…
ということで、今回調査を行うことにしましょうか。
さて、新栄電機の残像をなにか見つけることができるのかどうか。


●新栄電機の店舗跡に行ってみる●

今から13年前に営業を停止した新栄電機。
その様子を見ようと過去の店舗跡などを訪れても、
もうほとんど名残は残っていないのが実情です。
そのせいか、ネット上にもその様子を紹介したところは皆無に等しいようです。

磯村建設はもう30年以上前に倒産しているが、分譲された家屋は購入者の所有だから、
その家が建て替えられたり取り壊されない限りは今も残っているわけです。
しかし新栄電機はビルやテナント、倒産すればその跡地にはすぐに別な店が入り、
同時に新店の外装や表示に改装されてしまうから、形跡は残りにくい。
倒産後13年程度の新栄電機を辿るのは、磯村建設より困難だったりします。

たとえばここ。かつて新栄電機堀切店が入っていたビル。
ご覧のようになにも形跡なし。今はドラッグストアが入っています。

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新栄電機の店舗は最盛期で20数店あったようですが、どこも似たような状況のようです。
そもそも磯村建設のように多数の分譲住宅が画面に登場するCMではなく、
主に店内撮りだから店舗外観が記録に残っているわけでもない。
映像と現地の物証を照らし合わせるという辿り方は、新栄電機では困難なんですね。


●亀有に行ってみる●

東京の下町、亀有へ。
ちょうど「こち亀」の連載が終わるということで、早朝の亀有駅には早くもファンの姿が。
私も昔はジャンプを見ていたが、中学に入って間もなく見なくなってしまった。
別に漫画に興味がなくなったわけではなくて、自分のやりたいことがいろいろ出てきて、
なんとなく漫画を見るという時間が無くなっただけなんですが。

亀有に来たのはもちろん新栄電機関係の調査。
ここ亀有は、新栄電機にとって聖地ともいえる、とても重要な地でした。

まずは本社として登記されていたという場所。
ご覧の通り、某有名宅配業者の配送センターがあるだけ。
恐らく元社長の所有不動産か何かだった土地を、破産後に債権整理の目的で
転売され、別の個人や法人が取得してきたものと思われます。

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そして、もう一つの重要な場所。
今はクリニックなどが入っているこのビル、かつて新栄電機亀有本店があったところです。
おそらく1階と2階が店舗、その上に本社や事務所機能が入っていたものと思われます。

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亀有店については別な方が当時の画像を公開しています。
転載は気が進まないので、その画像を参考に復元図を描いてみました。
こんな感じだったようです。ここには確かにあの新栄電機がありました。

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●CMに唯一外観が出てくる、あのお店●

前述の通り、新栄電機のCMにはほとんど店舗外観が出てきません。
唯一それが映るのは、大きなビルに入っているどこかの店。
じつはそのただ一つのCMに出た店舗、現在もビルが現存しています。
新栄電機柏店跡。
おなじみこの映像に映っているビルは、今どうなっているのでしょう。

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どうやら、これっぽい。

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外装は多少変わってはいますが、ほぼそのまま。
新栄電機が入っていたフロアは、今は猫カフェか何かになってるようですね。

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柏駅南口付近からも、このビルは見えます。新栄電機の形跡として、決定的なものの一つです。

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●誰も知らない新栄電機の残像●

最後にもう一つ。うち独自の調査結果を。
東京都墨田区東向島、ここにもかつて新栄電機がありました。
向島店が入っていたと思われるビルが、今も現存しています。

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4階建ての1階2階部分の一部が店舗、ほかは集合住宅として建てられたものです。
当然のことながら店舗部分は完全に改装され、新栄電機の名残はありません。
しかし、このビルには物証がしっかり見られます。

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横の路地に入って行くと、建物の脇にマンションの入口があります。
ここに新栄電機の建物だった証拠が。

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このマンションの名称は、「新栄マンション」です。
築年数は見た感じだと40年強でしょうか。40年前というと、新栄電機が全盛だった時代。
恐らくですが、ここ自社所有物件として建設されたのではないでしょうか。
店舗収入と住宅の賃貸収入の両方を狙ったのかもしれません。
その後新栄電機の破綻後は売却、所有者も変わっているのですが、ありきたりな名だし
特に差し支えないからと住宅名称がそのまま残っている…という事情のようです。

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「たぶんネット初の新栄電機調査レポ」、これで終了です。
ほかにも各店舗の入っていたビルなどがそのまま残っていたりしますが、
この先の調査は現地訪問だけで、特に記録できる物証はないはず。
よって形としての成果を目的とするうちの調査活動は、ここまでとします。
この先は「行ってきたよ」という会話で満足できる方々の担当すべき部分です。
私はこれ以上各店舗跡を巡っても、実績にできるものがないですから。

懐かしい昭和のCMで知られた磯村建設と新栄電機、
二つのレポを終了しましたので、このシリーズはこれで完結とします。
何か新しい対象物をご提案いただきましたら、取り上げてもいいですけどね。
リクエストとかアドバイスがありましたら、是非ともお寄せください。
当時流行りものじゃなく、今の人々の心の中にしっかり残っているもの。
そういうものを発掘する必要が出たら、またその気になるのかもしれません。
何か提案がある方、是非とも課題を振ってみてください。
共感したら、再びそれらを求めて出向こうと思います。

昭和のCMの名残を見つけるレポということで、そちらの話題がお好きな
新しいお客様にもお越しいただきました。ありがとうございます。
このシリーズについては今回で完結となりますので、
新たなものが見つからない限りこれをもって調査活動は終了となります。
次回以降はこの手の話題は扱いませんので、本来の運用に戻ります。
昭和CM関係の話題はイレギュラーなんですよ。
レギュラーを手薄にすると本末転倒ですので、次回から本業に戻ります。
昭和CMシリーズはとりあえず活動終了となりますが、ご了承ください。


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当方の記録を参考にしたことを説明していただいたうえで、
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